ひとつになっても、ひとつになれないよ

伊藤野枝のことが大好きだ。
毎晩すこしずつ栗原康の『村に火をつけ、白痴になれ』を読んでは伊藤野枝への憧れが増していく。

「ひとつになっても、ひとつになれないよ」は目次の時点で最高に面白い小見出しだと思っていた。
これは野枝の結婚観についての章で出てくるフレーズである。

野枝は結婚制度=奴隷制度だと考えている。

・女性は家事や育児など男性のために奉仕をする存在であり、男性の所有物として扱われる。
・女性という所有物の価値は、どれだけ男性の言うことを聞いたか、尽くせたかに依る。

・男女は形式的に平等だと言われるが、ひとたび家庭という形になれば、男性には夫 女性には妻の役割が割り振られ、平等は崩れる。
・妻は夫に養ってもらわなければ生きていけないため、夫の世話をしなければならない。

・夫の浮気は罰せられないのに対し、妻の浮気は姦通罪として厳しく取り締まられる。
・女性は貞操を守るべきとされているが、これは女性は男性の所有物であり所有財産であるから、その経済的物品が持ち主の許可なく傷つくようなことは許されないという考えによるものである。

完全に、なるほどな…という思いでいっぱいになった。
自分が一人で生きていくだけの所得を得られる環境要因のある境遇に生まれたこと、そしてそれを逃さず選択したこと。
運でしかないけれど、失わないようにしたい。

さらに野枝は、男女が愛し合うとき、双方が同化してひとつになろう、ひとつの生活を営もうとするのが普通みたいな空気があるが、それは真の恋愛じゃない、それは破滅への一歩だ、と言う。
これが表題の「ひとつになっても、ひとつになれないよ」の核心だ。

・二人は決してひとつにはなれない。なぜなら二人はそもそも全くの個性を持った別の人だから。
・全く違う二人の人間が、全く違う存在であることを認めながら愛し合うこと、優しくし合うことが真の愛情である。

・しかし、人間は愛するひとが自分とは全く違う存在だということを不安に思い怖がるものであり、耐えきれず結婚制度という分かりやすいひとつの枠に逃げ込んでしまう。
・婚姻という契約を交わすことで、二人はひとつになれたのだと思いたい。
・そして結婚すれば同じひとつの家庭の構成員として、夫や妻という性役割を果たすことに興じる。

は~、なるほど…。なるほど…。
私は愛し合うなら別に結婚なんてしなくても二人で生きれば良いじゃん(しかし今は婚姻することによる制度上のメリットが大きすぎる)と思っていたが、制度における旨みが無くとも、人間は不安から逃げたくて分かりやすい枠に入るものなのかもしれない。

" ひとつになっても、ひとつになれないよ "

不倫しまくり子供産みまくり自由奔放に生きている野枝ですら、いざ結婚するとついつい甲斐甲斐しく夫の世話をしたり客人にお茶を出したりと良い妻としてがんばってしまうというのだから、奴隷根性というのは凄まじいものであろうと思う。

私も別に面白くないのに、したくもない愛想笑いをついしてしまう毎日を過ごしている。
あの伊藤野枝でさえも、意思に反して絡め取られる自己について葛藤していたのだと思うと、より一層好きになってしまう。

最近の読書の話です。