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『キャロル』ー視線の交錯の先

「わかるのは、その人に惹かれるのか、惹かれないのかだけ。」
もし恋愛というものがそういうものであるならば、『キャロル』はそれを見事に表した映画だと思う。

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舞台は1952年のニューヨーク。ジャーナリスト志望のテレーズ(ルーニー・マーラ)は、クリスマスシーズンのデパートのおもちゃ売り場でアルバイトをしている。テレーズにはリチャードという恋人がいるが結婚には踏み切れず、ヨーロッパ旅行に誘われているものの、返事を濁している。そんなある日テレーズがおもちゃ売り場で働いていると、洗練された美しい女性の姿が目に飛び込み、テレーズは一目見て目が離せなくなる。その女性こそがキャロル(ケイト・ブランシェット)で、娘のクリスマスプレゼントを探しに来ていたのだった。
二人は一緒にプレゼントを選び、テレーズは配送作業を済ませるのだが、キャロルはその場に手袋を忘れてしまう。その手袋をキャロルの家に届けるところから、二人の関係は始まる。

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「一目見て恋に落ちる」瞬間を描くことは難しい。しかしこの映画では、なぜテレーズがキャロルに惹かれ、そしてなぜキャロルがテレーズに惹かれたのかということが、鮮明に心に浮かび上がるかのようなのである。
堂々としてエレガントな物腰のキャロルが目の奥に秘めるのは彼女の弱さや脆さであり、
理知的で静かなテレーズの眼差しに秘められているのは彼女の芯の強さと情熱。
彼女たちが惹かれ合った理由がありありと描かれているからこそ、二人のたどる道筋は切なく、残酷なほど美しく感じられた。

そしてストーリーに加えてこの映画で特に美しいのが、50年代ニューヨークの都会的でありつつクラシカルなムードと、16mmフィルムで撮影された詩的な映像。色あせたトーンの色彩がとても美しく、キャロルの赤とテレーズの青を組み合わせた配色も効果的で、そこにベージュやグレーなどのニュートラルなカラーを合わせて画面に統一感が出ていた。そしてインテリアや音楽など、細部にわたるまですべてがとてもシックだった。

そして、二人のファッションがとにかくお洒落。衣装を担当したサンディ・パウエルによると、キャロルの衣装は1952年の『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』などの高級誌を参考にし、流行の先端をいくスタイリッシュでエレガントな着こなし。テレーズの憧れの対象になるような女性像を描いた。一方テレーズは同年代のストリートのファッション写真を参考にし、学生らしくガーリーなテイストながら、写真家としてのアーティスティックな感性も感じさせる、個性的な装い。
どちらも色彩はブラウン系やネイビー、紺、グレーで構成されていて、1950年代初頭のニューヨークのファッションでは、明るい色よりも控えめな色が多かったことを反映しているのだという。また、キャロルの全ての衣装が当時のビンテージ品であるというところも驚きだ。

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キャロルの衣装の中でも象徴的と言えるのが、このゴージャスな毛皮のコート。ベージュとコーラルレッドのコントラスト、そしてさりげなくのぞく濃いブラウンや白のバッグなど、とてもまとまっていて洗練された色づかいで、彼女のセンスの良さが一目で表されている。

しかしこのルックは、ファッショナブルであること以上に、彼女の社会での立場、そして彼女の孤独を大きく示すものに感じられる。彼女が自身の内面を覆い隠そうとしているかのようにも感じられるのだ。

キャロルの着用しているファーコートは、彼女のステイタスを象徴する。リッチで、ある程度の社会的地位にいること。実際キャロルは裕福な夫を持ち、専業主婦として何不自由なく暮らしているように見える。しかし、その立場があるからこそ、彼女は女性を好きであるということを許されない。夫や家族の目があり、同性愛は社会的立場を損ねるからだ。

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一方、彼女がテレーズと一緒にくつろいでいる時は、とても柔らかで曲線的なシルエットであり、より女性的でセンシティブである。衣装においてキャロルの像を作り上げる上では、よりモダンでソフトな印象をつくるために、下着からこだわって、肩のラインの丸みや、ウエストとヒップのラインを大切にしたのだという。

ここに象徴されるキャロルは、テレーズの視点から見たキャロルだろう。センシュアルな部分で惹きつけられるのと同時に、「女性」として憧れる相手。そして、「女性」だからこその苦悩に苛まれつつも、その内面を自分に見せてくれること。
豪華なコートに包まれた中のキャロルは、大人の女性としての風格を感じさせながらも、一人では生きていけない弱い一面をも持ち合わせているのだった。

そのようにキャロルを慕ったテレーズは、キャロルと過ごした時間を経て大人の女性へと変化する。

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自分は男性が好きなのか、女性が好きなのか。
写真を撮ることが好きだけれど、それは趣味なのか、それとも仕事としていきたいのか。
まだ若く、すべてが霧がかったように曖昧だったテレーズだが、キャロルへの激しい気持ちに導かれるようにして彼女は変化していく。

初めて誰かに恋い焦がれ、そして失恋を経験し、彼女は自分自身を知り、写真家としてのキャリアもスタートさせた。最後、キャロルと再び対面するシーンでは、彼女は見事にドレスアップしていて、もう学生のようなあどけなさは感じさせない。一人の自立した女性だ。テレーズの最後の場面の装いで、彼女がどれだけキャロルから影響を受けたかがよくわかり、彼女の中でのキャロルの存在の大きさが垣間見られるように感じられるのだ。

また、キャロルもテレーズとの恋愛を経て、自立した女性へと変化する。以前のキャロルは、夫婦関係が泥沼化していても、娘と離れることが耐え難く、離婚へ踏み切れずにいた。しかし、「娘のためにどうすれば良いのか」を一番に考え、面会権を条件に離婚を決意する。そして、家具店のバイヤーとして一人で生きていくことにしたのだ。

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このストーリーは、二人の女性がお互いと出会い、恋をし、別れ、そして再び出会うことで、お互いの存在を通して自分自身と向き合い、進むべき道を決断する物語である。女性同士であるからこそ、困難に立ち向かわなければならなかったけれど、そこに描かれているのは、男女の恋愛と少しも変わらない、普遍的な恋愛の形に思われた。

私がこの映画が好きな理由は、「女性と女性」という特異性が全く排除されていて、人としての恋愛のあり方が、とても自然に・鮮やかに描かれているところだ。またこの映画では、女性が恋をした時の心理がとても細やかに、丁寧に描かれていると思う。女性が恋に落ちた時、どういう感情の動きになるのか、肉体的に誰かを欲しいと思うことはどういう感情か、女性のセックスの喜びは何か。

昨今同性での恋愛を描いた映画が多いが、そこに共通しているのは、“心の底から分かり合える関係”ではないだろうか。オトコとオンナとして、見る・見られる、口説く・口説かれる、誘う・応じるといった即物的な関係を超え、精神的な繋がりに重きをおいた関係、自分が側にいたい人と一緒にいるという、関係の純粋さ。そういったものを人々は求めているのではないだろうか。

また、この映画はLGBTQに加えフェミニズムの文脈に置かれることが多いが、最初にこの映画の原作が生まれた背景に着目すると、
『キャロル』は1952年にアメリカ人女性作家であるパトリシア・ハイスミスにより、『The Price of Salt』という題名で出版された。当時女性がこのような小説を出すことはセンセーショナルなことであったため出版社からの反対を受け(そしてパトリシア自身バイセクシュアルだった)、偽名のクレア・モーガンとして、しかも題名を変えて出版されたのである。しかしこの小説は100万部以上を売り上げ、その後絶版になるたびに、レズビアンやフェミニストたちの熱いリクエストに基づき、何度も再版されることとなったのだ。

確かにこの物語は女性同士の恋愛を描いているし、その点でLGBTQやフェミニズムの文脈に置かれるべきものだと思うけれど、ここで(この映画で)描かれている二人の関係性は、「レズビアン」という異質に見られがちなものと違い、女性が女性を愛するという一つの恋愛のスタイルであるかのように描かれている。その点が、LGBTQの描き方として素晴らしいと感じた。
また、1950年代のアメリカにおいて、女性が女性を愛し、そして一人で生きていこうとすることは、並大抵のことではなかっただろう。二人は、お互いの存在があったからこそ、それぞれの一歩を踏み出せたのだと思う。その点に、女性同士の連帯を描いたフェミニズム的作品としてのメッセージ性を強く感じた。


映像やストーリー、どれをとってもアイコニックで心に残る映画で、「女性同士の恋愛」という「タブー」に一石を投じた映画だと思う。女性として自分の生きたいように生きることがまだまだ困難だった時代を生き、そして惹かれ合った二人の姿は、愛に性別や境遇は関係ないのだということを教えてくれる。
「わかるのは、その人に惹かれるのか、惹かれないのかだけ。」

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