中編ミステリ『脳髄の檻に眠るのは誰』第4話
Go to Sleep
一体、この探偵じみた警部補は、どこまで犯人の目星をつけているのか。本当に、この中に摩耶を殺した者がいるのか。詩歩は警部補に悟られぬよう視線を走らせ、橘華の所で動きを留めた。
橘華と摩耶の間で、以前発生したトラブルのこと。橘華が現在交際中の男性は、かつて摩耶と付き合っていた時期があり、そのことが二人に水面下での軋轢を生じさせていたのは確かだった。
衿来が二階へ上がってから、リビングに居残った両者に果たしてどんなやり取りがあったのか。
「時に佐藤橘華さん」
突然の名指しに、橘華はビクンと肩を揺らした。
沈黙を守る橘華の顔色を窺いつつ、警部補は語を継いだ。
「二時半頃まで、テレビを観ていたとおっしゃいましたね。随分と宵っ張りだったようで」
「別によくない? 生配信ぐらいリアルタイムで観させてよ」
「ああ、お部屋のテレビもスマートテレビでしたか、ここと同じく。差し支えなければで構いませんが、昨夜はどういった配信をご覧に?」
気乗りのしない様子で、ある動画チャンネルの名を橘華が告げると、警部補は大袈裟にのけ反って、
「いやはや、これは奇遇です」
興奮した面持ちで言うには、何でも同じ時間帯に、自宅で同じチャンネルを見ていたという。それを聞いた橘華の表情に明らかな焦りが浮かんだ。
「偶然とは恐ろしいものですね。証言を疑うわけではありませんが、念のため伺っておきましょう。どういったプログラムをご覧でしたか」
いかにも不承不承といった感じで、生配信のタイトルを挙げる橘華。
「ええ、確かに私が観ていたのと同じようです。調べる手間が省けました。これも日頃の行いの賜物でしょうか」
嬉々として眼を輝かせる警部補とは裏腹に、橘華の顔はどこまでも昏い。
「もういいでしょ。嘘じゃないって判ったんなら」
「あの生配信、進行役が二名ほどいましたね」不可解な拘りでもって、警部補は話題を固持した。「お笑いコンビですよね、あのお二方。片割れの、ええと名前は何と言いましたっけ、緑色の髪をした」
「グリーンウッズの田所。田所グリーンヘッド」
言いにくそうに、だが自信のある声つきで橘華は答えた。
警部補が凄艶な笑顔を見せた。
「よくご存知で」
「ちょっと落ち目だけどさ。でもあいつら客に媚びないってか、過激なネタも普通にやるし。昨日も共演のモデルの子に垢バン覚悟でかなりヤバいことしてたくさいけど。刑事さん、ああいうの好みなんだ」
犯罪捜査に身を置く警部補を窘めるように、後半部を強調させて橘華が言う。
この手の捜査にはおよそ不釣り合いな美貌に余裕の笑みを浮かべたまま、そういえばそんないかがわしいコーナーもありましたね、と警部補は優雅に返した。つまり、番組内容の言及自体は事実なのだ。事件発生時、橘華は本当に自室で生配信を見ていたことになる。
「お詳しいついでにもう一つお訊きします。田所の相方は何と言いましたか。あの、変な髪型の」
「木村グリーンウッド。あいつは変な髪型ってか、ただの七三分けじゃん」
「変ですね」
首を傾げ、警部補は腑に落ちない様子だ。
「だから変な髪型じゃないって言ってんじゃん」
「違いますよ。やはり変です。佐藤さん、あなたお二人のお名前と容姿を逆に憶えていませんか。木村グリーンウッドが緑の頭髪で、七三分けは田所のほうでしょう」
「は? 何言ってんの。そっちじゃん間違えてんの」
知人に接するような砕けた口ぶりで、橘華は相手を馬鹿にしきった態度を示した。
「二人のヘアスタイルはずーっと固定。木村が七三で田所が緑。大体芸名で判るじゃん、木村は木だからグリーンウッド。田所はグリーンヘッドだよ、緑頭なんだから。刑事さん、そんな簡単な英語も判んないの」
「昨日の配信でもですか」
「は? 当たり前じゃん」
鬼の首を取ったが如き驕慢な少女に、警部補は腹を立てるどころかますます愉快そうに口の端を持ち上げた。
「木村が七三分けで、田所が緑色の髪。橘華さん、それはですね、先週までの話なんですよ。夕べの配信では、木村が髪を緑に染めていて、相方の田所は、黒く染め戻した髪を七三に分けていたんです」
「何それ」橘華の声が上擦ってきた。「嘘でしょ、そんなはずない」
「お疑いなら、アーカイブ動画を見直していただいても結構ですよ。何せ、私はその生配信を手持ちのスマホでとくと拝見していましたから。あいにくあなたがそのポケットからはみ出させているイヤホンで、ラジオを聴く要領で音声だけ聴いていたのとは訳が違いまして」
橘華ははっと面を上げ、すぐさま下を見た。借り物のショートパンツの左ポケットから、一目でそれと判る細い黒コードがリング状に垂れている。慌ててポケットに仕舞い込んだが、完全に後の祭りだった。
とうとう立場は逆転した。揚々と警部補は言う。
「あれだけ念を押したのに、あなたはコンビの髪型を従来通りと言い張りましたね。実際に昨夜の配信を見ていれば、そんな主張できるはずがないんですよ」
「昨日は、もう眠かったから、適当に見てたし」
「矛盾しますね。ついさっき、配信に夢中で物音に気づかなかったと言っていたじゃありませんか」
橘華はがっくり肩を落とした。もう言い逃れは通じないと悟ったのか。
「ひどい、わざと知らないふりしてたんだ」
羞恥と侮しさに顔を赤くし、呻くように呪いの言葉を吐いた。
「お笑いに関してはこちらも一家言ありましてね、ええ。何を隠そう、グリーンウッズのファンなのですよ。落ち目な分、余計にね」
小さく溜め息を洩らしたのは、警部補のほうだった。
「まさか私のマイナーなお笑い好きがこんなところで役に立つとは、思いもしませんでしたがね。ともあれ、そんなわけで彼らが別番組の罰ゲームで、期間限定でお互いの髪型を入れ替えることも知っていましたし、収録の最中、その件について一切コメントしない口約があったのも知っていたわけです。もっとも、その裏事情に関してはちゃんと配信内でも字幕表示がありましたがね。あなたはそれすら見落としていた」
一瞬だけ緩めた表情を再び引き締め、警部補は言葉を続けた。
「つまりこういうことです、橘華さん。あなたはご自身の部屋のスマートテレビをつけっ放しにしておき、同じ階の方々に、自分が部屋で生配信を視聴中だと思い込ませたかった。何故なら、そう、実際には別の場所、それも生配信を観ることのできない場所にいたからです。どなたにも怪しまれなければそれでよし。ですが、もし仮に番組内容を尋ねられでもしたら、観ていないあなたには答えようがない。それでは自室にいたことを怪しまれてしまいます」
橘華は自分の部屋にいなかった。スマートテレビで配信を視聴できない場所にいた。テレビが壊れていた、あのリビングのことを警部補は指しているのだ。
「なので、あなたは懐に入れたスマホから音声だけでも耳に入れようとし、実行しました。友人や、私のような外部の者に配信のことを訊かれても、きちんと答えられるように。更に、部屋のテレビをつけたままにしておけば、別室の誰かが起きていても、一階へ降りる自分の跫音をテレビの音声に紛れさせ、怪しまれずに済みます。あなたも結構な案を考えたものですね。実際に配信映像を観ることができればより万全でしたが、それが適わなかったのは、状況的に困難だったためでしょう。揣摩臆測に過ぎませんが、あるいはリビングで、どなたかと口論でもしていたとか?」
間を置いたが沈黙しか返って来ず、警部補はむしろその無回答に満足した様子で、
「にしても、こんなことを私が言うのも何ですが、あなたのアリバイ工作は端的に言って杜撰ですね。こちらの提示した死亡時刻があまりに真実の殺害時刻と合致していたので、不安になったのでしょう。あなたは、三時過ぎまで配信の音声を聞いていたにも拘らず、二時半までしか観ていないとおっしゃいました。臆病風に吹かれたとはいえ、これでは何のアリバイにもなっていません。仮に三時以降も観ていたと証言したところで、偽証は露呈していたでしょう」
テーブルを叩く音が鳴り響いた。
立ち上がった橘華が、怒りに身を震わせ警部補を睨む。
「違う! うちじゃない。うち、そんなことしてない」
「ほう、まだそんな口を利く元気があるのですか。では教えてください。事件発生当時、あなたは自分の部屋にいなかった。それは異論を挟む余地のない、厳然たる事実。橘華さん、あなたはそのときどこにいたのです。リビングですか、それとも後に惨劇の舞台となる、お隣のダイニングキッチンですか」
詰問調で質す警部補に、橘華は両の拳をきつく握ったきり、憤然と立ち尽くすしかなかった。
「どうして答えられないのです。何か、答えられない事情でもあるのですか」
衿来と朔楽が驚きに眼を瞠り、複雑な思いで糾弾された友人を見ている。周囲の人々を確実に覆いつつある嫌な緊張感に、詩歩は胸中溜め息を吐き通しだった。頭痛もぶり返してきた。
軽やかに階段を駆け降りる音が聞こえる。
場の雰囲気を知ってか知らずか、応接室のドアを勢い良く開けた面長の捜査員が足早に警部補に近づき、手にした格子模様の帳面を見せながら、小声で何か言い始めた。
「耳寄りな情報が入りました」捜査員を脇に立たせ、警部補は朗々たる調子で、「増鏡摩耶さんの部屋から、いえ、正確にはご両親の寝室からですが、生前、摩耶さんが書き残していた日記帳が見つかりました。皆さんに部屋を割り当てた際、うっかり見られてはまずいと思い、持ち出したのでしょう。寝室のベッドの下に隠してあったそうです」
摩耶が日記を認めていたなんて初耳だ。他の面々もきっとそうだろう。
警部補は受け取ったノートを己が顔の横に翳し、それからプライバシー云々、しかし事件解明のためには云々と講釈を垂れ、日記の閲覧を強引に正当化した。
「ところで、なかなか興味深いことにこの日記帳、ある日付を境に記載が途絶えているというんですね。彼女が最後に日記を書いたのが、今年の五月下旬。ちょうど一月前ですか。この頃、彼女の身の回りでどんな出来事があったか。仲の好かった皆さんなら察しがつくのでは」
「……彼氏さんと」
力のない朔楽の呟き。橘華が微かに息を呑む。
「そう。この日記にもしっかり書かれているそうです」警部補は隣の部下が示した該当のページを開いて、「一ケ月前、摩耶さんはそれまで交際していた、ある男性と別れています。付き合いをやめた理由までは書かれていないようですが。皆さんご存じの通り、男女の業はそれはそれは根が深いものです。橘華さん、案外あなたもこの出来事に関わりがあるのではありませんか」
訳知り顔を浮かべ、警部補が水を向ける。対する橘華は、それでも何も言わない。
「あなたと摩耶さんと、日記に書かれていたその男性。お三方は、ずばり三角関係にあったのでしょう」
「だから何だってのよ!」
遂に橘華が金切り声を上げた。我慢の限界に達したのだろう。
「うちとあいつが付き合っちゃ悪いの? 摩耶はあいつと完全に別れたんだよ。うちらが付き合い出したからって、悪く思われる筋合いない」
「こうとも考えられますよ。摩耶さんの元恋人と新たに交際を始めたあなたは、二人が縒りを戻すのを恐れ、心のどこかに警戒心を抱いていた。摩耶さんご自身がどう考えていたかは、この際問題ではありません。昨晩、彼女とリビングで二人きりになったあなたは、そんな不安を解消するべく、本人に直接真意を問うたのではありませんか。問い詰めた結果、もし彼のことをまだ吹っ切れていないと言われたら。あなたにとっては大問題でしょうね」
「何それ。何言ってんの」
「まあ聞いてください。一度二階に上がって部屋のテレビをつけたあなたは、そっとリビングに引き返しました。この場合、テレビの音はアリバイ成就の布石や自分の跫音を消すのみならず、階下での会話を聞かれまいとする意図もあったのでしょう。再び二人きりになったリビングにて、スマホからの配信音声を耳に入れつつ、あなたは今彼の元カノに対する殺意を心の底で燃やしていた」
「違う! 違う違うそんな話してない。そんな話、昨日は」
耳を覆い、橘華はイヤイヤをする稚児のように髪を振り乱して反論した。
「橘華ちゃん」
「橘華、落ち着いて、ねっ」
上体を乗り出し、橘華の身を案ずる衿来。
リーダー格にして気の回る彼女はむろんのこと、五人の中では一番のんびり屋でおおらかな朔楽でさえ、発作的な橘華の狼狽にその小さな手を差し伸べていた。
どうしたものかと、用の済んだ捜査員が隣に指示を仰ぐも、かの警部補は穏やかに場を静観するばかり。謎解きを終えた探偵さながらの、清々しさをその美貌に湛えて。
事態は好転しているのか悪化の一途を辿っているのか。少なくとも詩歩には、そのどちらであるとも判断できかねた。
両のこめかみがキリキリと痛む。不眠症気味の体質故、軽度の頭痛は毎度のことだが、ここまで強烈な頭痛に襲われることは就寝時ですら滅多になかった。
どうしてこんなことになったの。こんなはずじゃなかったのに。
本当に橘華が、摩耶を殺したの?
友達を、人を殺すことが、橘華には心理的に可能だったの?
詩歩は思い出す。まだ摩耶が件の男性と付き合っていた頃。姉妹の如き衿来と朔楽の仲睦まじい有様を、摩耶が持ち前のユーモア精神で大いに冷やかしたことを。
あのとき、怒りを滅多に発露することのない朔楽が、怒張で顔を紅潮させた衿来と並んで、珍しく過剰な反感を摩耶にぶつけていた。その場は程なく収まったが、恋人同士であるかのように揶揄われたことを未だ二人が根に持っていることは、傍目にも明らかだった。
二人を疑っているわけではない。決してそうではないが、橘華が犯行可能な心理状態にあったなら、衿来と朔楽にどうしてそれが当て嵌まらないといえるのか。
怨恨が殺意にまで膨れ上がるとき。殺意が殺人の実行に帰着する瞬間。その阻隔は、橘華の場合は。
怨恨。殺意。殺害の着手。
警部補が考えているほどに、この三つの階梯は橘華の中で容易に通過可能な、当たり前の道筋なのか。
反対に、どんな根拠をもってすれば、衿来や朔楽がそうではないと主張できるのか。
判らない。全く判らない。
ただ一つ確かなのは、詩歩の求めていたものは、こんな現実ではなかったということだ。何故こんなことになったのか。こんなはずじゃなかった。
今日は五人で、新しくできた郊外のアミューズメントパークに出かける予定だった。アトラクションを満喫して、クレープやアイスクリームを食べたりして、皆で写真を撮りまくって。大声で笑って、楽しんで、また来ようねって約束して。
それなのに、どうして一人だけあんなふうに殺され、朝から警察の取り調べを受けなければならないのか。
こんなはずじゃ、絶対になかった。
困じ果てた捜査員が橘華を落ち着けるべく、ようやく説得に取りかかった。瞼を閉じた詩歩の頭の奥に、昨日は、昨日は、と橘華の消え入りそうな声が、過剰なエフェクトを伴って当てどない反響を続けた。
何で、こんな大事なときに。頭痛が。頭が。
意識を掻き消さんばかりの痛覚に、詩歩は歯を喰い縛り、テーブルの上で頭を抱えた。
ややあって、応接室に集まる人々の耳に、引き摺るような低い笑い声が聞こえてきた。迸り出る愉悦に耐えきれぬふうに、継起的に洩れ出る含み笑いの発生源は。
苦痛に顔を伏せていたはずの、詩歩その人だった。
次話⇩
第1話⇩