中編ミステリ『脳髄の檻に眠るのは誰』第10話(最終話)
Street Spirit (Fade Out)
何を見ているのかも定かでない、血管を浮かべた〈イーストウッド〉の青白い眼球が、細かく、不安定に揺れた。
「ふ、ふざける、な」
洩らした喘ぎは信じられないほど弱々しく、異常なまでに強張った面持ちは、打ち続く苦痛に喘ぐ重篤患者を思わせた。
「まさか、そんな、バカな」
それから硬い床面に膝を突き、悩ましげに頭を抱えた。彼が頭を抱えたのはこれが初めてだったが、周りの人々にはもう何度目かの、お馴染みのポーズだ。
ボトムスの一方のポケットから、〈北西〉が見つけた真珠色のピアスが溢れ落ちる。
もう片方のポケットからも、滑り落ちたものがあった。それは丸いキャップ型をした、黄土色のプラスチック部品で、警部補から作業着の部下の手に戻っていたポリ袋の中身を塞ぐのにお誂え向きの代物だった。
床に落下したそれら二つは大して転がりもせず、軽い無機質な音を最後に自らの動きを止めた。
息を呑み、場に佇む一同。
「ざけんな、クソが……えぐっ、ぐっ、えぐっ……」
〈イーストウッド〉の低く獰猛な呻きが、出し抜けに女性的なか細い泣き声に変わった。頭を押さえていた手も、今度は顔を覆うように前方へ移動していた。
とめどない涙も洟も溢れ出るに任せ、今や総身の支配権を手に入れた彼女は、ぐずついた声を上げるのだった。
「ごめんなさい、えぐっ、ごめんなさい……みなみ、みなみね、寂しかったの。寂しかっただけなの。しーちゃんも、北ちゃんも、イーちゃんも、誰もみなみに気づいてくれないし、しーちゃん、お友達いっぱいいるのに、みなみ誰もいないから……みなみ、独りぼっちだから……だから、もう死んじゃおうと思って」
〈みなみ〉と名乗った少女の涕泣が、ほんの一瞬収まった。ヒクヒクと喉を痙攣させながら、盛大に洟を啜ったのだ。
「しーちゃん、持ってきたお薬のことも忘れて、すぐ寝ちゃって……みなみも、イーちゃんたちと一緒に、すぐ寝ちゃったけど……みなみだけ眼が覚めて、それで、チャンスと思って、みなみ、しーちゃんのカバンから、お薬のビン出して、下降りて、水道のお水で、お薬飲もうとしたの……でも、台所行ったら、キレイな包丁あったから、これで手首切ったほうが、楽に死ねると思って……そしたら、しーちゃんのお友達の、まーちゃんが、下に降りてきて、みなみ、包丁持ってるとこ、見つかっちゃって」
何とも稚拙な自供内容に、けれども公然と口を挟むほど勇気のある者はおらず、それだけの余裕を持つ者もまたなかった。
警部補が臨時の取調室に仕立て上げた応接室は、今や〈みなみ〉の一人舞台と化していた。
「みなみ、逃げようとしたけど、捕まっちゃって……詩歩、何してるの、そんなことしちゃダメだよって、みなみの腕押さえて、まーちゃん言って……でも、みなみ、すごい暴れたから、お薬みんなこぼれちゃって、イーちゃんも起きちゃって……もう、みなみの思う通りに、脚も、腕も動かなくなって……イーちゃん、まーちゃん殺しちゃった」
泣く様子が感染したわけでもないだろうが、口を窄め衿来の胸に頬を預けた朔楽が、思い出したようにしゃくり上げた。見た目は朔楽のほうがずっと子供っぽいが、喋り方だけなら、そこから判断できる精神年齢なら、この新たな証人のほうが数歳は若かった。完全に子供の発言だった。
よほど人前で話したかったのか、眼の周りを真っ赤に泣き腫らしながらも、少女は堰を切ったようにか弱い声を発し続けた。
「イーちゃん、昔から寝つき早くて、お部屋戻って横になったら、お薬飲んでもいないのに、すぐ寝ちゃったから、みなみ、もう絶対死んじゃおうって思って、もっぺん下降りたの。でも、まーちゃん死んでるの見たら、手首切るの、すごく、すっごく怖くなって……だから、床に落ちてたお薬の粒拾って、キッチン行って全部飲んで、あと、空になったビン、まーちゃんの血ついてたから、キレイに洗って、お部屋に戻ったの。廊下の窓開けて、カーテンの端っこで拭いたビン、お花のキレイな、外のお庭に捨てて」
〈イーストウッド〉にとってさえ未知であった当時の事情をそこまで明かした彼女は、やっと頬を伝う涙を拭い、一息ついた。
何故壜を、とは誰も尋ねなかった。彼女がそうした理由は、言葉の節々から浮き彫りになっていた。
キレイな包丁で自殺しようとした。血の付着した壜をキレイに洗浄した。花々のキレイな庭に捨てた。彼女はキレイな物が好きで、つまりキレイ好きなのだ。少なくとも、他に理由と呼べるものはなかった。彼女は彼女自身の行動原理に忠実に従い、動いたまでなのだ。
壜の表面の指紋が拭き取られていたのも、他意はなかった。これっぽっちも。彼女は被害者の血を拭っただけなのだから。
「そっか、お薬の粒、まだ残ってたんだ。みんな拾ったと思ったのに。みなみ、床しか捜さなかったから。ミルク色した、キレイな床。いっぱい汚れちゃったけど、真っ赤な、まーちゃんの血で」
距離感を喪失した眼で足先にある睡眠薬の蓋を呆然と見つめ、彼女は今一度溜め息をついた。
「その一粒もちゃんと飲んでたら、みなみ、確実に死ねたかもしれないのにね」
氷のように冷たい、恐ろしい悔恨の一言を最後に、彼女はがっくり肩を落とし、とうとう何の反応も見せなくなった。
次に何が出てくるのか。何が出てきてもおかしくない。そんな可能性の野放図な拡がりは、しばし人の思考を停止させるものだ。
爽やかな朝の日光を矩形に差し入れた応接室には、不随意な身体活動を淡々と進行する人型の物質たちと、無性に息詰まる深海めいた静けさが、それらだけが残った。
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──上気した顔が、ゆっくり持ち上がる。
たった今目覚めたような、無垢な表情。
取り乱したのを恥じるでもなく、しかも己の顔やパジャマが水っぽく濡れているのを知り、びっくりして長い睫毛を叩き合わせている。
やがて己を見下ろす人々の、いやに似通った不思議な眼差しに出くわすことになる。
衿来に、朔楽に、橘華。同じ学校のクラスメイトで、仲好しグループ〈五人組〉の面々だ。
ちょっと薄気味悪くなるくらい整った顔をしている逆神警部補。縦に顔の長い捜査員。小柄な警官。彼らは皆、警察の人間だ。
繋ぎの作業着を着た男性には見憶えがない。恐らく警察関係者だろう。
にしても、何で全員、こっちを見ているのか。どうして自分だけ床に座り込んでいるのか。疑問は尽きない。
「衿来」
ユラリと立ち上がり、最も近い場所に座っていた衿来に、小声で問いかけた。
「何かあったの」
返事はない。いつまで経っても。
「どうしたの、衿来」
俄かに不安が募った。
「朔楽」
聞こえていないのでもなさそうだけど、どうも表情がおかしい。尋常じゃない。
「橘華」
衿来も朔楽も橘華も。この室内にいる全員の表情が。
極度の恐怖と安堵を共時的に体験すれば、ひょっとしたらこんな感じになるかもしれない。振幅を繰り返した感情が、許容量を突き破りオーバーヒートした状態。感情の飽和状態。
「取り敢えず、四人目でストップですか。探偵、殺人者、自殺志願者、そして何も知らない彼女……取り敢えずは」
何も知らない彼女には、警部補が何を言わんとしているのか、推測のしようもない。捜査員が手にしたポリ袋の中身が自身の持ち物であることも知らず、足許に転がる二つの物体にも気づかない。
「警部補」後を引き取って、その捜査員が口を開く。「一応解決はしたものの、この一件、まるで彼女の一人芝居でしたね」
「言えてます。一人で四役を、あらゆる役柄を演じ分けたような。実際はお芝居でも何でもなく、全員が全員本気だったのでしょうが」
驚きのあまり、彼女は総身を凝固させた。今、捜査員の口にした解決とは、もちろん摩耶が犠牲になった、この家の殺人事件のことだろう。
疑問符が頭の中を駆け巡る。
解決した?
じゃあ、誰が犯人だったの?
やっぱり橘華?
それとも、衿来か朔楽のどっちか?
犯人は、誰だったの?
「こんな奇妙奇天烈な事件、これっきりにしてもらいたいものです。全部で四人と思われた参考人が、蓋を開けてみれば、七人もいたわけですから。今のところは。もし今の彼女が、五番目の何某かでなければ。〈五人組〉でなければですが」
そこの警部補が、解決まで導いてくれたのか。古今の名探偵みたいに、鮮やかに。灰色の脳細胞か何かで。
けれども、だとしても。
誰が犯人なのだとしても、哀しい結果になることは確実だ。それでも、知りたい気持ちはどうにもならない。
クラスメイトの三人をジロジロ見つめ始めた彼女に、昔を懐かしむが如き温和な眼を向けつつ、警部補は総括するように言う。
「第四の人格が事件の発端で、第三の人格が真犯人、第二の人格が探偵で、今の彼女が第一の人格と。近頃の、特に多感な時期にある彼女みたいな人間は、自分が幾つあっても足りないのでしょうね。それに、皆さん夜とておちおち眠る暇もない。愛し合ったり睦み合ったり、死のうとしたり、果てはそれを止めようとして逆に殺されたり。夜は寝るに限りますよ、ええ本当に」
既に朝日はその名から朝を取ってもいい高さにあって、キッチンの惨劇の痕跡は適度に明るい応接室のどこにも残っていない。事件は全面解決したのだ。
したのだけれど。
警部補の額に控え目に鎮座する二つの眉は、主人の洩らした本音に情けなく震えるのだった。
(了)
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