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◎あなたも生きてた日の日記㊻ 馬に踏まれて粉砕骨折


兵庫県神戸市で中学生時代を過ごした人限定の風習に、「トライやるウィーク」というのがある。
「トライ」と「やる」を掛け合わせたのだろうか。それとも「トライアル」を可愛く崩したのだろうか。言葉のセンスに一瞬「んっ?」と思うが、一度聞くとなかなか印象に残るナイスネーミングだ。

そんな「トライやるウィーク」、一体何なのかと言うと、職業訓練週間のことだ。中学生になったら、1週間何かの職業を体験する実習がある。場所は様々で、スーパーや文房具屋、おもちゃ屋に個人商店など実に多種多様な施設があった。
その中で、私が行くことになったのは牧場だった。神戸にある牧場と言えば、そう、六甲山牧場だ。

六甲山牧場で何の職業を体験したのか。さぞかしおもしろいのだろう...とよく言われるのだけど、思い出すのは掃除の記憶ばかりだ。
落ち葉の掃除、来場者の落としたゴミの掃除、牧場内を縦横無尽に歩き回る羊のフンの掃除...。
ずっと掃除してるなあ、と思った覚えがある。もちろん飼育員さんも気を使って、エサやりや乳搾りの工程を見せてくれたりしたのだが、圧倒的な割合で掃除をしていた。

そんな掃除の記憶の中で最も鮮明に覚えているのが、馬小屋を掃除した時のことだ。掃除方法の説明をしている時、飼育員さんがいつもにも増して真剣な声で言った。

「馬は人間の好き嫌いが激しいから、嫌われたとわかったら以後近づかないように。それと、背後に回って掃除をしないこと。知らない人間が背後に回るとパニックになって、足を踏まれます。馬っていうのはね、めちゃくちゃ重いの。馬に人間の足を踏まれたら、粉砕骨折します」

その時、私は家から慌てて持ってきた長靴(今日のために持ってこいと言われていた)が随分ぶかぶかで歩きにくいなあと思いながら、話半分に聞いていた。それがこの後の悲劇を生む。

「それじゃあ、二組に別れて掃除してください」

そう言われて、2人で一頭の馬の担当をすることになった。そして大体掃除が済んだ頃、あろうことか私は何も考えずに馬の後ろ足の近くにふらっと立ってしまったのである。
よそ見していた私の足の上に、馬が足を、乗せた。

「.....?......?!?!?!」

あの時の体感を、一体何と説明すればいいのか。あ、と思った次の瞬間、どう考えても経験したことのない重さを足の先に感じた。が、感じるとほぼ同時に私は足を激しく引いた。直感的に「やばい!!!!」と思ったのだ。すると、ぶかぶかの長靴の中で指がするりと逃げ、なんとか間一髪、馬に足を踏み抜かれずに済んだのである。

馬が足を引いたあとの、長靴の指先部分がぺっちゃんこになっているのを見て、血の気がさーっと引いていったのを覚えている。

なぜ今この話を思い出したかと言うと、脚本執筆のために「殴る」という行為について調べていた時、次のような記述があったからだ。

「人間は、闘争本能が出てくると手のひらに汗をかく。これは、何か武器を持ったり、相手を殴るために拳を握る時に、滑り止めの役割があるのではないかと言われている」

その文章を読んで、馬に足を重ねられた時の体感を思い出した。
あの時、一瞬にして私は足の裏にぶわっと汗をかいたのだった。あれは、ただ焦っただけかと思っていたが、実際は何か闘争本能のようなものが芽生えたのかもしれない。少しでも早くこの場から動こうとした、身体の反応だったのかもしれない。

そう考えると、汗もそれをかく場所や状況によって、色々な意味があるように思えてくる。冬でなかなか汗をかく機会がない今、あえて意識してみるのもおもしろいかもしれない。

(あなたも生きてた日の日記㊻ 身体感覚について)