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〇そのボタンは…

 私には、生まれてこの方一回も押したことのないボタンがある。
それは私たちが毎日目にするもので、身近にあるゆえ今更誰もわざわざ話題にしない。だからこそ、それを「使わない」ことが特殊だとは全く気付いていなかった。
ついこの間までは。

ことの発端は、何気なく聞いた一言だった。
「ねえ、ウォシュレットって使ったことある?」
聞かれた相手は目を見開いて「え?」と言った。そして、間を開けてもう一度「…え?」と繰り返した後、何か大切なことを確かめるように尋ねた。
「ウォシュレットって、あのトイレの?」「うん」「え、使ったことないの?」「うん」「一度も?」「うん」「え…生まれてから一度も!?」「うん」
そして、耐えきれなくなったように大きな声で笑い始めた。笑いながら「え、それ本気で言ってんの!?」などと繰り返す。
それを見ながら、私は段々屈辱的な気持ちになってきた。え、これってそんなに笑われること...?相手はひーひー言いながら尚も質問してくる。
「じゃあ、トイレについてるあのボタン、今まで何だと思ってたの!?」「えっ…自分には関係のないものだと思ってた」
それを聞いてまたゲラゲラと笑っている。私はなんだか本格的にむかついてきた。こちらにだって言い分はある。
「え、じゃあ聞きますけど、あれは何のためにあるボタンなんですか?」「何のためにって、大きい方をしたあとに使うボタンだよ」「大きい方?」「そう。お尻を掃除するためにあるの」「お尻を…掃除?風とか、水が出るの?」
相手を見ると「風…(笑)」とバカにした笑いが漏れ出ている。「水が出て、お尻の汚れをきれいに洗い流してくれるんだよ。女性用もある」「女性用!?」「ビデ、って書いたボタン見たことない?」「なんか…見た気がする…何が違うの?」「え?位置じゃない?」「位置!?」
「まあ、使ってみたらいいじゃん」「え…いやだよ。お尻びしょびしょになるんでしょ!?冷たいじゃん」「温水もあるよ」「温水!?」「冬でも大丈夫」「大丈夫って…でも温水だろうと噴射されたらびっくりするじゃん」「勢いも調節できるよ」「調節できるの!?」
 知れば知るほど驚きの新事実ばかりだった。ただ、それらの謎は解明されても、私にはずっと理解できない部分があった。
 「えっ…それさあ、いつ知ったの…?誰かに教えてもらったの?親とか?」
一体これだけの情報量を、人はどうやって知って、いつから使いこなしているのか。隣の個室でまさかそんな高度な洗浄が行われていたとは夢にも思わなかった。この歳まで、誰もそんなこと教えてくれなかった。
すると、その人は少し考えてからこう言った。
「押してみたんじゃない?」
恐ろしい。そんな、自分に向けられているサービスかもわからないまま、よく知らないボタンを押してみたの!?
「たぶん小学生くらいの時に、いろいろボタン押して試して覚えたんじゃないかなあ」。
すごい実験精神…。私は聞けば聞くほど感心してしまった。

というような話後日知人にすると、「え、使ったことないの!?」とまたえらく驚かれてしまった。どちらかと言うと「私も使ったことなーい!」みたいな反応を期待していた私は、この時初めて「あ、これはウォシュレットを使ってない側の方が共感されにくい話題なんだな…」と学んだ。
 そしてこれはもう一つ学んだ点であるが、ウォシュレット信者は使用していない人に対して「是非使うように」と強く勧めてくる傾向がある。
先日の人も、今回の人も、こちらの暴露にひとしきり驚いた後「え、使ってみなよ!」と激烈に使用を勧めてきた。「大丈夫だって!」「一回やったらわかるって!」「めっちゃいいから!」という彼女らに「何がいいのか?」を聞くと、「すごくスッキリする」「きれいになった感じがある」と言う。おまけに「使い始めたらもうナシとか考えられないよ」とまで言う。
しかし聞けば聞くほど不安になるのだ。そんな、使ったら以前には戻れないような代物、簡単に始められないよ…。

思わぬ一言から、たくさんの発見をもたらしてくれたウォシュレット。
自分の知らないからだの感覚と言うのは、案外すぐ近くにあるものなんだな…と思った。



(からだの感覚を取り戻す 34)