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◎あなたも生きてた日の日記㊳ 声は身体コミュニケーションか?


以前取材の際に聞いたエピソードで、印象に残っているものがある。
それは、話し手であるお父さんの、息子さんとのコミュニケーション方法についてだった。

「昔から、僕と息子は顔を合わせないで話をすることが多かった。彼が思春期になった今、そのことがかえって良かったんじゃないかと思うことがある」

聞くと、お父さんも、その息子さんもどちらかと言うと話下手で、日常で積極的に会話をする関係性ではなかったらしい。間に母親が入って会話が成立することが多かったと言う。

「だから、幼稚園の送り迎えを僕がするようになって、最初は大丈夫かなと思ったんだけど。息子を自転車の前のチャイルドシートに乗せて走っている時は、不思議と今までにないくらい会話が弾んだんだよね」

今日幼稚園で何があったのか、自転車の進む方向はどちらがいいかなど、自転車の前と後ろの距離感で会話をすると、自然と声が大きくなって、段々と楽しくなって、最終的には二人とも笑いながら話すことになるのだそうだ。自転車の前に座る小さな背中と、後ろから声をかける大きな身体を想像して微笑ましくなる。

「たぶん、二人で同じ方向を見て話してる、っていうのがいいんだと思う」

それは息子さんが思春期になった今でも同じで、時々二人でキャンプに出掛ける際に、運転席と助手席で、二人とも一度も顔を見合わせることなく何時間でも喋ることができると言う。
目を合わせずに、同じ景色をずっと見ている。そこでぽつぽつと紡がれる会話は、例えお互いの表情がわからずとも、きっと向かい合わせで座って話す時より、親密なものになっているのだろう。

最初この話を聞いた時、「なるほど、そんな会話の仕方があったのか」と衝撃を受けた。
営業職で働いていた時には、「顔を合わせて話した方がいい」とか、「目を見て話すことで感情が伝わる」などと言われることが多かった。
だから些細な商談でも必ず足を運んだし、お礼を言うのも電話ではなくできるだけ顔を出すようにしていた。その方が、感情は伝わるものだと思っていたからだ。
営業と日常会話とはまた別ものかもしれないが、「身体的に目の前にいることが大切」だと自然に刷り込まれていた私にとっては、先の親子関係は衝撃だった。

声と身体の距離とコミュニケーションについて、もう一つ考える出来事があった。
きっかけは、Podcastだった。知り合いが出演していたという理由で聞き始めたPodcastだったけれど、そこから、地方に一人で滞在制作をするときなど、人の声が恋しい時に度々聞くようになっていた。
すると、徐々に「聞いていたとき目の前にあった風景」と共に、内容を思い出すようになってきたのだ。最近あったニュースについて聴いていた時に見た、机の角。誰かのお悩み相談を聴いて目に入って来た、満点の星空。なんでもないエピソードたちが、その時体感していた景色と共に記憶に残っていく。

思えば、これは誰かと電話している時でもそうだった。
声を聴きながら歩いていた道。笑った時に見えた電灯、冷たくなってきた足先など、その一瞬一瞬に、こちらの身体性がきちんとあることに気づく。「声を聴く」というのは簡単で一方的なコミュニケーションなようでいて、実際はとても複雑だ。話し手の声にも揺らぎがあり、向こうにもひとつの身体がきちんとある。そこから声が発されて、こちらの身体に届いて、その声は経験になっていく。

声を聞く、声を発するということは、たとえ身体が同じ場所におらずとも、同じものを見ていなくても、両者の間で立派にコミュニケーションが成立している。それを単なる言葉のやりとりに留めてしまうかどうかは、きっと両者の想像力次第なのだと、最近はしみじみと思っている。


(あなたも生きてた日の日記㊳ 身体感覚について⑧)