なぜ私たちは”下世話”なのか―リアリティー番組から考える

香山リカ

「リアリティーショー」と呼ばれるジャンルのテレビ番組に出演していた若い女性が亡くなった。番組を見た視聴者たちから彼女のSNSアカウントに寄せられていた誹謗中傷がひきがねになった、と言われている。あまりに痛ましいできごとだ。

リアリティーショーとは、テレビ黎明期からあった「台本なし、演出なしで出演者(通常は一般の市民や著名すぎないタレント)がさまざまな事態に直面するのを見て楽しむ」という形式の番組だ。第一号は、1948年にアメリカで始まった「Candid Camera」という番組といわれる。日本でいうところの"ドッキリカメラ”だが、シリーズとしては2014年まで65年以上も続いたのだそうだ。その長い歴史をコンパクトにまとめた動画があるのだが、オフィスに突然、クルマが突っ込んでくるのを、そういう演出を知らされていないオフィスワーカーて見て驚愕するのを隠しカメラがとらえる、といった日本の視聴者にもおなじみの趣向が延々と続けられたのがよくわかる。

ただ、リアリティーショーとはいっても、この"ドッキリカメラ”方式では、小道具やカメラが仕込まれていたり、まわりの人たちには収録が知らされていたりで、知らされていないのはそのときの対象になる人だけ、まさに「知らぬは亭主ばかりなり」である。

ところがその後、「よりリアルなリアリティーショー」を望む声が視聴者の中で高まった。そこで作られたのが1973年の「アメリカン・ファミリー」だ。これは、日本でいえば”家族密着ドキュメント”ものであり、アメリカのサンタバーバラに住む平凡な家族でありラウズ家にカメラが入り、夫婦の危機、子どもたちとの葛藤などをそのまま撮影して、3カ月にわたって放映した。当時から「プライバシーののぞき見」といった批判もあったようだが、これがまた高い視聴率をはじき出した。

私が大好きな本に、メディア論研究者・有馬哲夫氏の『テレビの夢から覚めるまで』がある(版元さん、ぜひ再版してください!)。

この本には、テレビというメディアがアメリカで「教養、芸術、民主主義の啓蒙、教育のメディア」という高い志を掲げて始まり、それがあっという間に産業化されて姿を変えていく様子がテンポよく描かれている。つまりテレビは本来、「コンサートホールがない地方に住んでいる人にも良質の音楽を」「学校で勉強する機会がなかった人にも科学や歴史の知識を」といった目的でスタートしたメディアだったのに、「ザ・ルーシー・ショー」のように同じ設定で繰り広げられるドタバタ喜劇、素人が対決するクイズ番組、そして前述のドッキリカメラのようなリアリティー番組などの方が視聴率が高いということにみんな気づいてしまった。もちろん芸術番組、教養番組もいまだにあるはあるが、それよりも「視聴者が見たいものを見せる」となれば、いきおい「教育」「啓蒙」といった初期の目的は薄れ、どんどん世俗的な方向に流れてしまう。

日本では、テレビはその開始時からすでに世俗化していたといえる。1957年2月には早くも評論家の大宅壮一氏が、週刊誌の連載コラムに「テレビに至っては、紙芝居同様、否紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い」と書いたほどだ。

それにしても私たちはなぜ、チケットが高くてなかなか行けない劇場の演劇やアルプスの美しい景色などではなくて、自分のすぐ隣に住んでいるような人がちょっとした仕掛けにビックリしたり、家族とあれこれモメたりするところを、わざわざテレビで見たい、と思うのだろうか。

いきなり話が飛ぶようで申し訳ないが、フランスの精神分析学者ジャック・ラカンは1949年に、国際精神分析学会で「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」という発表を行った。この中でラカンは、生後半年から1歳半くらいまでの子どもが鏡に映った自分の姿に大喜びすることに注目し、それは自分の全体像を発見した歓喜なのだと考えてその時期を「鏡像段階」と名づけたのだ。

もちろんそのあと、人はいちいち自分の全身を鏡に映さなくても「これが私だ」という全体像を自分なりに持つようになるのだが、それでも大切なのは、最初に自分を知ったのは鏡の中、つまりフェイクな像によってだったということだ。しかも、考えてみればいくらおとなになっても自分の肉眼で自分の全体像を見ることのできる能力が授けられるわけではない。あくまで鏡、写真、動画などに映った像としての自分を見て、「へー、これが私」と思い込むだけなのである。

もっといえば、自分のことは一生、他人の目(鏡の像、レンズ、イメージなど)を通してしか見ることができない。だから、私たちは実際の他人の目も気にせずにはいられないのである(これは、前回のnoteで書いた村八分論にもつながる)。もう少し平たく言えば、「私って本当はものすごくいい人」と自分だけで思って満足できる人は、いるにはいるにせよ、そう多くはない。世間やまわりの人から「あなたっていい人ね」と言われてこそ、「そうか、私ってやっぱりいい人なんだ」と思うことができる。

だから、「他人にはどう見えているか」は一生にわたって大問題であるし、逆に「他人は実際のところどうなのか」ということも気になる。そしてこの場合の「他人」とは、自分とはかけ離れた生活を送る王族だとか天才科学者ではなく、「隣に住んでいるような誰か」のことだというのは言うまでもない。

リアリティーショーに出てくる、どこにでもいるような夫婦や若者の日常を見ながら、私たちはそこに自分の姿を映してみて、「私と同じだ」「いや、私ならこうはしない」と安心したり自分の軌道修正をしたりする。リアリティーショーは、かつて自分が赤ん坊だったとき、自分の姿を映して「これがボクだ!そうなんだ!」と喜んだときに使ったのと同じ鏡なのである。そして、そこに登場する出演者たちは、視聴者にとってかつての私、未来の私、あるいはいまの私の鏡像なのだろう。

しかし問題は、そうやってテレビを通じて不特定多数の人たちの鏡像とされる出演者たちは、どうやって自分自身の心のバランスを保てばいいかということだ。ただでさえ私生活をカメラで撮影されているというストレスもある。さらに、想像を超えた多くの人たちが自分の一挙手一投足に「私もそうする」「私ならこうは言わない」と自分を重ね合わせているのだ。ときには、自分ではなくて家族や友人のイメージが重ね合わされ、心の奥に潜んでいた憎悪が投影されることもあるだろう。

これまでならまだ、視聴者がどのように自分を見ているかを出演者は直接、知る機会は少なかった。もちろん、あちこちで「テレビに出た人でしょ」などと声をかけられる、といった影響は少なからずあったであろうが、番組を見ながらリアルタイムで視聴者が何を感じ、どう考えているかを知る手段はなかった。

ところがSNSの誕生は、このリアリティーショーのあり方、というか出演者のあり方をガラリと変えた。無数の人の鏡像として生きざるをえない出演者は、視聴者の面白半分の感想から心の内面で揺り動かされた感情までを、直接、しかもリアルタイムで投げつけられるようになってしまったのである。

「出演するからにはそれも込みで耐えるべきだ」というのは、あまりに酷な話だ。無数の人の鏡像として人生や内面を投影され、どんな言葉も受けとめられるなどという存在は、仏像やキリスト像のような彫像だけだ。

では、どうすればよいのか。視聴者が節度を持ってリアリティーショーを見て、自分の感情を抑えるようにすればいいのか。私はそれも無理だと思う。なぜなら、人間はおとなになっても部分的には鏡像段階にいた自分を引きずりながら生きるしかなく(ラカンはその心のエリアを「想像界」と呼んだ)、リアリティーショーはそれを直接、刺激する性質を持った番組だからだ。

他者の中に自分の像を見つけては、そこに自分を重ねてみたり、自分をちょっと修正したりしながらでなければ生きられない私たちは、下世話であるのをやめることはできない。生きているからには、私たちは誰でも永遠に下世なのだ。だからこそ、リアリティーショーはいつの時代もニーズがあり、世界中の国で耐えず番組として作られ人気を集めてきた。

しかし、SNSの時代になったいま、リアリティーショーは出演者にとってあまりに心の負担と危険が大きなものになったことは、ここまで書いてきた通りだ。私自身は、リアリティーショーはもうやめた方がいいと思っている。それを続けながら、出演者の安全も守る、などというすべを私たちはまだ知らないからである。

下世話であることはやめられない。SNSも(おそらく当分は)やめられないだろう。だとしたら、リアリティーショーをやめるしかないではないのではないだろうか。

あるいは、せめて少なくとも同時進行的に見せるのはやめて、何か月か前に起きたことをタイムラグを置いて見せる、というスタイルにするのはどうか。そうなるとドキュメンタリーとどう違うのかということになるが、結局はそれするしかないと思う。「そんなんじゃおもしろくないよ」と言う人もいるとは思うが、そうしなければ出演者の命を守れないのだから仕方ないではないか。

逆に言えば、「下世話」はそれほど、私たちにとって生きることの本質とダイレクトに結びついているのだ。とはいえ、出演者が心を病んだり命がおびやかされたりするところまでを見たい、と思うほどには私たちは下世話ではないと信じたい。

お亡くりになられた女性の冥福を心からお祈りします。