”コロナ村八分”は世界の恥でしかない

英語が得意ではない私は、家での仕事のときの”BGM”としてCNNを流しっぱなしにしている。何か音がほしいのだが、音楽は好きなのでラジオをかけているとつい耳を傾けたり曲名を検索したりして仕事にならない。その点、英語放送なら「よくわからない音声、ときどきテーマ曲やCM」としか認識しないので好都合なのである。

という情けない話はさておき、仕事に飽きて画面に目をやると、ときどき「コロナで世を去った人たち」を番組内で紹介している。決して有名人ばかりではなく、一般の市民でも、写真を何枚も映しながら、キャスターが名前や享年とともに「学生時代にはヨット部で活躍、その後、教師となり妻メリーと結婚、家族からも愛された生涯でした」などとその人生を短く語る。ときには遺族がスカイプで登場することもあるが、「本当にステキな夫であり、子どもたちには最高の父親でした」などと涙ながらに語る女性などを見ると胸が詰まる。子どもがまだ小さい場合など、キャスターが視聴者に募金を呼びかけることもある。「今日の死者〇人」とひとことで言っても、ひとりひとりにこんな人生や遺族の悲しみがあるのだな、と実感する。

日本でもやればいいのに、と思いかけて、「とんでもない」と首を横に振った。私は厚労省から心理関連団体が委託されて行っているチャット形式のコロナ心の相談の手伝いをしたのだが、そこにも「差別や偏見」に関する相談が少なからず寄せられているのを目にしていたからだ。感染者だけではなく、感染者が出た職場にいたというだけで白い目で見られる、というような話もあった。「感染よりそれがまわりに知られるのが怖い」といった声も何件もあった。

5月19日のNHK「クローズアップ現代+」でも、差別や偏見を恐れて、母親がコロナ感染症で亡くなったことを誰にも言えないという女性が登場した。彼女は、「変な話、主人の家族は誰も(母の死を)知らないですよね。やっぱり後ろめたい病気なんでしょうね。かかっちゃいけない病気にかかっちゃった」と言っていた。大切な母親が亡くなったのにそれを悲しむことさえできないなんて、あまりに残酷な話である。

CNNでは、人気キャスターのクリス・クオモもコロナに感染した。あのニューヨーク州のクオモ知事の実弟だ。日本なら「コロナ対策にあたる兄を持ちながら、弟である私が感染するとは申し訳ありません」とおわびコメントでも出すところだろう。ところが、クオモ弟はなんと自宅地下室に隔離された状態で自分の番組を続け、ときどき兄のクオモ知事も生出演して、視聴者に兄弟のかけ合いまでを見せたのだ(下記画像はANN系列の3月31日のニュースより)。もちろん、知事も弟の感染を謝罪することはなかった。ツイッターのふたりのアカウントへのリプライなどで見た限りでは、クオモ兄弟を不謹慎だなどと非難する言葉はなく、お見舞いや励ましがほとんどであった(その後、クオモ弟は無事に回復)。

画像1

その後、5月17日の神戸新聞NEXTに驚くべき記事が載った。大学の共同調査で、「コロナ感染は本人のせい」ととらえる傾向が欧米に比べ日本は突出して高いことがわかったというのだ。記事の中から画像を拝借して貼らせてもらおう。(「中傷につながる?『感染は自業自得』欧米に比べ日本突出」、https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202005/0013348849.shtml)

画像2

記事には、こうある。

「職業や行動などによるリスクの程度の差こそあれ、新型コロナは誰でも感染する可能性がある。にもかかわらず、感染者への嫌がらせや差別的な言動が日本各地で起き、ネット上では激しい中傷も見受けられる。」

いったいこれはどういうことなのだろう。このウイルスの感染力は強く、その振る舞いもまだよくわかっていない面が多い。軽症者が突然、重症化するといった報告も相次いでいる。その中で感染してしまった人は、いまの症状にかかわりなく、底知れぬ恐怖にとらわれるだろう。シビアな状態になって入院した人たちばかりではなく、軽症でホテル療養をしている人もどんなに不安であろうか。その人たちに必要なのは、手厚い医療とともに、少しでも前向きに闘病できるような心のケアや家族へのサポートであろう。それにもかかわらず、世間からは「自業自得」と見なされ、名前や家を特定されてイヤがらせされたり、ネットでバッシングにあったりする、というのだ。どう考えてもおかしすぎる…。

ネットなどでは、コロナ感染者や家族が受ける差別や誹謗中傷が「コロナ村八分」と呼ばれるようになった。

村八分。

これはまたずいぶん古色蒼然とした言葉だ。近代以前、日本の村落共同体には一種の慣習法としての「村八分」という制度が実際に存在したことは、民俗学の研究でよく知られている。もちろんそれは現代社会では消滅したはずだが、しかし単語としての「村八分」はひそかに生き延びている。それは言うまでもなく、職場や学校などの集団で誰かを疎外、排除することを意味している。


1990年に膵臓がんのため37歳の若さで世を去った精神科医・長井真理氏は、まだ二十代だった1981年に「中年および退行期女性の<村八分>妄想についての人間学的・役割理論的考察」、次いで83年に「村八分論」という二本の論文を遺している(長井真理『内省の構造』、岩波書店、1991)。黒いライダーズジャケットを羽織って学会に現れ、「実はフラメンコの名手」というウワサの真偽を確かめようと近づく人がいてもすっと離れ、誰とも親しく交わらない"孤高の若き精神病理学者”だった彼女が(私はその姿を遠くから見るばかりだった)、「共同体から排除されている」という妄想を訴える女性たちに心を寄せ、日本独特の村落共同体のあり方やそこにおける女性の役割との同一化を強いられる生き方を描き出そうとしたのはとても興味深い。男性医師からは「美人だけどクールすぎる」などと言われていた長井氏だが、共同体や役割に縛りつけられ、ついには「村八分にあっている」という妄想にまで発展させてしまう女性たちには、おそらくやさしい目を向け、親身の治療を施したのだろう。

それらの論文の中で長井氏は、日本における「村八分」の性質をこう述べる。

「村落共同体の成員というこの役割をひとたび奪われたら、人は一挙に労働の場も遊びの場も生活の場も失うことになり、その生活の基盤を奪われることになる。共同体成員という役割の喪失によって、単にいくつかの存在可能のうちのひとつを喪失するだけなく、存在の全面的な喪失の危機にさらされることになる。」

そして、とくに「村八分」が現実に起きてもいないのに、「そうされている」という妄想を訴える「おおむね中年ないし退行期になって初めて精神病に罹患する女性たち」は、「すべて、病前から役割的規範に過度に同一化している」と症例を通して分析するのだ。彼女たちは、<私>ということではなく、あくまで自分が所属している共同体で自分に期待されている役割(母、嫁、地区の係など)を懸命にこなそうとし、次第に「本当の自分はこうだけど、この場ではこの役割を演じなきゃ」という意識さえなくなるほど役割と自分がぴったり貼りついてしまう。だから、少しでもそこからはずれなそうなできごとがあると(たとえば夫に恋人ができて嫁としての座が危うくなった、など)、一気に「もうすべてを失った」という喪失感を抱き、それが「村八分」という他者からもたらされた形で、心理的には妄想として経験されることになるのだ。

思わず長井氏の村八分論に立ち入りすぎてしまったが、ここで私が言いたいのは、この論文が書かれてすでに40年(!)もの歳月が流れたというのに、「共同体成員という役割の喪失によって、存在の全面的な喪失の危機にさらされる」という日本的な共同体の性質は少しも変わっていない、ということだ。

ある人がコロナウイルスに感染する。ある一定期間、会社員、学生、子どもの親といった役割からは退いて、隔離された状態で療養に勤めなければならなくなる。それだけのことなのに、その人は、それまでその共同体で築いてきた人づきあいのネットワーク、尊敬、慈愛、信頼といったものまですべてを失い、非難にさらされるのだ。あるいは、共同体構成員側が、自分の近くから感染者が出たことで、共同体全体の役割やそれに伴う信頼などが失われるのではという不安にかられることで、逆に感染者や家族を攻撃して妄想ではなく実際の「村八分」にあわせるのかもしれない。

こういうことが多く伝えられると、誰も感染したことをまわりに知らせなくなるだろう。いやそれどころか、発熱などがあって「もしかするとコロナでは」と思っても検査に行かずにがまんする人も出てくるかもしれない。実際にネットでは、「コロナで末代まで村八分にされるなら、自分ひとりがひっそり死んだ方がまし。だから病院には行かない」という匿名の書き込みもあった。その真偽はたしかではないのだが、さもありなんという気はする。

おそらく今回のコロナ感染症でたまたま浮き彫りになったのだが、日本社会にはまだこの共同体の規範やそれが求める役割への過剰な同一化で苦しんでいる人がたくさんいるだろう。そして皮肉なことに、この自粛期間のテレワークやオンライン授業などで出勤や登校をしなくてよくなって、そういった村八分的な土壌を持った共同体から切り離され、気持ちがラクになったという人もいるようだ。

コロナに感染した人、ましては亡くなった人を責めるのは、もうやめよう。

それはその人たちを苦しめるだけではなく、今後の感染対策にとっても足かせにしかならない。そもそも「コロナは自業自得」と思ってる人が日本だけ多いだなんて、世界の恥だ。

そして、感染を疑った人はすぐに医療機関を受診し、必要ならば検査を受け、もし陽性だったら隔離された先の病院やホテルなどで、十分な医療と食事や寝具などの支給、さらには心のケアも受けられるようにしてほしい。「たいへんでしたね、心配でしょう。でもここにいる間は安心してください」という環境の中で療養してもらうことが、回復や早期発見にもつながるはずだ。もちろん、家族への手厚いサポートも必要なのは言うまでもない。

ついでにと言ってはなんだが、コロナが浮き彫りにした日本にまだ残る村八分社会も、このへんではっきりと終わらせることにしたいものだ。夭折の天才精神病理学者といわれた長井真理氏も、いまごろ天国で「えっ、そんなのまだ残ってたの!ダサい…」とトレードマークの黒い長髪をかき上げてため息をついているのではないだろうか。