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法則

(※)一週間前くらいに書いて、またもや下書きに放ったらかしておいた記事です。五輪始まったくらいか、五輪見すぎて忘れてそのままにしてあったwなにを書いたかも忘れたが、せっかくなので載せておく。後半、さきほど付け加えて。

下記のような法則が目に留まった。

1. 人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。
2. 15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。
3. 35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる

これは知っている人は知っている、ダグラス・アダムスの法則である。ちなみにぼくは昨日知った。笑

しかし、この法則はすごく自然な法則である。ぼくはこの法則を見てこんなことを呟いった。

ダグラス・アダムスの法則はニュートン力学のように我々が生きる世界の自然法則である。でも、大丈夫、ぼくは超ミクロの世界か広大な宇宙の法則で生きてるからw
ニュートン力学の法則の中で、自らの限界に挑むオリンピック選手から発せられるほんの微かな法則外の姿を見逃さないために、ぼくは五輪を観ているのかもしれない。ダグラス・アダムスの法則から外れた世界を見ると世界の見え方が変わるかもよ。なんの法則もないまま、世間の空気に押されて外でまでマスクなんかしてないで。

我々が生きてる世界はごく狭い世界で生きている。ニュートン力学は人類が基本的生活をおくる上で絶対の法則である。しかし、それは狭い範囲の法則だ、もっと自由に外に目を向け狭い法則に縛られないより広い法則を知りたいのである。宇宙に一般相対性理論が必要だったように、ミクロの世界では量子力学が必要だったように、一つの法則で自らを狭い鳥かごにしまい込んではいけない。法則という鍵は持たないと鳥かごの扉を開けることはできない、でも持った鍵で扉を閉ざしてしまってはんにもならない。閉めるための鍵なら、いっそ捨ててしまったほうがよほどマシだ。

「法」という漢字からはなにか硬い意味合いが漂う。人間社会は「法」があるからこそ有る一定の秩序をもたらしていることは理解しているつもりである、が、しかしそこに自由が対でなければ鍵穴もふさがれ、一生開くことない鳥かごの鳥である。いっそ鍵など捨ててしまったほうがマシである。「法」が「自由」をもたらすものでないなら。

鍵は閉めることと開けることの両方の役割があると理解した上で、常識的発言として適材適所に開けたり閉めることと答えられる。それは間違っていない。それでも人は一度は開けるかもしれないが、あとは閉めっぱなしになってしまう。その鍵を金庫にしまい、またその金庫の鍵をまたどこかに隠し、、、もう鍵を見失ってしまう。ぼくのようにw

法則は破るためにあるのではない、越えるためにあるのである。法則を自分の意に沿わないだけで否定したところで破滅を招く。またアップデートしなければ停滞し腐敗する。「法」には一定範囲を維持するという役割を持っているが、アップデートしない「法」は「放」である、無秩序な単なる放棄の。

ごちゃごちゃと言ってきたが、ぼくは真の自由を求めているのかもしれない。
真の自由とは外部からの解放ではなく、うちなる自分からの解放なのかもしれない。

つまりそれは、、また余計なことを言いそうなのでこの辺でやめておこう。笑

あんまり物事にとらわれすぎないようにということが言いたいだけです。では、今日はこの辺で。


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