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秋の空と、生きた赤いザリガニ


空がとってもきれいな季節である。雲も涼しげになびいて行く。

風は、すっかり秋の風になった。


午後からお米を搗くために、精米機があるところまで出かけた。風は涼しいけれど、やはり日差しはまだ暑い。車から降りて、ふと空を見上げる。


大きな川のように美しい雲が、悠然と浮かんでいた。静止しているかのように。流れているはずなのに、止まっているように見えた。

カメラを持っていない場合に空がきれいだったら、”撮りたかったなぁ”と内心そう思いながらも、色や形の移り具合を、ゆっくり静かに眺めていられる。

しかし、家の近くなど、カメラを持ってきてすぐ撮れる範囲で、いい感じの空模様だったら、そわそわしてしまう。


精米が終わって、家に戻る。駐車場であの雲はまだあるかを確かめる。

雲は数秒ですぐ姿を変えてしまうから、できるだけ早くカメラに収めたい。まだ熱い白米を、いそいそと玄関からすぐ近くのところに置き、部屋からカメラを持ち出して、外に出た。



とんびが空高く、小さくなって飛んでいる。

あんなに高いところで、いい風が吹いているのだと、雲の形からだけでなく、とんびも、その舞う姿で知らせてくれている気がした。


あの雲を撮りたいという気持ちと、流れるままをただ、何のフィルターもなく眺めていたい気持ちが、交錯する。

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写真を撮りつつも、カメラを下ろして見入って、少しすると、またあの雲を撮りたくなってカメラを構える。

何枚か撮って、ファインダー越しに雲を見ていると、やっぱり自分がもったいないことをしているような気持ちになり、カメラの電源を切る。そして、また撮りたくなる雲を見つけては、カメラを持ち上げる。

無意識だけれど、その繰り返しをどうやら私はしているようだ。

美しい空の下では、たいそう欲張りになる。一人でいそがしくしている。

見たいもの、感じたいことばかり。

写真に収めたい。何のためかはわからなくても。




夕方、散歩に出かけた。いつもの田んぼ道を通りかかった。

すると前方に、赤茶色っぽいものが、動いている。

しゃがんでみると、10センチくらいの、赤いザリガニだった。

それも、一匹二匹ではなかった。

少し周りを見渡すと、道のど真ん中や、田んぼとの境の近くの枯れ草の上に、沢山のザリガニが歩いていた。枯れ草の上はよく見えなかったが、立ち止まってよく見ると、その動きで沢山いることがわかった。

大きい大人のザリガニは、赤黒くて、高さもあってよく目立つ。何も手を出したりしていなくても、彼らの視界に入っただけで両手の鋏を上げはじめるので、そっと離れて上から見ていた。

中くらいのザリガニは歩く茶色いエビみたいで、枯れ草に色が似てわかりにくく、さらに小さい3センチくらいの子供のザリガニも必死で歩いていた。それらはもっと薄茶色で、動きも小さかった。日が落ちたあとなので、もし、散歩の時間帯が少しでも遅かったら、私は見過ごして踏んでいたかもしれない。

近所にザリガニが棲息していることは知っていた。散歩道にはいつも、何かに食べられて散らばった殻や、いつまでも道路の端で風雨にさらされて白く転がっている殻があったのは見てきたからだ。

それでも私にとっては驚くべきことだった。

ここに越してから数年たって、初めて生きている彼らを見たからである。

しかも、一匹がのんびり歩いているとかではなく、大小まとまって何十匹も現れた光景に出くわしたのは、人生でも初めてのことだった。

散り散りに歩いて行ったのか、引っ越しのようにみんなでどこかを目指していたのかわからなかったが、道の約5メートル範囲内に、わりと固まって歩いていた。


私は、来た道を折り返して、小さいザリガニに注意して足元をみながら、ザリガニを数えていくことにした。

24匹もいた。徐々に景色も暗くなりはじめたので、大きいものと中くらいものしか数えられなかったが、結構いた。小さいザリガニを含めたら、もっといたことになる。

道の真ん中でずっと下を向いていたので、水路を挟んだ向かい側の道を歩いていた、かわいい柴犬を連れた人から、何か落とし物でもしたのですか、と声をかけられた。いえ、沢山ザリガニを見つけたので珍しくて、と興奮冷めやらぬまま答えた。

偶然にしては、希少な体験だった。

里山に住んでいて一度にあれだけのザリガニをみた見たのは、初めてであった。海辺の地域で、大量のカニが道を歩く光景は、テレビなどで見たことがあったりして知っていたけれど。

まさか、ザリガニを踏まないように避けながら散歩道を歩く体験をするとは思わなかった。

何かのいい前触れかな。

そういうことにしておこうと思っている。

ザリガニエリアを抜けて振り返って、どこへ向かったかはわからないけれど、あんまり踏まれたり食べられたり、しないことを少し願った。


亡骸しか見たことがなかった近所のザリガニ。今日、生きて動いている姿をやっと見て、棲息の実態を確認したのは、新鮮な感覚だった。知ってたけれど、本当に生きて生活してたんだね、というような。知っていたけど、生きている姿はだれも見たことがない謎めいた存在との初めましてのご対面、なのだ。

だから、生きている姿が、異様に瑞々しくみえた。ザリガニは鋏を上げでいたが、そのくらい近寄って凝視してしまった私がいたのは、そのためだったのかもしれない。


動く姿は見てないけれど、存在は知っている存在。そして、普段姿も見えないし、存在も知らないような存在。そのような存在たちの方が、圧倒的に多いのだ。

新鮮な生きた出会いは、これからである。




帰り道、一輪の真っ赤な彼岸花が、すっと咲いているのをみつけた。

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