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理想と自分勝手の文化芸術活動(朝井リョウ/何様)

頭の中にいる叔父さんが、舞台の上で話している。自分の作ったものについて、自分が伝えたかったことについて。週末にきちんと休むことができ て、数時間のためにいくらかのお金を払うことができる人たちの前で、社会 の生きづらさについて描きたかったと、きれいなジャケットを着て、背筋 を伸ばして、話し続けている。
朝井リョウ. 何様(新潮文庫) (Kindle の位置No.2306-2309). 新潮社. Kindle 版.

以前にも朝井リョウの小説、物語に関する記事を書いたんだけど、今回はその中の一節に言及したかたちで文章を書こうと思う。

上記は、著書「何様」の”きみだけの絶対”に出てくるフレーズである。

あらすじ

主人公は高校2年生でサッカー部所属。”普通の家庭”。母親には十歳年の離れた弟がおり、劇作家として活躍している烏丸ギンジなる人物がいる。それほど全国的に知名度が高いわけではなく、むしろ、その逆に近い。その劇作家について、母親が記者からインタビューを受けるシーンから物語は始まる。

主人公の父親は、商社に勤めており、長年パッとしない親戚の劇作家としての職業を「社会に必要のない仕事」と評し、「ちゃんとした仕事」に就いていないことに対して、良く思っていない描写がみられる

また主人公には、花奈という同学年の彼女がいる。彼女には父親がおらず、母親は土日も休みなく働いている。いわゆる”普通の家庭”ではない。

とあることがきっかけで、主人公は、彼女と一緒に叔父にあたるこの人物の演劇を見に行くことになる。

その演劇後の烏丸ギンジのセリフのようなものが上記の引用だ。

雑文

だからってどうでもないんだけど、世の中の不条理さみたいなものがこの一文に詰まっているような気がして、読了後もこのセリフが自分の中の何かにずっと引っかかっていた。

文化芸術は人々のためにあるという。社会、人間関係、いろんなことで悩む現代人を救うために、特にこういった世の中が急激な変化にあるときこそ、「文化芸術の灯を消してはならないのです」といった類の言葉を最近でもよく目にする機会が多かった。

いわゆるアーティスト、表現者、クリエイターといわれる人たちは、全国民を対象にはしていない。そこには条件があって、あくまでも自分たちの表現したものに共感してくれたり、支援してくれたりする場合に限る。それ自体には別に何も異論はなく、そういうものだろう。なんだってそうだ。社会生活というのはそういうものが積み重なってできている。

ただ、そのくせ、発信するメッセージはそうなっていないことが多い。人間関係に悩む全ての人たちへ。不安な世の中で困っている人たちへ、届けばいいなって思うんです、といったことを平然と言う。

実際は、そんなメッセージ、及び、制作物はある程度”余裕のある人”にしか届かないんだ。そんなものを楽しめる”余裕のある人”にしか。

高い洋服を着て、高い機材を使って、タワーマンションの高層階に住んでいる人の音楽なり、表現物が、休みもなく働いている人たちへ、そんな余裕のない人たちへ届くはずがない。

それでも、クリエイターたちは、あたかもそんな人たちに向けたメッセージです、みたいなきれいごとをことあるごとに発信して、それに共感する人もまた同じように生まれる。

しょうがないこと。それはわかる。文化芸術だって金儲けだ。慈善事業じゃないんだから綺麗ごとを言っている場合じゃない。だからわかるし、理解はしている。

ただ、引用した文章に詰め込まれているようなある種の矛盾、気持ち悪さは確かにある。

著者自身、そういった小説家としての自分の葛藤なりがこの物語だけに限らず、他の作品にも随所に見られる。誰のための作品か。本当に届いてほしい人たちに届けることができるのか。

いや、本当に届けたち人、なんていうのがそもそもの設定としては間違っていて、それこそ驕りなのかもしれない。そんなものは世の中に出してしまえばあとは世の中に任せるべきだ。でも、わかっていたって葛藤は残り続ける。

世の中にはこういうことがたくさんある。いや、こういうことの方が多いのかもしれない。

それでも、誰かが創作物を通じて何かを感じることができればそれでいいのかもしれない。

それが例え金持ちのお金儲けのための活動だったとしても。そうじゃなきゃ、金持ちは世間に創作物を発信することができなくなってしまうのだから。

そうやってきらびやかな音楽や贅沢な創作物を消化し続けるんだ。それでいい。何も間違ってやしないんだから。

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