[ショートショート]バイシクルレース
遠く向こうから雨の匂い。少し前から気付いていた。
胸のどこか奥の方が締め付けられるような感覚に、そっと涙と唾を飲み込む。
この自転車レースに出場することを決めたのは、ほんの数日前のことだ。
インターネット上のとあるサイトでは、「勝てば好きなものがなんでも手に入る」というまことしやかな噂が流れるレース。もちろんそれはあくまで噂であり、実際には地元で行われる小さな小さなしがない町興しのイベントでしかない。
それでも、胡色という孤島を気兼ねなく一周できるということで、開催以来少しずつ規模を大きくしている。近年では、島外からもそれなりの参加者が集うようになった。今や胡色島含むその地域において、毎年の名物とるほどのちょっとした島興しイベントである。
そうはいえども、「勝てばなんでも手に入る」などという世迷言に心を奪われ、噂に踊らされて参加するような酔狂な者はいないだろう。
おそらく、この僕を除いては。
ここ、胡色島は僕の故郷である。
その故郷の自転車レースに参加をすることにした。
手にしたかったものを手にするために。
僕が手にしたかったものは尽く失った。
いや、正確には手にすら入らなかったものを手にしたいと願った。
……もしかすれば、それも正確ではないのかもしれない。
僕は高校進学と同時に島外の学校に通うことになった。だが、無念なことに、高校で激しい虐めにあった。入学してからドロップアウトするまでに、それほどの時間は必要なかった。虐めの最初の原因が何だったかなんて、もはや思い出せない。
思い出したくもない。
しかし、狭い島のことだ。
僕が虐められて、おめおめと実家に戻り引き篭もったという事実は、一週間も経ずに全島民にまで知れ渡った。
狭い狭い田舎の島社会のことだ。虐めなど受ける方が弱いのだと決め付けられ、我が家は負け犬の家として蔑まれた。
そんなに強くなかった僕は、その惨めな状況を受け入れることができず、外界との接触を断つようになった。
それでも父も母も優しかった。虐めを機に引き篭りと化した一人息子を気長に、そして、暖かく見守ってくれた。
そうこうしていると、早くも十年近い歳月が流れていた。
その間に自室に籠るだけの生活から脱却することはできたが、胸を張って言えることでもない。せいぜい実家から十分程度の距離までしか足を伸ばすができないのだから。
それでもインターネットを介してライターとしての職を得て、日銭程度ならば自らの手で稼げるようにはなっていた。
父も母も十年間で多少の老いは見受けられるが、家族三人と愛犬一匹で平穏な暮らしを過ごしていた。
そう、あの日までは。
あの日、僕がライターとして長い年月を書けて編纂し、見事に出版までにこぎつけた書籍によって、僕らの慎ましやかな人生は一変した。
書籍の内容は、虐められた人々の記録をまとめたルポルタージュだ。
虐めを経験した人々の話を聞くために、現地まで赴くということはしなかった。いや、やろうとしても勇気が出ず、ついぞできなかったのだ。僕は相変わらず実家から少しの距離までしか歩けない弱虫のままだったから。
それでも、虐めの経験についてオンライン会議システムを活用し、関係者たちにインタビューをさせてもらった。虐め経験者は、実際には対面したこともない僕を信用して話をしてくれた。それは、僕自身が虐めの被害者であったことが大きいのかもしれない。
だからこそ、僕は自分自身の過去と対峙するためにも、かつての高校時代の虐めについてもその中の一編としてまとめることにしたのだ。
そうすることが、インタビューをさせてくれた人々への僕なりの感謝の証だった。
しかし、それが仇となった。
その当時、僕への虐めに加担していた人物が今や、時の権力者まであと一歩のところまで上り詰めていた。つまり、僕の住む胡色島を含む狭い地域の長に王手をかけるほどに出世をしていた。
彼女は、この書籍は虐めの記録という様相を呈しつつも、自身を貶めるために書かれたものである、と受け取った。
もちろん、僕にそのような意図はなかった。あくまで事実をまとめたに過ぎなかった。加えて、被害者である僕のことも、加害者である誰かのことも個人情報を特定できるような内容にはすることは当然避けた。
だが、時の権力者及び彼女に媚を売る過激派は、過去の仕返しであると捉えたのだろう。読む人が読めば、誰のことを言っているかわかる。これは僕からの報復であると彼らは考えた。
そうして、作者である僕の家まで押しかけ、あろうことか深夜に火を放つ。
その夜は、愛犬がワンワンとやたらと吠え続けていた。
うるさいなと思っていたが、たまに無駄吠えをすることがあるので、さほど気にはしていなかった。だが、その声が突如として苦しいものに変わったことでベッドから飛び起き、何事かと思い窓の外を見遣る。
すると、とうとうと燃える我が家の一部が目に飛び込んで来たのだ。
二階で寝ていた僕は階段まで駆けつけたが、その時には既に一階は火の海と化していた。もはやこれまでと決死の覚悟で二階の窓から飛び降り、軽い怪我は負ったものの命に別状はなかった。
しかし、一階で寝ていた両親は残念ながら煙と火に巻き込まれ逃げ遅れた。愛犬は見るも無残な姿と化していた。
最愛の両親と愛犬は、一夜にして二度とは還らぬ存在となってしまった。
放火である事は警察も認めていた。だが、犯人の特定及び逮捕までは至らなかった。理由は明白だ。時の権力者たる彼の圧力に屈したのだ。
それからというもの、僕が引き篭もる家はなくなった。
時の権力者に歯向かった者としての烙印も押され、今まで以上に形見の狭い思いをして生きることを余儀なくされた。
もう僕には生きる意味など何一つもなかった。
身内は誰もおらず、この一件によって職を続ける気力をも失った。
そんな時にこのレースのことを知った。
「勝てばなんでも手に入る」などという世迷言に心を奪われた。噂話に踊らされた。藁をも掴む思いで、もう一度やり直したいと強く願った。悲劇の役者を演じるつもりなど毛頭ないが、最後くらい夢を見ることは許して欲しかった。
そうして、今に至る。
今、僕は自転車を漕いでいる。
しかし、引き篭もりだった僕が練習もそこそこに一位を取るなど土台無理な話だ。
タイヤのチューブは擦り減り、漕ぎ出すペースを奪い去るように、少しずつ少しずつ僕は離されていった。
走り出して数分だというのに、先頭集団からは遠く遠く引き離された。
あぁ、僕に勝利の女神は振り向いてはくれないのか。
僕は泣き笑いのような表情になる。
加えて、この雨の匂いだ。
もう勝つことはできないだろう。前を走る者には到底追いつくことはできない。振り返っても、何も見えない。誰もいなくなったように、僕一人だけが走っている。
負けるとわかっているのに、僕は、僕自身を鼓舞するようにハンドルを強く握った。力の限りにペダルを漕いだ。進まなきゃ。さぁ。
なぜ、僕はこんなにも必死に走っているのだろう。もはや理由なんてわからない。
いつからか雨が強くなっていた。僕は声を上げて雨の中を叫んでいた。
あぁ、もう僕の人生はここまでか。
あぁ、もう僕はこれで終わりなのか。
そう思っているのに、どうしてもペダルを踏む力を緩めることはできなかった。漕ぎ出せ。走り出せ。僕の中の何かが爆発している。最後の光を解き放つように。
無我夢中に五里霧中な雨の中を走っていると、今までの生きてきた足跡が浮かんでくる。
両親を失った日のこと。出版社から企画の書籍化を提案されたことを伝え、父が大きな涙を一粒流したこと。初めてライターとして自分の名前で記事を書いた時に、真っ先に感想を伝えてくれた母のこと。ライターとして仕事をもらったことを両親が大袈裟に喜んでくれた日のこと。ボロボロに打ちひしがれた高校生の僕をそっと撫でてくれた父の掌のこと。都心の進学校に入学する僕を親戚中に自慢する母のこと。そして、島から出る時に隣に住む幼なじみが寂しげにしていたその姿。
そんな光景がどうしてかフラッシュバックしていった。
そこで僕はハッとする。白昼夢を見ていたのか。気付いた時には、いつの間にかゴールのアーチが眼前に迫るところまで走っていた。当然一位ではなかったけれど、このレースを走り切ることができたということに安堵を覚えた。
だが、ゴールの光景は妙だった。
ゴール付近の横断幕には「第一回胡色島横断ロードレース」という文字が風に踊っている。
第一回……そんなはずはない。第一回といえば、僕が高校に進学した年のことだ。その年に、幼なじみのエミちゃんと一緒にレースに出ようと話をしていたのだ。
しかし、約束を果たすことなくドロップアウトした。ドロップアウトせざるを得なかった。高校からもレースからも、その他のことからも。
だが、今、その「第一回」のロードレースに参加したことになっている。
どういうことだ。
混乱する頭をよそに、先日、亡くなったはずの両親と愛犬が僕を目掛けて駆け寄ってきた。
「よく頑張ったな。一位なんかじゃなくていいんだ。諦めることなく走り切ること。そうやって、自分自身に勝つことが大事なんだ」駆け寄ってきた父が労う。
全然来なかったからちょっと心配しちゃったのよ。エミちゃんなんか、貴方よりもだいぶ前にゴールしちゃったんだからと言い、母はふふふと笑う。それから、僕の滴り落ちる汗を丁寧に優しく拭ってくれた。
僕よりも速くゴールへとたどり着いたという幼なじみは、僕の方を振り向いて微笑んだ。「遅かったじゃない」と笑ってくれた。彼女は僕に振り向いてくれた。
僕はこの瞬間にいる。この瞬間に生きている。
どうしてだかはわからない。わからないけれど、僕はいま、叶うことのなかったあの日の中にいる。父も母も愛犬もいる。生きて、今ここにいる。
大好きだったあの子が、来年は私より前を走ってくれないと困るなぁ、などとしたり顔で話しかけてくる。
空へと顔を向け、一度大きく鼻から息を吸い込み、息を一気に吐き出す。そして、大切な何かを溢すことのないように鼻をすすった。海と太陽の香りが風に乗って漂っている。同時に、美味しそうなお味噌汁の匂いが鼻腔をくすぐるものだから、涙が溢れそうになる。
「ただいま。あー、お腹すいた」と言って、ヘルメットを脱いだ。
<リスペクト>
『バイシクルレース』ASIAN KUNG-FU GENERATION
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