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あぁ、今、風に吹かれた。

私が初めて買ったCDは「栄光の架橋」のシングルだ。
通学路にある小さなビデオ屋で、レンタル落ち50円。
アテネオリンピックが終わった2004年の秋だった。

中学二年の私は、全校生徒300人の小さな学校で50人の女子が所属するバドミントン部の部長をしていた。
栄光の架橋を買ったのは顧問の先生からの勧めだった。
我が家には音楽を聴く習慣は無かった。
唯一聴くのは父親の車の中ぐらい。
だけど中学一年の頃に父が倒れてからは車に乗ることもなくなっていた。

低血糖症だとか、若年性アルツハイマーだとか。
父親の病気は色々と名がついていたけど正直あんまりよく知らなかった。
二度と意識が戻らないかもしれないと言われてた人が、自力歩行ができるようになったことを喜んだ方がいいのだろう。
例え、父親と同じ姿形をした人が自分のことをすっかり忘れてしまっていたとしても。

父親が倒れた日、私は病院には呼ばれなかった。
何も知らないままいつも通り授業を受け、部活を終えた。
近所の人が学校に迎えに来てくれて、そこで初めて状況を知った。
呼ばれるまで友達の家で待ち、母親が迎えに来た時にはもう家族会議は終わった後だった。

父は仕事を辞めてから酒量が増える一方だった。
だからいつかはよくないことが起きるだろうと思っていて、そんなに驚かなかった。
酔っぱらったまま車を運転してしまうこともあったから、誰かを殺してしまう前に倒れてくれて良かったとさえ思った。
その時の私はこの状況に対して怖いぐらい無感情だった。

痴呆になって家族のこともわからなくなってしまって、まるで他人のように応対されて傷ついている人の経験談をよく目にする。
私は父親の妹に似ているらしくその人の名で呼ばれた。
家族だと認識されているだけマシ。そう思った。


中学二年の夏休みの宿題で父親を題材に文章を書いた。
その作文が反響を呼んでいることを知ったのは選考委員の一人から「この作文を書いた子と話がしてみたい」と自宅に電話がかかって来た時だった。
私がそんな文章を書いていたことを家族が知ったのもその時だった。
また私がいないところで家族会議があったんだと思う。
翌日から祖父母と一緒に母屋で食べていた夕食を、離れで母と二人で食べるようになった。
元々折り合いが良くなかった母と祖母の関係にとどめをさしてしまったんじゃないか。
今でもそう思ってるけど、結局何も聞けないまま数年後に祖母は死んでしまった。

この作文を提出した後すぐ生活指導の先生に呼ばれていた。
「この作文を書いたことを家族は知っているのか」と聞かれて、深く考えず「知っている」と嘘をついた。
だから引け目があった。
私が書いた作文は順調に選考を通っていったが全国に行く手前で母が辞退の連絡を入れたそうだ。
結局、県の特別賞という扱いになった。
他の受賞作品は広報に掲載されたが私の作品だけ本文は掲載されず名前のみ書かれている。
全校朝礼で賞状をもらった。
事情を知らない後輩達は家やクラスで文武両道の部長を誇って話したらしい。
知らない人から声をかけられる度、私は気まずい思いをしていた。

別にいじめられていたわけでもない。
傍目から見たら友達に囲まれて、うまくやっていたように見えたと思う。
辛かったなんて言ったらもっと辛い思いをしていた人に失礼だからそんなことは言えない。
でもなんだかとても違和感があって、当時はそれが「疲れ」だということにも気づかなかった。

一度、体調が悪いと嘘をついて午後の部活を休んだことがある。
いつもより早い時間に学校を出て、いつもとは違う道を通り、いつも通りの時間に家に帰った。
とても自由な気分だった。
翌日、部員や先生が心配して声をかけてくれた。
その顔を見たら「こういうことをしてはいけないんだな」と感じて、それ以来引退まで部活を休めなかった。
可哀想なぐらい必死に「良い部長」をしていた。

体育祭の選抜リレーで第一走者としてスタート位置に立った時の景色が忘れられない。
大勢の人から声援を受けて「自分というキャラクター」が愛されているのを知るのと同時に居心地が悪くて孤独だった。
全てがチグハグに感じて、理由のわからない苛立ちを感じながら、それでも与えられた役割を演じていた。

中学三年になり、部活の引退が近づき、進路の選択が迫られた。
相変わらず表面上はとてもうまくいっていた。
成績も悪くもない。
塾、学校、親。
大人が何を求めているかはわかっていた。
背伸びをすれば入れる進学校。
わかった上で無視して、一つランクを下げた高校を第一志望に決めた。
本当はその高校に行きたかったわけじゃない。
恵まれた環境で過ごせてしまった中学時代を全否定したくなってしまったのだ。
高校生活を楽しんではいけないんだとなぜか強く信じていた。
今思えば全部間違っているんだけど、自分の中では贖罪のつもりだった。

私の後を追って同じ塾に来た後輩に塾の先生が「先輩も部活を引退する前からこの塾に来ていれば、あの学校に行けたのに」と話していたと聞いた。
その時は曖昧に笑って聞き流していた。
自分がした選択を否定されたことにとても傷ついていたことを、気が付いたのはだいぶ大人になってからだった。

その頃、知らない間に父の車の売却が決まっていた。
父は私のことを忘れてしまった。
私も大人になるにつれて幼い頃のことを忘れていく。
二人で出かけた場所がどこだったのかはぼんやりしていて思い出せないし、どんな会話をしたかも定かじゃない。
唯一、一部始終を見ていた車もなくなってしまう。
なんだか急に寂しく感じた。
誰も覚えていなかったら、その事実は存在していないと同じなんじゃないか。
今、この瞬間、大事に思っていることもいつか全部忘れてしまう。
忘れてしまうのに、それでも生きている意味ってあるんだろうか。
私は忘れることが怖くて仕方なかった。

公文式の英語学習用の機械が我が家に残った唯一の音楽プレイヤーだった。
受験勉強をしながら、50円で買った栄光の架橋を何度も何度も聞いていた。
苦悩を苦悩だと理解できないまま苦悩の真っただ中にいた私にとって「もう迷わず進めばいい」というフレーズは眩しくて重かった。
確かに支えの中を歩いている。だけどとても居心地が悪い。
希望に満ちた空なんて見えないのにどこに向かって走ればいいのかなんてわかるはずがない。
そう思っていた。

始めは「風に吹かれた」を印象の薄い曲だとしか思っていなかった。
キャッチーなA面と地味なB面。よくある話。
繰り返し耳には入っていたけど歌詞の意味を考えたこともなかった。

卒業を間近に控えたある日の学校帰り。
夕暮れの交差点の信号待ちの風景をよく覚えている。
なんでその日突然そうなったのかはわからないけど、
不意に風景とマッチして「風に吹かれた」の歌詞が頭の中に流れてきた。
私がいまだにこの曲の歌詞の意味が分からないのは、
あの日感じた自分の感情があまりにも強烈で、この曲自体が解釈できないからだ。

過ぎてゆく時の中動いてる あの日の声が聴こえる。
違う場所選べずに立ち止まる 同じ朝がどうか来ます様に

ストン、と腑に落ちた。
父親が自分のことを忘れたことが悲しくなかったわけじゃない。
あまりにも悲しかったから理解しないようにして距離を置いていただけだった。
だから感情が動かなかったのだ。

父親から自分じゃない名前で呼ばれることを簡単に受け入れられるはずなんてない。
家族の中で一番仲が良くて、どこにいくのも一緒で、「お母さんには内緒」って約束した二人だけの思い出が沢山あった。
思い出さないようにしてただけで、本当は全然忘れてなかった。
向き合わないで放置していたあの日の悲しみはまるっとそのまま真空パックされていた。

「誰かのせいにしてきた。明日は一体どっちだっけ?」
A面の光の隙間を埋めるように寄り添う影。
栄光の架橋に向かって進めない置いてけぼりの私に「風に吹かれた」は優しかった。
「君の記憶の中にそこに僕はいますか?」
その声があまりにも真っすぐで初めて涙が出た。
父が倒れてからもう2年経っていた。
父の記憶の中には私はいない。
その事実と初めて向き合って、ようやく理解できた。
2年経ってようやく始めの一歩が踏み出せた。
これが岩沢厚治というシンガーソングライターとの出会いだ。

思春期の私にとって、自分でもよくわからない感覚は大抵岩沢厚治の言葉で言語化されてきた。
忘れることに怯える私に「知らない方がましだなんて思わないで」と教えてくれたのも岩沢厚治だったし、
孤独も苛立ちも希望も諦めも許しも、全部岩沢厚治が教えてくれた。
岩沢さんが居なければ。岩沢さんが書いた曲と出会っていなければ。
そんなことを考えると恐ろしくなる。

中2の私は「記憶を失って、自分自身のことも家族のこともわからなくなって。それでも生きててほしいと願うのは家族のエゴではないか」と作文に書いた。
あれから16年経って今、父は養護施設に居る。
いつも穏やかでニコニコしていて、たまに面白いことを言うから介護士さんたちの人気者である。
「君の毎日は幸せかい?」
きっと彼の人生は、それはそれなりに幸せなんじゃないかと思う。
今でも私を見て妹の名前を呼ぶ。

私が生まれ育った町を離れてもう8年経つ。
50円の栄光の架橋を買ったレンタルビデオ屋はとっくの昔に潰れてしまった。
私はもうすぐ30歳になり、もうすぐ30歳だった岩沢厚治は44歳になった。
私は今日もゆずを聞いている。

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