咲希さん

「ごめん、辛いもの苦手だったよね?」

咲希さんはカウンターの隣席から僕の顔を覗き込んだ。

すんなり覗き込まれるわけにはいかない。涼しい顔をしてみせないといけない。しかしながら汗は容赦なく吹き出していて、今にもカレー皿に滴り落ちんとしているのが自分でも分かる。
大丈夫ですと、せめて一言だけでも発したい。しかしながらスパイスから来る刺激が口の中で暴れ回っていて、舌を安易に動かせない。気を抜くと「はいほうふ」という気の抜けた大丈夫が飛び出しそうである。

心配そうな咲希さんを他所目に、あえて堂々と、しっかりと口の中を空にし、あえてゆっくりと、全てをすすぎ落とすようにコップの水を飲み干した。まだちょっとヒリヒリするが、ようやっと舌の準備が整ったと見て、くっきりはっきりと

「苦手です」と答えた。

「隠していてすみません」と続けた。

そんな、言ってくれたら良かったのに、というやさしい非難を遮るようにして続けた。

「舞い上がっておりました」
「辛いものが苦手というのを自分でも忘れておりました」
「そもそも、エスニックというものをほとんど口にしたことがなく」
「これから口にするものが辛いのかどうか、というジャッジを怠っておりました」
「『食べてほしいタイ料理があるんだ』とおっしゃるものですから」
「舞い上がっておりました」
「タイ料理が食べられるかどうか熟考するより先に、『行きます』と言っちゃったんです」
「言っちゃったっていうか、LINEでしたけど」
「まあそれはいいか」

途中から咲希さんが笑ってくれているのが分かった。
もう許されるのはここしかなかった。辛いのが苦手だと伏せていた(つもりはないけど)、そのバツの悪さを吹き飛ばさなくてはいけなかった。畳み掛けるしかなかった。

「勘違いして欲しくないのが」
「このカレーはあまりにも辛いですが、あまりにも美味しいです」
「辛さ云々を言うならばむしろ、深緑のカレーが出てきた時点で、その色味に息を呑みました」
「この色のカレーを他人に勧める人とは相入れないかもしれない、とまで思いました」
「しかし一口、だって咲希さんの勧めですから、一口入れたが最後、あまりの旨味が口を駆け巡ったのです」
「でも辛かったです」
「本当に辛い」
「そこで辛いものが苦手だと思い出しました」
「でも美味しかったんです」
「美味しいのだけは伝えないと、だって」

そこまで捲し立てたところで激しくむせてしまった。

笑いすぎてはふはふ言っていた咲希さんは慌てて「大丈夫?」と背中をさすってくれた。あまりに笑っていたものだから、気の抜けた「はいほうふ」に聞こえた。笑いすぎて目には涙が滲んでいるようだった。
あまりにも情けなかったが、存外な空気の良さは儲けもんだった。さすってもらった背中にまだまだ新鮮な喜びを感じながら、なんとか残りのカレーをやっつけた。

咲希さんは、この辛さにも慣れているようで、終始涼しい顔をしていた。
口内への刺激には鈍感なわりに、人の痛みをよく分かってくれる、あるいは分かっていなくても、じんわり和らげてくれるようなそんな人だと思った。


「来週は、西口のトムヤムクンを狙ってるんだけど、好き?」
と、露骨に口元を緩めながら尋ねてきた。

トムヤムクンは食べたことがなかった。
間髪入れず
「好きです」と答えて店を後にした。




もう辞めてしまった芸人の先輩が随分昔、「ブログに小説を書く練習をしたいから、お題として最初のセリフをくれない?」と言ってくれたことがあった。練習の一発目として、僕指名してくれたのだった。

それが嬉しくて、しばし考えてから件の一文を送らせてもらった。

結局、先輩のブログは(少なくとも僕が見える範囲で)一度も更新されることはなく、お笑いも辞めてしまった。僕のお題は宙ぶらりんなままだった(たぶん)。

いっちょ腰を上げてがんばることが早々に立ち行かなくなる、みたいなことは本当にある。めっちゃある。今でもそういうことあるし、当時の雰囲気も、想像だけどめっちゃ分かる。

供養というと大袈裟だけど、勝手ながら、思いつきながら、こういった形で引き取らせてもらうことにした。
ちょっとずつ練習していこうと思う。もし良かったら、感想をください。全然ダメだったら、そっとしておいてください。


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