一五分間死んだ男 その2
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一五分間死んだ男 その2

 坂口哲也、四〇才。無職。住所不定。私大文系学部中退の後、不動産管理会社、学習塾、飲食店などに勤務。現在無職。免許、資格等なし。過去五年以上、求職活動の実績なし。両親はすでに他界し、他の親族とは音信不通。姉がいたが、不慮の事故で近年他界。住所不定のため訃報を受け取れず、葬儀への出席なし。婚姻歴なし、現在交際相手もなし。交友関係は不明。思想信条主義主張に一貫性がなく、将来性は皆無。
「見事に何もない男だな」
国立横浜大学理工学部教授の曽我時延教授は、『坂口哲也』なる男の釣り書を読んで言った。彼は、力士のような頑健な体を、膝までの丈の白衣に包んでいた。
「そうです。彼こそ、我々の求めていた男です」
隣に掛けていた医療機器販売会社『イシバシ』の営業部長の安達が、黒革の鞄を抱えながら身を乗り出した。
「二〇代の頃に女性と同棲していた時期があるんですか、その部屋を出てからは住所不定。現在は、横浜駅周辺を根城に、サウナやインターネットカフェを泊まり歩いて暮らしています。路上での詐欺行為で日銭を得ているようです。女性は他の男性と結婚し、完全に縁が切れています」
「経歴はともかく、健康なら、まだハローワークで仕事を紹介してもらえる年齢だ。生活費が足りなければ、公的扶助を受けることもできる」
「扶助ってのは、もらいに行かなければくれないんですよ」
曽我の向かいの、私立相武女子大学生活科学部准教授の天野が、かすれた笑い声を上げた。
 陽だまりの中庭。人工芝を敷き詰めた広場に置いた白い丸テーブルを囲んで、彼らは安達の報告を聞いていた。「この男なら、すぐにもお連れできます」と安達は、禿げた頭を日差しで光らせながら請け負った。曽我が咳払いをした。
「治験ボランティア選びは慎重を期しませんと。後で訴訟にでもなったら面倒だ」
「その心配は無用じゃ」
日を背にした老博士が口を開いた。
「この計画に参加することは、この男にとっても意義のあることじゃ」
落ち窪んだ目元と突き出した頬骨。薄い唇には皺が寄り、口を開くごとにむき出しになる歯は疎らで、歯茎はほとんど消えていた。髪には全く黒いものがなく、風に靡いて火炎のように広がり、尖った鼻の下にも同じ色の毛がはみ出していた。横浜シチー大学医学部名誉教授、宇佐美経康。ここは、横浜駅の西北に位置する三ツ沢の丘の上、旧市民病院の跡地に近年開設された『生活造形研究所』の中庭だ。宇佐美博士は、日本の脳神経医学の権威として、この研究所を統括していた。
 メロン大のゴムボールが飛んできて、ポコン、と宇佐美の頭に当たった。宇佐美はキュッと目を閉じると、ゆっくりと体を左に傾けた。慌てて天野が彼の体を支えた。
「すみませーん」
ピンクのジャージを着た若い保育士が、駆け寄ってボールを拾った。彼女の後から、元気そうな男の子が裸足で駆けて来て、彼女からボールを奪って逃げた。彼女は子どもを追って去った。
 曽我が手を引き、天野が背中を支えて宇佐美を座らせた。そこへ、キビキビとした足取りで現れた老人が、「元帥閣下に、敬礼!」と叫んで立ち止まり、右手を額の高さに上げた。灰色の瞳を突き出した枯れ木のような老人だが、腰から下に電動の補助機材をつけ、矍鑠と自分の足で歩いていた。
「おじいちゃん、ダメですよう」
白衣の上下にベージュのカーディガンを羽織った介護士が、老人を追って来た。
「あー、キミ。言ったはずだが」
座り直しながら曽我が言った。
「認知症の方も、必ずお名前で呼ぶように。氏名を意識することは、症状の緩和に有効だ。このご老人は確か、狩野氏だ」
「でもこのおじいちゃん、もうお名前を忘れちゃってるんですよう」
まるで硬いところのない、マシュマロのような体つきの介護士だった。曽我は、ギロリと目玉を向いて、「指示は徹底してもらいたい」と介護士を睨みつけた。
「畏まりました、連隊長殿」
狩野老人は曽我にも敬礼した。介護士は、笑顔の中の細い目で、曽我を睨み返していた。
「さ、おじいちゃん、お部屋に戻りますよ。後で、子どもたちがお歌を歌ってくれますよ」
「了解しました、軍曹殿」
介護士は狩野を引っ張って去った。
 ここ『生活造形研究所』では、保育所と介護施設を併営していた。宇佐美の提唱する『老幼同時ケア』の実践の場として、市の特別予算で建設された施設だ。近年、労働力不足に悩む日本社会は、女性や高齢者も労働力として期待するようになった。このため、生活上の支援の必要な幼児や要介護者は家庭に留めておくことができず、施設に預けざるを得ないという状況だ。この現状を肯定的に発展させようと目論まれたのが、老幼同時ケアシステムだった。家庭でケアできない幼児と要介護者たちを同時に預かり、同時に支援する。中庭を挟んで東西に保育所と介護施設があり、老人と幼児は自由に双方を行き来することができた。老人は、溌剌とした幼児たちの姿を見、その声を聞くことで元気をもらう。幼児は、老人たちの笑顔に囲まれることで人の優しさを知る。核家族の家庭では不足がちな心の涵養を、この施設で実現しようという試みだ。脳神経医学を専門とする宇佐美は、幼児から発育する脳の症例を、老人から衰退する症例を得るためにこの施設を企画した。同時に、両者の脳が交流することで、どのような変化が起こるか観察する狙いがあった。曽我と天野は、宇佐美の研究を補助するために外部から招聘された科学者だ。
「安達君、頼んだよ」
宇佐美に言われ、安達はにんまり笑って、「お任せください」と頷いた。
(つづく)

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