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手元

 「よろしくお願いしまーす」
 私鉄S線T駅の改札前で、トミオはティッシュ配りをしていた。通勤、通学ラッシュの午前八時。一ヶ月限定の、金券ショップでの仕事だ。時給千百円。真夏の日差しが照り付ける中での立ち仕事は、四〇近い彼には楽ではなかったが、前の会社をリストラされ、次の仕事が見つからず、失業給付金でどうにかやっている彼にとっては、こういう臨時の仕事でもありがたかった。家のローンはまだ二〇年以上残っているし、上の子供は来年高校受験。仕事を選んでいる場合ではなかった。
「よろしくお願いしまーす」
通行人の顔を見てはいけない。見るのは手元だ。視線が合うと、値踏みされる。有用でない相手と判断されると、手渡されるものが何であれ、平然と無視されるのだ。自分を見せてはいけない。ティッシュを、ごくわずかな動作で受け取れる距離に、即ち、手の動きの先に出すのだ。そうすれば、たとえ必要ないものでも、自然な動作で受け取ってもらえる。この駅前に立ち続けてほぼ一週間。トミオはようやくコツが掴めて来ていた。
「よろしくお願いしまーす」
選挙運動中の政治家よりも謙虚に。夜の飲み屋の呼び込みよりも爽やかに。行き交う人々は、トミオの存在をほとんど意識することがなくなっていた。ごく自然に、彼の差し出すティッシュを手にしていた。
 ふと、トミオは奇妙なことに気がついた。通行人の顔を見ず、手元ばかり見ていると、手の個性が見分けられるようになる。同じ手が分かるのだ。この朝、幾分指の節くれだった手が、何度も彼の手からティッシュを奪っていた。
 広告なので、一人にいくつも渡るのは都合が悪い。ただそれは、横着をして、一度に二つも三つも渡してはいけないということであって、同じ人が、偶然複数回通り掛かって取ってしまうのは、仕方のないことと言えた。しかし、今トミオの注目するこの手は、何度も往復して取っているのである。つまり、ティッシュを集めるために、わざわざ行き来していると考えられるのだ。
 試みにトミオは、差し出すタイミングを外してみた。すると手は、ティッシュを顧みず、そのまま改札方面へ去った。
 おや? 
 トミオは顔を上げた。普段着姿の初老の男が、自動改札を抜ける後ろ姿が見えた。あの男に違いない。だが、今度はティッシュを取らなかった。もちろん、トミオが外したからだが、それをあえて追おうとしないのは、必ずしもティッシュが目的ではなかったわけだ。
 呆然と改札を見つめていると、先刻の男が、また、切符を改札に通して出てきた。そしてまた、トミオの前を通り過ぎた。右手には、一枚の切符。左手には、トミオが配っているティッシュの束。何かに操られているかのように歩くその男は、二〇歩ほど駅から離れると、くるりと踵を返し、また、改札の方へ戻ってきた。そしてまた、トミオの前を通り過ぎ、同じ切符で改札を抜けようとした。
 「ご主人」
 トミオは思わず彼に声を掛けた。
「ご主人、失礼ですが、なぜ、何度も改札を往復するのでしょう?」
「え、ああ」
男は、一瞬ギョッとなってから、顔を赤らめ、照れ笑いして、人の良さそうな笑顔を見せた。
「実は、当たりを引いてしまいましてね。もう用は済んだんですけども、せっかくだから、使わないと損かと思いまして」
 当たり切符。この路線の新サービスだ。近年、私鉄でもJRでも、電子マネーでの支払いが主流だ。カードを自動改札機にタッチして入場し、出場も出金もタッチのみ。いちいち切符を買わずに済むので、改札での混雑が少なくなった。さらに、電子マネーは消費税込みの細かい支払いが正確にできるので、数円単位で得だ。逆に券売機は一円玉に対応できないので、切符は割高だ。
 この不公平をいくらかでも緩和すべく始まったサービスが、当たり切符だった。何十枚かに一枚の割で当たりが出て、特典が受けられる。彼の切符は、一日入場券。この日に限り、何度でも改札を抜けられる券だった。
「あ、そうだ」
男はトミオを見て、俄かに目を輝かせた。
 交渉の結果、トミオは、彼の切符を百円で引き受けた。店で、三百円くらいで引き取ってもらえるだろうと目算したのだった。  
「いらないわよ、こんなの」
言うなり、太った女性店長は、当たり切符を縦に割いた。     (了)

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