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優しい手で触れる──マインドフルネスの12の練習 WEEK11

photo by Morgan Mcdonald/unsplash

『「今、ここ」に意識を集中する練習 心を強くやわらかくする「マインドフルネス」入門』(ジャン・チョーズン・ベイズ著)から、日常生活の中でできるマインドフルネスの練習を紹介する11回目。

今週の練習は「優しい手で触れる」。人やモノを丁寧に扱うとき、手は優しくなります。反対に、無意識に、ぞんざいに人やモノに触れるとき、手は優しくない振る舞いをします。そんなことに気づくための練習です。

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(本書PARTⅡ マインドフルネスを日常で実践する53の練習 より)

どんな練習?

優しい手で優しくものに触れます。生き物だけでなく、すべてのモノに優しく触れます。

取り組むコツ

利き手の指に、何か注意を引くモノをつけます。いつもと違う指輪をはめたり、ばんそうこうを貼ったり、1本の指にだけマニキュアで印をつけたり、ペンで小さな印をつけたりしてもいいでしょう。その印を見るたびに、優しく触れることを思い出します。

この練習による気づき

この練習をすると、周りの人や自分が「優しい手」を使っていないときには、それに気づくようになります。スーパーでは、買い物客が商品をカートのなかに放り込んでいます。空港では、荷物がベルトコンベアの上に投げ出されて出てきます。厨房では、ナイフやフォークが食器入れのなかに投げ込まれ、金属製のボールが乱雑に積み重ねられてガチャガチャと音を立てます。家では、あわてて出て行く人が「バーン!」とドアを閉めます。

私の寺院では庭の草取りをするのですが、この練習を行なうと、あるジレンマが生じます。「『優しい手』を実践しながら、命ある草を引き抜くというのはどうなんだろう?」と思ってしまうのです。そういうときには心を広くし、抜いた草をコンポスト(生ゴミを処理して、たい肥を作るもの)に入れ、すべての命が他者の役に立つことを祈るようにしてはどうでしょう。

私は医学生だったとき、「外科医気性」と呼ばれる気性をもった医師をたくさん見てきました。彼らは手術中に何か難しい事態が生じると、まるで2歳児のようなかんしゃくを起こすのです。高価な医療器具を投げ捨て、看護師に悪態をつきます。そのようななかで、ストレス下にあっても決して冷静さを失わない1人の外科医がいました。意識のない患者の体の組織を、このうえない貴重品のように丁寧に扱うのです。私はもし自分が手術を受けることになったら、絶対この先生に頼もうと思ったものです。

この「優しい手」の練習も同様です。どのようにモノに触れるかを意識するだけでなく、自分がどのように触れられているかも意識するようになります。人の手以外にも、肌に触れる服、風、口に入れる食べ物、飲み物、足が触れる床など、さまざまなものを含みます。

人は誰でも、優しい手の使い方、優しい触れ方を知っています。赤ちゃん、愛犬、泣いている子ども、恋人に触れるときのあの優しい手です。

なぜ、いつもそういう優しいタッチを使えないのでしょう? これがマインドフルネスの本質的な問いかけです。なぜ私たちはいつもそういう生き方ができないのでしょう? 「今このとき」に意識を向けると、生きることがどれほど豊かになるかを理解しても、また心を置き忘れる元の習慣に戻ってしまうのはなぜでしょう?

深い教訓

私たちは、常に何かに触れられています。しかし、ほとんど意識していません。触れられていることに気づくのは、「サンダルのなかに小石が入った!」などと不快感をともなうときとか、「恋人と初めてキスをした」などと強い欲望をともなうときくらいです。体のなかも外も、すべての触覚に対して意識をオープンにすると、感覚に圧倒されるほどです。もしかすると、少々恐怖を覚えるかもしれません。

私たちが優しく触れることを意識するのは、ふつうはモノに対してより、人間に対してです。しかし急いでいるときや、腹を立てているときなどは、人をモノのように扱ってしまうことがあります。愛している人に「いってきます」も言わずに飛び出して行ったり、前日にちょっと言い合いをした同僚の「おはよう」を無視したりします。これでは、相手をモノと同じに扱うことになります。相手はしだいにやっかいで邪魔な存在となり、いずれは敵になってしまいます。

日本では逆に、モノが人間と同じように扱われることがよくあります。命のない、愛どころか敬意を払うに値すると思えないモノに対しても、敬意をもって大事に扱います。お金は、両手で丁寧に差し出されます。茶筅(ちゃせん)には、それぞれ「銘」と呼ばれる名前がついています。

折れた針は、やわらかい豆腐のなかで休ませて供養(くよう)します。お金、お水、お茶、お箸のように、日常のあらゆるものが、尊敬を表す「お(御)」という文字をつけて呼ばれます。神道(しんとう)には、滝や大木や山に神が宿るという信仰があるので、そこからくる考え方なのでしょう。水や木や石が神聖であれば、それらから生じるものはすべて神聖なものとなります。

私の禅の師たちは、すべてのモノを命あるように扱うことを、行動で示していました。アメリカに渡り禅の教えを伝え、「ロサンゼルス禅センター」を創立された前角博雄(まえずみはくゆう)老師は、ダイレクトメールの封筒でさえ、レターオープナーできれいに開け、中身を丁寧に取り出します。誰かが座布団を足で引き寄せたり、皿をテーブルに音を立てて置いたりすると、不快そうにします。「私はそういうことを、体に感じるのだ」と言われたこともあります。

今の僧侶たちは、たいてい洋服ハンガーを使いますが、原田老師(岡山にある臨済宗妙心寺派曹源寺の住職。弟子は世界中にいる)は毎晩自分の僧服を丁寧にたたみ、それを敷布団やスーツケースの下に敷いて寝るのです。ですから、いつも僧服はピシッとしています。老師が手入れしている僧服のなかには何百年もたったものもあります。それらすべてを、老師は釈迦の着ていた衣であるかのように大事に扱うのです。

悟りの境地に至った人の、触れることに対する気づかいがどんなものか想像ができますか? 彼らの意識がどれほど繊細で広い範囲に及ぶかは驚くほどです。

自分を変える言葉
「米でも水でも、そのほかどんなものでも、親が子どもを慈いつくしむように、愛と優しい気づかいをもって扱いなさい」──道元禅師

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