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「見られる用文化」のはざまで⑩ーどの人も美しい顔を持っている

世の中には、女性を蔑めようとするときに「ブス」と言えばいいと思っている人が存在します。
男性だけじゃなく、女性にもいるし、子どもでさえその感覚を身につけていたりします。

最近、そういう人の言動を目撃した時に、ふと私の心に浮かんだ言葉がありました。

「人の顔をそんなふうに見るのは不幸なことだな。私は私の友達みんなの顔をそれぞれに美しいと思う」

私自身もその思いがふいに浮かんできて、その時初めて、人の顔を世間的な美醜のジャッジに関係なく「みんなそれぞれに美しい」と感じることができる自分に気付いたのです。

老いも若きも、体型や顔の造形、性別や人種も関わらず、思い浮かべる一人一人の顔に魅力があり美しい。

みなさんも、よければ自分の友達や好きな人たちの顔を思い浮かべて、考えてみてください。
世間で言われるスタンダードな美人やイケメンじゃなくても、人の顔から溢れ出る「その人自身」が美しいなと思う、その感覚が芽生えた瞬間、世界が少し変わって見えるんじゃないでしょうか。

私自身もこのことに気づくより前は、もっと世間的な美醜のジャッジにとらわれていたと思います。

誰でもきれいになれる?

美容関係の広告や記事では、よく「女性は誰でもきれいになれる」といった謳い文句が使われます。
「サボってるとブスになるよ」と脅す系の記事や広告よりはマシだけれど、人によっては火に油を注ぐワードになったりもします。

この時言われる「誰でもきれいになれる」の意味は、時によって曖昧ですが、「メイクや体型維持を頑張れば、世間で〈美人〉と呼ばれる容姿に近づける」といった意味を読み取る人は多いと思います。
その裏には、〈美人〉と呼ばれる容姿になれないことは女性にとって絶望的なことで、「誰でもきれいになれる」と信仰していなければやっていけないような感覚があるように思います。

しかし、はたして誰もがきれいになる必要があるんでしょうか。

世間には、「容姿の良くない人間は基本的に恋愛対象として選ばれない人間である」と固く信じられている向きもあります。

南海キャンディーズ山里さんと蒼井優さんの結婚発表のニュースが世間を賑わせていたのも記憶に新しいですが、山里さんが世間的に〈ブサイク芸人〉などと呼ばれていることから「なぜ選ばれたのか」が話題になるほど、世の中では、「世間一般に言われる容姿の良し悪し」と「恋愛対象に選ばれること」が関係があると、当たり前に信じられているのだと実感します。

今日も世間では、「不美人・不細工」でも結婚できるのか、恋人ができるのか、あるいは誰でも努力次第で美人になって「選ばれる人間」になれるのか…といった話題が絶えません。

しかしこれらは、一度スイッチを切り替えて、すべての人がその人なりの美しい顔を持っていると感じられるようになると、前提からして意味をなさなくなるのです。

スイッチの切り替わった私は、街を歩いてすれ違う人の一人一人の顔を見ても、それぞれに美しさを感じることができます。
実際に知り合って話してみなければ、本当にはその人にどんな魅力があるのかはわかりません。でも、きっとその人自身の魅力が現れた顔なのだろうと考えると、不思議とどの顔のどんな特徴も、素敵に、美しく見えてくるのです。
丸い鼻や大きな鼻、つり上がった眉やへの字眉、小さな目大きな目、いろいろな輪郭。それぞれに「これがこの人だけの、この人の顔の魅力だ」と感じられるのです。

大崎雅子の美しさ-リトルガールズ

以前、ありがたいことにこの「見られる用文化のはざまで」シリーズで書いた記事について、歌人で小説『リトルガールズ』の著者である錦見映理子さんがツイートしてくださったことがありました。

このことがきっかけで、私も『リトルガールズ』を読ませていただきました。
まさに「見られる用文化のはざま」にある女性たちが、揺れ動きながらも、それぞれの自分らしさを見つけていく物語です。百合人にもおススメです!

女子中学生たちや、その母親、教師などさまざまな年齢の女性たちと、取り巻く男性たちの群像劇ですが、その中でもとりわけやっぱり魅力的に感じてしまった人物は、50代の教師・大崎雅子さんでした。

小さな頃から外見を褒められたことがなく、中学校の生徒たちに「ガマガエルに似ている」などと言われている雅子が、ある時から急に、学校にピンクの服ばかり着てくるようになる。
生徒たちは先生がおかしくなったんじゃないかと騒ぎ立てるけれど、彼女にとってそれは、年齢を経た今だからこそ、誰に見られることも気にせず好きな服を着るという自己解放。しかし、そんな彼女に思わぬ新たな視点から「見られる」事態が訪れる。

雅子は自身の新たな「見られる」展開に戸惑い、女性としての「見られる」意味や、自分自身としての「見られる」ことの位置付けに思い悩みますが、しかしさすが、自己解放のピンクを自ら掴み取った彼女。
大事なところでちゃんと自分の尊厳を損なわないことを選べる雅子の生き方は、どんどん清々しくなっていきます。
きっと、人目を気にせずピンクを着たその日から、彼女の新たな美しさが生まれ、そこから人生に新たな彩りが加わっていったのではないかと感じます。

私はモデルなどの「容姿を見られること」を職業としている人が、特に人を惹きつける魅力的な容姿をしていることは否定しません。
すべての人の顔が美しいことと、容姿において特別な才能を持っている人がいることは、矛盾しないと私は思っています。

ただ、そういう特別な容姿の才能を持っている人の中に、この大崎雅子さんのような人も実は属するのでは、と思ったりもします。
芸能の仕事で目を引くことと、世間一般の基準で見た目が整っていることは、近いながらも必ずしも一致しないことがけっこう多いのです。

呪いを解くために

結局は、世間一般の美のイメージも、特別な才能を持った人たちの容姿も、すべての人が一人ひとり持っている美しさも、並べたり、比べて考えたりできるものではないということなんじゃないかと思います。

もっと美しくなりたいと願うことも、そのために努力することも、けして悪いことではありません。しかし世間が常に「(世間一般の基準で)美しくなれ」という呪いをかけてくる以上、いつの間にかその呪いに囚われていないか、気をつけておくことは大切です。
この呪いは、用心しなければ知らぬ間にかすめ取るように自尊心を削っていきますからね。

まずは、自分の周りの大切な人たちの顔を、その次に、できたら自分自身の顔を、そのままで「美しい」と感じる練習をすることから始めてみてはいかがでしょう。

(以上全文無料)

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