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私が私のままであること


私が私のままであることで

周りにとやかく言われる筋合いはない
1μミクロンたりともねーぞ



大きく勘違いしていたのだけれど。

私が私で『ある』とは、純粋に存在しているだけなのね。


だから、誰かに否定されたり非難されることはないのね。だって、私の存在が迷惑をかけることはないでしょ?


迷惑をかけるとしたら、私の言動ですよね。存在と言動は別物じゃんね。あはははははは。


で、そのことを踏まえて。

私の言動に対して不快不愉快に感じる方もいれば、そう感じない人もいる。この違いはなんだろう???と考えました。


不快不愉快に感じる場合は、以下のパターンがあるのではないかと思います。


①私が歪んでいる
②相手が歪んでいる
(歪む=自分自身を抑制している)


『歪む』とは本来の自分の何かに蓋をしてねじれている状態。その蓋は、子どもの頃に受けた躾や教育だったり、世間体や常識だったり様々。


その歪みがあると、引っかかるんですよね。



だから、私が私であることは至極真っ当なことで、誰にも否定されたり非難される筋合いはないということです。



非難したり否定される時、それは

・私が抑制したことによる歪みが相手に不快不愉快にさせた
・その方が抑制している何かが私の純粋なエネルギーに引っかかった

からです。


なので、お互いに抑制していなければ何も問題はないと思います。


「子どもは時に残酷なことを言う」と言いますが、それは抑制して歪んだ大人の視点なんだと思います。


彼らは純粋に不思議に思ったことを聞くので、子ども同士ならヘロっと普通に答えるでしょうし言われても氣にしていないです。


もし、言われた子どもが氣にするとしたら、既に自身で抑制をしたり、周りの人から様々な植え付けをされているからなんだと思います。(悪口の類ではなく、あくまでも純粋に疑問に思ったことの質問に対してです。)


私は自身のジェンダーとセクシャリティを受け入れる前は、周りの声がたとえ私のことを指していなくても自分のことを言われているようでキツかったです。それは即ち、私自身が蓋をしていたからですね。


今は「自分に無いものは、頭で理解出来たとしても感覚的には得られない。だから、分からない世界なのは仕方ない。私にもわからない感覚はたくさんある。」と思えるようになりました。


だからでしょうか。


その人の疑問の奥にあるものが純粋な不思議なのか、はたまた歪みによるものか。



が、何となく分かるようになりました。
ということで、



あなたがあなたであっても

周りにとやかく言われる筋合いはない
1μミクロンもない

問題は

抑圧抑制の封じ込めによる
歪みから生じる言動

だから

あるがまま
でいいのです

蓋をしないでいいのです

いや、むしろしないで



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