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”何者かになりたい”願望について、再再考

吉玉サキさんのnoteを読んで、「わぁ、タイムリーだなぁ」と思ったので、感想を書いておこうと思う。

吉玉さんは「『何者かになりたい』って言ってる時の『何者』の定義って何?」と不思議に思っているようなのだけど、私も同じような疑問を抱いたことがある。
その時のことはこのnoteにも書いた。

で、ついこの間も書いたけれど、私的「何者かになりたい」の「何者」とは「自分の芯や強みが明確で、自分の代名詞になるようなものがある人」だ。
仕事でも、趣味でも、なんでもいいけれど、「私は××!」とぱっと浮かぶような人。

まあこれは「何者」の定義をそう置くと私にとっては共感しやすいという話で、全員が全員そう思っているわけじゃないだろう。

例えば、「何者になりたいの?」という質問と「なに屋さんになりたいの?」という質問を同列に扱っている人もいて、そういう人は「何者=どんな仕事をしているか明確に語れる人」と思っていそうだ。

あとは、「有名で目立っている人」とか、「優秀な人」とか、そういう風に定義してそうな人もいる。
尺度がなんであれ、他人より抜きんでていることに重きを置いている感じ。

でも、正直、定義とか意味なんて考えないまんま言っている人の方が多そうだと感じる。

だって、本気で「何者かになりたい」なら、やっぱり自分なりの定義が無いとやりづらいってことにどこかの時点で気づくと思うんだよな。
曖昧なままにしていたら、「あれ、結局何がしたいんだっけ?」って疑問に思うはずだもの。

言い方悪いけど、そう言わないといけなさそうな雰囲気に流されてとりあえず言ってるだけの人も相当に多いと思う。
で、その雰囲気は、「個の時代」ってやつによって醸成されているんじゃないかな。
「個人で稼ぐ時代」だから、「何者か」になって会社に所属しなくても稼げるようにならないと…みたいな。

ちなみに私は、自分なりの定義は見つけたものの、「何者かになりたい」とは思わない。
未だにその言い回しにはむずむずする。

違和感を抱くのには、2つ理由がある。

1つには、人には様々な面があって、一言で語るのは難しいと思うから。
例えば私だって、大学院生としての私、娘としての私、アルバイトとしての私と、様々なラベルがある。
ここに、更に「本や漫画が好き」「食べるのが好き」「フランス語が好き」「気候の変化で体調崩しがち」「ネガティブなりがち」みたいな内面のことまで入れたら、「私」を形づくる面は数えきれないほどたくさんになる。

確かに芯とか強みはほしいけど、それ以外の面をすべて削ぎ落として自分を一言にまとめたいとは思わない。
いろんな面が合わさってできているのが「私」だと思うから。
私は私のまま、芯とか強みがあればそれでいい。

もう1つは、1つ目とも関連するけれど、「自分以外の人になりたい」というニュアンスを感じるから。
今の自分に大なり小なり不満があって、別の自分になりたい!という欲望が表れているような感じがする。

でも、実際はそんなことできない。
自分と向き合って、自分がどうなりたいのか、何をしたいのかを見つけないことには何をすべきかわからないし、わからないままに生きていても何も変わらない。

そういう、丁寧に「自分を知ること」を避けているような感じがする。
なんとなく今の自分じゃだめだと思っていて、なんとなく言っているような、曖昧な感じ。

じゃあなんで「何者かになりたい」って言い回しが流行っているのかというと、これは持論だけど、みんな他人の目が気になっているのかもしれないと思う。

さっき書いた、「どんな仕事をしているか明確に言える人」「有名で目立っている人」「優秀な人」は全部、他人との関係の中で成り立つ考え方だ。
「どんな仕事をしているか」他人に説明できて、他人と比べて「有名で目立っていて」「優秀な」自分でありたい、みたいな。

他人がいてもいなくても成り立つ「絶対的な自分」ではなくて、他人に自分を投影することによって成り立つ「相対的な自分」に興味津々なのだろう。
だから仕事や順位のような、他人から見てわかりやすくて、あわよくば高い評価を得られるラベルがほしいんだと思う。

別にそれが悪いって言いたいんじゃなくて、そういう風に思ってる人が多いのかなーって、それだけ。

「何者かになりたい」って言葉、こうやっていろいろ考えて遊べていいね。
私は私のまんまでいいと思ってるから、使わないけど。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。