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009「自然」について

ぼくにとって「自然」というのは「Asia」と同義語だ。だが、ぼくにとって「自然」の対義語は一般的にはその対義語とされる「人工」ということにはならない。「人工」という言葉の定義が、「人間の手が加えられたもの」であるとするなら、その「人間の営み」もまた自然の一部だとぼくは思う。

なので、ぼくにとっては「人工知能」も「人工生命」も自然の産物であり、またそれらは、いわゆる細かい動きまでを緻密にプログラミングされたもののようなもの(これもまた「自然」の一部であるとぼくは思っているが)よりももっと「Asia」的なものである、という意味でまさに「自然そのもの」と思えるのだ。

ぼくにとっては「都市」もまた「自然」であり、「Asia的なもの」でもある。それはたとえ、地理的な意味での「アジア」に属さない国のある都市であったとしても。
例えば「都会の雑踏」というものはよく「大自然」の反対で使われることがよくある。「都会の雑踏の中で消耗するよりも、大自然に囲まれて暮らしたい」などという人がよくいる。だが天邪鬼なぼくは「大都会の雑踏こそが大自然じゃないか!」と思ってしまうのだ。もちろんそんなことを口には出さないけれど。それを言ってしまうと社会の中ではやっていけない人というレッテルを貼られかねない。

例えば渋谷のスクランブル交差点。一回の青信号で約2000人が横断する、と言われている。日本を訪れる外国からの観光客にとっては名所だ。セルフィー棒を持って撮影していたり、GoProで動画を撮っている人がたくさんいる。
この一回で約2000人が一斉に横断する様を上空から眺めたらとても面白いだろうな、と思う。あれだけの人が一斉に様々な方向に向かって歩いている。ぶつかることなく。これはぼくには自然そのものに見えるのだ。あるいは「Asiaそのもの」と言い換えてもいい。
各個人がそれぞれ自分の動く方向に向かって歩きながら他者の動きに順応しながらぶつからないように歩く。そして全体としては複雑な動きをするひとつの大きなものに見える。これこそが「自然」であり、「Asia」である。

人工生命が、各個体間の相互作用によって作られた環境に適応するように進化していくのと似ている。ここでの「環境」そのものが各個体間の相互作用で作られている、ということに注目すると、その環境でのルールというものがトップダウンで作られている者ではなく、ボトムアップで形成されていく、ということがぼくがいう「自然」そのものだ。同じように、渋谷のスクランブル交差点も、何らかのルールが決められていて、各個人がそのルールに従って横断するからぶつかることがない、というのではなく、各個人間の相互作用でぶつからないということができる。

小さな要素間の相互作用で大きなルールが形成されていくこと。ぼくが思う「自然」というものはすべてこのような仕組みで成り立っている。


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