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「もののけ姫」の描き忘れていたこと:蝦夷はいかに「国家」と対峙してきたか?

面白そうな本の目次を眺めていて、ふと気づいたのが今回の主題です。

まずはその本を。

実際に、賃金奴隷制資本主義から逃避を行い、自宅兼図書館を自分で作っちゃった人が書いたものですが、目次の最初に「僕たちが「資本の原理」から逃げ出すべき理由」とあったのに対して、何か足りないと思ったのがきっかけです。

私が共同体の中核的要素の一つとして考える「縄文人=蝦夷」の歴史を紐解くと、確かにマルーン共同体やゾミアと論理的に同一の、いわゆる中央集権的収奪機構の「国家」から逃避したり、そこからはじき出された人達が集まって作ったもう一つの共同体(日高見國)であったと捉えています。

もちろん、都加留(つがる)、荒蝦夷(あらえみし)、熟蝦夷(にぎえみし)といったグラデーションの違いはありますが、いわゆる「国家」の奴隷的統括を拒絶して、自生的秩序を築いて生きていた共同体の長い歴史があるのは確かです。

そこでタイトル回収となりますが、マルーン共同体やゾミアは、決して「国家」からの逃避行だけで語れる存在ではなく、「国家」とは独立しながらも、長い歴史のほとんどを「国家」に対して優位な体勢から「襲撃と略奪」を行ってきた存在でもあるということです。

古代蝦夷の最も大規模な軍事衝突は天慶・元慶の乱でしょう。

これは、秋田城周辺の蝦夷が秋田城を襲撃して壊滅的打撃を与え、そこに蓄積されていた鉄器や鎧、その他財物を根こそぎ略奪して、朝廷の派遣した律令軍団を何度も撃破したり、行方をくらませて逃げたりした古代日本でも屈指の大規模な軍事衝突です。

つまり、「もののけ姫」の冒頭で描かれていた蝦夷の隠れ里のような「国家」との対峙関係を一切断ち切っていわゆる「平和裏」に存在しつづける共同体も無くは無かったと思いますが、ほとんどの蝦夷は時に「国家」と交易を行い、時に軍事行動を伴う「襲撃と略奪」を敢行して定住型奴隷制「国家」に対して壊滅的打撃を与えたりする、極めて戦闘的な面も含んだ「国家」との対峙を行っていたのが歴史的事実として言えるでしょう。

その始めは、イワレビコ=神武天皇と戦った大国主命と長髄彦(両者とも阿蘇山・鬼界ヶ島カルデラ爆発の後に焦土と化した九州の「レコンキスタ」を目指した、縄文人の西方再植民団の棟梁)と考えています。

次いで天津甕星・天香香背男(北極星・金星・オリオン座の三連星といった星の神々を習合した信仰対象)を信奉する交易を主たる生業としていた関東~東北~北海道の縄文人であり、その闘争の過程で勇猛さと高い戦闘技術によって恐れられ蝦夷と呼ばれるようになった東北地方~北海道の縄文人であり、蝦夷の中でも最も頑強に抵抗した棟梁であった阿弖流為からの、東北地方で事実上の独立政権を作った奥州安倍氏、羽州清原氏、奥州藤原氏でしょう。

そしてそれらは「反乱」という枠で矮小化されてとらえられがちですが、しかし長い時間に渡り、しかもその大部分を「国家」に対する優勢を保ちながらの「非国家」主体として対峙し続けてきた歴史と言えます。

縄文人は大国主命と長髄彦の敗北以来、だんだんと「国家」に押されてきましたが、しかし天津甕星の言い伝えや、天慶・元慶の乱や阿弖流為の反乱のような蝦夷の反乱、そして最後の縄文人の末裔といえる奥州藤原氏の壊滅に至るまで、マルーン共同体やゾミアの原理を保存してきたと考えられます。

その原理が、蝦夷との相互浸透的に生まれた武士に受け継がれ、極めて蝦夷的=反律令体制的な「武者の世」の原理となって、最終的に承久の乱において朝廷を実質的に滅ぼす=崇徳上皇の呪いを完成させるに至ったと考えています。

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話を天慶・元慶の乱に戻しますと、この戦いの記録を紐解くと非常に興味深い事実が分かってきます。

というのも、蝦夷は半定住生活であり、蝦夷は一度打撃を加えても、どこへともなく消え去り、そしてしばらくするとどこからともなく現れては襲撃を加えるということ。

そして律令軍団の装備を上回る非常に高性能な鎧や弓矢を装備しており、中には朝廷の官衙を襲撃した時に略奪した鎧を改造して使用していたものも相当数あったということ。

秋田城はもちろんのことながら、秋田城以北の蝦夷も独自に渤海経由でモンゴル方面の遊牧民族と交易を行っており、製鉄などの技術もそこから入ってきた可能性が濃厚であること(なお、匈奴も中原地方の漢民族とは別系統の独自の技術による製鉄を行っていたことが発掘調査から判明しており、匈奴の製鉄はヒッタイト直伝と言えるほど、ヒッタイトで行われていたものにかなり近い形での製鉄だったと推測されています)。

いわゆる「国家」と言えるほどの支配の重心は持たず(それが現れるのは奥州藤原氏の段階であり、それでも奥州藤原氏の直接的支配下に入っていない蝦夷は津軽・下北半島から北海道にかけて相当数存在していた)、共同体間の臨時的な連合によって「国家」と対峙していた。

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以上のように、縄文人=蝦夷はマルーン共同体やゾミアの特徴を非常に濃厚に持つ共同体であったと言えます。

そういった、普段は「支配的重心」の存在を拒否し、非常時=大規模な他共同体との戦闘の時にのみ臨時で「棟梁」を選出してその指揮の下で戦うという道を、蝦夷から武士にかけての日本人はアレコレ模索してきたのが日本の古代~幕末史までの歴史と言えるでしょう(武士も蝦夷的であったのは「いざ、鎌倉」という有名な文言から証明される)。

なので、日本文化の本質にあるのは基層文化としての縄文文化であり、それが政治的要素を帯びるようになって、やがて武士の文化へと発展していったと考えます。

そして経済的には、自給自足を基本としながらも、外界=他共同体の技術を積極的に学び取り、時に襲撃と略奪を通してそれらを自己化しえていたという面もあります。

要は、山に狩猟・採集に行くのと同じように、定住型奴隷制「国家」の蓄積物を「狩り」に行ったのが、マルーン共同体やゾミアと論理的に同一の蝦夷であったということです。

ここから、人類学的アナキズムの知見、蝦夷と武士の歴史・文化・生態の研究、ゲリラ戦理論およびゲリラ的組織から発展を遂げた正規軍(イスラエル軍やヒズボラなど)の研究で得られた論理などを一体化しつつ、縄文と戦国への回帰でありながら過去のどの時代でもない、四周の敵性侵略国家群(米・露・支・南北朝鮮)の直接・間接的侵略行為と「奴隷制資本主義国家」の呪縛がもたらす閉塞感を打ち破る新しい日本の構想へと繋がっていきます。

この問題こそが、「奴隷的支配構造から逃れて自立的・自生的に生きること」と「他の侵略主義的敵性国家との対峙」という二律背反的構造を持つ問題への解答ともなるでしょう。


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