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今日の格闘技で学んだこと:それを受けて生かすこと

先週はいろいろあって格闘技の練習に行けなかったので、昨日は2週間ぶりの練習だった。

昨日はグラップリング時の技を学んだ。

主にマウント状態になった時の攻防で、とりあえず今回の練習では形を覚えて帰ると決めたのが、下になってる相手の足で腰をロックされた時の外し方。
1人でも練習できるので、今日練習してダメだったところを重点的に家でも練習していく。

他にも下になった時に「捲る」ための技をいくつか教えてもらったが、一気には覚えきれないので、まずは「だいたいこんな感じ」で覚えたことをその都度確認しながら繰り返して覚えて行くことにした。

下になった時にマウントを取ってる相手を「捲る」ための個別の技はあやふやではあるけれども、いくつかのポイントを備忘録としてnoteに残しておきたい。

1.左右に相手を転がして捲る時の一番のポイントは、転がしたい方向の相手の腕と足をロックして、相手にバランスを取らせないようにすること。

2.手だけでなく足を使うこと。できれば足を手のレベルで器用に使えるようになることが望ましい。

3.足を使えるようになると、パウンド(グラウンド状態でのパンチ)有りでも、足で相手のパンチを防御できるようになり、防御力が各段に上昇する。

4.足の遣い方は、相手の上体に入れる方の足は転がす方向に動かし、相手の足を抑えている方の足は転がすのと反対の方向に動かす。

5.打撃(パンチやキック)は得意不得意、いわゆる「生来的な才能」に左右される部分もあるが、グラップリングに才能は全くいらない。やればやっただけ強くなる。どれだけ練習を積み上げたかが全て。

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また、たびたび指摘されているが、私は股関節が非常に固い。どれくらい固いかといえば、開脚しても90度くらいしか開けない。

しかし以前に二天一流の弟弟子と話をしていて、柔軟性と踏ん張り的な力は割とトレードオフな関係に近いという話を覚えている。

実際、股関節を始めとして体の固い私は、格闘技では体幹や足腰が非常に強いと周りの人から言われた。

ただ、寝技では股関節の柔軟性が死活問題でもあったりするので、踏ん張りと柔軟性を両立させる(対立物の統一)ような土台の在り方をこれから模索していきたい。

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そして今日はグラップリングを相手を変えながら3分と2分それぞれ1ラウンドずつ行った。

今日は前回に劣らないくらいかなり激しく組み合った(1度腕絡みを極められた)ものの、前回のように変な汗をかかずに終えることができた。

負けはしたけれども勝敗はどうでもよく、素材としての体力を養成するという目的を一歩ずつ果たしているので、そういう意味では勝利をし続けている。

人間体の素材としての体力があるということは、護身という面においても非常に有効である。

というのも、人間体としての素材の体力をつける過程では、抵抗する相手と激しく組み合って格闘する必要があり、いやおうなしに人間体を駆動させるための神経も運動させる必要が出てくる。

ということは、いわゆる「影法師」の技の土台も強固になるということを意味している。

さらに、激しいグラップリングで戦い抜いたという経験が、自らの認識を闘争に向く形で鍛え上げて行くという二重の神経の強化によって、さらに「影法師」の技の土台が強化される。

この「影法師」の技が護身という点でどういう意味をもたらすかと言えば、護身が必要な相手はチンピラに毛の生えた程度の低レベルな人間が99%近くであり、ゴルゴ13のような超一流のヒットマンを相手にする護身は日常生活ではまず想定されないということである。

南郷先生による千葉周作の「一夜秘伝」の解説にあるとおり、チンピラというのは相手の実力を「見てくれ」でしか評価できない(評価する目を持っていない)ものである。

具体的に言えば、どんなに達人でも身なりが強そうに見えなければ「弱い相手だ」と見下して因縁をつけてきたりするし、逆にプロレスラーのようにガタイの良い、あるいはゴルゴ13のように「只者でない」といった雰囲気を見るからに醸し出している「見た目が強そうな相手」には絶対にケンカを吹っ掛けたりはしないのがチンピラという人種の特徴である。

すなわち、人間体を格闘技で鍛えることを通して肉体そのものが見事に鍛えられるのに加えて、その肉体を駆使する神経、格闘を通して「戦う意志」を肉体に相互浸透させていくという二重の神経の鍛錬によって、神経の働きであるいわゆる「氣」=影法師が見事になっていき、それが虫よけならぬチンピラよけとして機能し、戦わずして護身を達成することができるということ。

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あまり劇的な進捗と言えるものは無いかもしれないが、人生とは地味で目に見えない変化の積み重ねである。

笹沢左保『宮本武蔵』の中で、流祖の養子となる中山三木之助の

「兵法とは、失敗の積み重ねでしょう」

というセリフと同じことであろうと思った。

まず実践し、そこから失敗を見定めて、その失敗を反省して改善する工夫を重ねるという地道な営為の中にしか、道を極めるための道は存在しない。

そしてそれこそが、アリストテレスの言った「優秀さとは一回性の行為ではなく習慣によるもの」という名言の核となることであろう。

自分の半生を顧みると、斬ること、戦い抜くこと、そして勝つこと、ただそれだけを突き詰めてきた人生だった。

これからもそれは変わることのない、おそらく自分の本質といえるものだろう。

ならば、己の人生、それを信じ抜く以外にいったい何ができようか?

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