ポリコレという教義

日本のポリティカルコレクトネスは感覚による善悪二元論から立場による善悪二元論への強制である。

つまり、仮面ライダーの悪役集団であるショッカーならば全員悪、例え、ショッカーがゴミ拾いをやったとしてもショッカーは構造的に悪だからその善行は否定されるということになるのである。ウルトラマンでは怪獣は主に悪役であったが、時に、善玉の怪獣も出現した。けれども構造的に怪獣は悪ということになると善玉の怪獣は本質的に否定されなければならない。

一方で、ウルトラマンは善なのである。ウルトラマンに出演していたつるの氏は善であった。けれども、現実の人間であるつるの氏は自分の畑を荒らした犯罪者を例え情況証拠があろうとも「外国人である」と叫んでしまう、ポリティカルコレクトネス視点では「悪」の側面を示したわけである。その乖離が左派リベラルの注目を浴びたのではないか。左派リベラルの正義では例え窃盗犯が外国籍のものであっても「悪いのは外国人じゃありません。悪いのは日本人です!日本人は土下座して謝れ!」と叫ぶことが求められる。構造的に外国人は善、日本人が悪という視点が固定化されている。だからこそ、韓国の文大統領こそが善であり、日本の首相が誰であっても悪という扱いになる。

構造化の世界では各個人の行動の善悪は大して重要視されないのである。それよりも構造、すなわち、その人がネトウヨであるか、左派リベラルであるか。日本人であるか韓国人であるかという立場の方が重要になる。

例えば、オタク男が女性を見ることは目を潰して失明させるべき重罪になるが、フェミニスト男であれば例え強姦してもフェミニズム的には無罪となるであろう。(もちろん、日本国の法律は別である)

これは構造的にはフェミニストは善であり、オタク男は悪であるというポリティカルコレクトネスの教義からは容易に導き出せる結論である。

彼らのポリティカルコレクトネスではとにかく左派リベラルに属し、憲法9条万歳を叫べば構造的に「善」の集団にはいるのであるから何をやろうとも善性で評価されるべきなのである。逆にジミントウとかアベ支持派、ネトウヨ、オタク男、極右などの集団はショッカーと同じようにその集団に入っているというだけで悪とみなされるわけである。個々の行動がどうだとかいう判断はそもそも感覚的なので行う必要がない。

つまり、資本論万歳、左派リベラル万歳、憲法は一切変えてはいけない、憲法9条万歳、戦争法廃止、自衛隊も警察もなくせ!暴力装置を取り払って暴力のない平和な日本を目指そう!と叫べば死後、天国へ行けるということになる。


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