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青二才、性自認について語る

クエスチョニング、トランスジェンダーを、なぜなんの根拠もなし否定できるのだろう。
医学的に証明されてるのにド素人が個人の見解で否定するのはなぜなのだろうか?

とはいえ私が述べるものもド素人の見解であることには変わりない。


100%男性か女性か、といわれればそうではない人もほとんどなのではないだろうか。
女でありながら女アイドルを推すことだって生物学的にいえば10%ぐらい男性に気持ちが傾く瞬間なのではないか?
同性愛者が生物として淘汰されていないのは“性別パーセンテージ”が傾いているという状態も多くあるからなのではないかと考える。

女性がズボンを履いたら男性になる、男性がスカートを履いたら女性になる、なんてそんなことはない。
これは、ズボンやスカートが性別に含有されているものではないからだ。
何を身につけていようが“ただそれを身につけているその人”でしかない、身につけているものでその人自身が変わるなんてことない。
もし変わったと感じたのならそれは気づいたであって、もともと持っていた性質なんだと思う。


そもそも男女二元論が一般化されているからややこしくなっているのではないか。
女性っぽい、男性っぽい、なんて言い方は最近では控えられるようになったが、これはその代表例だっただろう。
前時代的な制度や、らしさの強要は性別として括っていて個人の尊重がなされていない。
それでもシステムとしてここまで根付いてきたのは男女二元論があるからだ。

インターネットの普及以前は非階層性があり、情報の流れは発信者から受け手へと2分化されていて、かつ一方通行だった。当然情報を受け取るスピードも、タイミングも平等ではない。
苦言を呈していたとしても発信しにくく、広がりにくい環境だったことは想像にかたくない。
ところがオープン性と非識別性をもったインターネットの普及により、だれしもが不都合や違和感を発信し共感を求める声が通りやすくなった。
情報の流れるスピードやタイミングは平等になった。

このインターネットの普及が、男女二元論の一般化さた世界と、それぞれが意見を持ち尊重されるべきであるという思想との間にズレを生じさせることになったのだと思う。
個人の意見をインターネットで発信できる、ということは今まで言い表せなかった“違和感”を発見できる、ということだ。
同じ“違和感”を感じる人が集い、声が大きくなっていく。
それがこの男女二元論を疑いもしなかった人達にも届くと、話がややこしくなって当たり前なのだ。

今までなんの疑問を持たなかった人たちは、信じられないし前例もない(ように感じる)し、疑いやもっと言えば嫌悪すら感じるかもしれない。
今やそういう人もいるよねになったかもしれないが、はじめて見るものは誰だって怖い。
ところがそれは隠れていただけでどんな時代も存在していたのだ。
男女二元論時代にも。


トランスジェンダーは精神疾患としての病名診断がある。
性同一性障害。
身体的検査、染色体検査、ホルモン検査などを中心とし医学的に心と体の性が一致しないと認められると診断される。
医学的、なのだ。
根拠がある。

障害の漢字を使うなという風潮には触れないでおこうと思う。
障害物競走、と感覚は同じだからだ。
人生の障害物競走。

F(female)
M(male)
とし、FTMやMTFは性自認と身体的特性が一致しないこと、FTXやMTXは性自認は未確定で身体的特性は女(または男)ということだ。
その人たちのための治療があり、外科的治療をするとトランスセクシュアルという総称となるそうだ。

しかし治療は強制されるものでは無いと思う。
長い年月をかけ自分を納得させた人があらためて違う人生を1からスタートさせる覚悟を決めることは、精神的にも身体的にも金銭的にも、様々な弊害をうむ。もちろん、想像を絶するレベルだと思う。
その上で治療を決める方もいる。
それぞれが尊重されるべきだと思う。


だからと言って全てを容認できるか、と言われればそうではない。
なぜならそれぞれが尊重されるべき、だからだ。
トランスジェンダーを尊重するように、トランスジェンダーじゃない人も同じく尊重されるべきである。

問題となっている温泉やトイレ。
犯罪は論外として自称だけで入れるスペースなのかと考える。
前述した通りトランスジェンダーには医学的根拠があり、治療もある。
診断されているもしくは治療している人たちは入る権利があるのではなかろうか。
診断されているのなら公的に女性だ(男性だ)と言っていても真実である。
しかし、モラルとしてはどうだろうか。
トイレは個室がありプライベート空間が確保されているため気にならない人もいるのかもしれない。
ところが明らかに身体的特徴が男性で女性トイレに入っていけば、何も知らない周りの人は“男性が女性トイレに入った”ように見える。
これはトランスジェンダーが今まで苦痛と感じていた女性なのに男性だと言われること(逆も然り)と何が違うのだろうか。
見ていた側からしたら苦痛である。
真実と違うのだとしても、誰も心“まで”は見えないのだ。
それは温泉も同じく。

外科的治療が済んでいたら話は変わってくるのではないだろうか。
覚悟を決め性を心に合わせた人は、周りから見ても心の性と自認している性は一致しているように見えると思う。
見たままの状況としては女性トイレに女性が入っていった、という“違和感”のない状態になる。
これを指摘する人はどの点を指摘するのだろうか?


私の友人には診断済みのFTMの人がいる。
この話をしようと思ったのも彼の影響だ。
彼は未治療だが、このまま温泉に行くのは苦しいと言っていた。
また、自主的に温泉に行ったことはないそうだ。
それは男風呂では周りの視線があり、女風呂では自分の視線があるからだそう。
女の身体で男風呂に入ったら周りは違和感を覚えるし、男の心で女風呂に入ったら自分は違和感を覚える。
少し想像すればトランスジェンダーではない私にも理解できることだ。
よくハーレムなんじゃ、ということも聞くがそれについては、それどころじゃないし自分の羞恥心と申し訳なさとでいっぱいになったと言っていた。


女“になりたい”男、男に“なりたい”女。
この表現は間違っていると思う。
なりたい、ではなくもともとそうなのだから。

ここで気になるのはクエスチョニングの存在だ。
性を定めない、Xの存在。
否定する気は全くないが不思議で神秘的だと思う。
当人にとっては日常で、当たり前なのかもしれないが私からすると不思議なのだ。

というのも、人間はほとんど性別が定まっていないのではないかと考えているからだ。
私は男性だがスカートを履きたい日もある、という人や私は女性だがかっこよく見られたくてメンズカットをする、という人がいたとする。
それはスカートを履いたその人、メンズカットをしたその人、であってそれにより男女が決まるとは思わない。
日によってフリルを纏いたくなる気分や、ぬいぐるみと寝たい気分など、そういうものとは違うことなのだろうか。
仮にこれが女性のことであろうと男性のことであろうと、私のことであろうと、その人のことであることには変わりないのだから特段気になるものではない。
このことからクエスチョニングを自認する人はなにをもって自認しているのかとても気になるのだ。
そこに不思議と思い、神秘を感じる。


尊重されるべきは当事者ではなく、当事者でない人でもなく、個人だ。
自分がどうであろうと人は心の中までみることはできない。
だからといって否定されていいものではないし、邪険に扱われていいものでもない。
マイノリティもマジョリティも互いのことを想像し合うべきだと思う。

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