作曲家本人なおもて解釈に迷う

諸事情あって、20年前に作曲した小品集を弾くことになった。一応は僕も生まれたばかりの子供が成人するくらいの年月を音楽で過ごしてきたのだから、多少なりとも成長していてくれなきゃ困る。実際、弾けもしないくせに書き続けてきた10度が最近は届くようになってきたので、人間、曲を書き続けると指が伸びるという知見を得たところだ。

かように出来ることが増えると、おそらく作曲当時はごまかして弾いていただろうことが、すんなりできるようになる。ごまかした結果を聴いていただろう僕本人の耳は「あれ?」と思うのである。ちゃんと作曲者はここにデクレッシェンドを書いているではないか、テヌートを振っているではないか、といったことが、他ならぬ自分自身で書いた楽譜から目に入るようになる。ひょっとしたら僕は「作曲者の意図」を理解していなかったかもしれない、などと考えはじめるようになる。と、作曲当時とはまったく違う理由で、演奏に苦労することとなる。

公式本人なおもて解釈に迷う。いわんや他人をや。

記譜されたアーティキュレーションを作曲者本人が赤丸で括ったりするのは、自分自身でもちょっと滑稽に思うのだけれど、作ることと演じることの違いはそういうところなのだろう。という経験があればこそ、演奏者からの質問には「どう弾いても構わない」と答え、かえって怖がらせてしまい、これはこれで良くないな、不親切だなとも思うんですが、新作だからと遠慮をしている奏者に大丈夫だと伝え、彼や彼女の音楽性を解き放つことは、作曲者立ち合いの大事な目的だと考えます。

さすがに「こんな曲は悪魔にくれてしまえ」と叫んだシューベルト先輩には敵いませんが、恥を忍んで本人が必死こいてる様子を見せることもまた、多少なりとも奏者に慰みを与えたり与えなかったりしたりしなかったりするのではないかと思ったり思わなかったりします。

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