【BL連載】雨だれに傘を差す13(完)
13
空は灰色から青へと色を変え、雨雲ではなく入道雲が浮かぶ。ますます蒸し暑さは加速し、照りつける日差しと相まって連日警報が出るほどだった。
智理は木村とともに、糸永瑞行の個展へ足を運んだ。暑さも人混みも嫌いだが、関係者のみに公開されるプレオープンデイだ。『NIHON-GA アンブレラ』と同じように早い時間に赴いた。
天井が高い広大なホールに、瑞行の作品が美しい配置で並んでいる。ほとんど来客はいない。そう安堵した瞬間、館長らしき男と話す宮と出くわした。形ばかりの挨拶と制作協力の礼を交わす。
木村も一言「こんにちは」と告げたが、やはり苦手意識は取れないらしく手持ち無沙汰に周囲の作品を見ていた。
「智理は、これからも絵を描くんだろう?」
冷たく甘い声は、隠せない棘を持っている。無味乾燥を装った奥からあふれる嫌悪が痛い。
智理の推測でしかないが、宮もきっと自分ではどうしようもできない感情を抱いているのではないか、と思う。それは自覚的か無自覚か、容認しているのか否認しているのかは、わからないが。
「そうですね。そうしたいと、思っています」
智理の胸に、雨が降る。降り続ける。柔く、激しく、吹き荒ぶ。濁流のように暴れる感情に飲まれながら、それでも智理は描くだろう。
それに、今は差す傘だって、持っている。
雨がずっと続かないで、たまに晴れることを知っている。
智理がわずかに微笑むと、宮は眼鏡の奥で鋭くそれを見つめていた。手がフレームを押し上げる。
「僕はね、智理が描き続けることを、願っているよ」
どんな意図で編まれた言葉か、智理には判別がつかない。しかし、これは宮の本心だろうと、そうであってほしいと、智理は頷いた。
宮に厭われても、どんな評価を受けても、描くことが好きなのだと、思い出した。
『蕾』は、人物画を集めた小展示室の中央に飾られていた。傍らの説明には、智理のことは一言も書かれていない。
額縁の中で少年は、未成熟な色香と苦悶を相貌に宿している。
「この絵、いろいろと思うところがあって辛いけれど、本当は好きなんだ」
隣で見上げている木村にだけ聞こえるような声で呟く。
木村は智理をちらりと見たかもしれない。
智理は絵の中の少年を、その幼さを目に焼きつけていた。
寄った眉間に、瞳の弧に、唇の形や髪の一本一本に、瑞行の技術と感性が込められている。
糸永瑞行が視た世界。糸永瑞行が視た雨谷智理だ。
「先生が俺のことを好きだって、愛してくれたって、わかる絵だから」
もう、糸永瑞行は智理のことがわからない。
もう、この時の瑞行はいない。
智理が瑞行との関係に抱いた陽も陰も、当事者で解決することがなくなった。
当然の未来に成したかった願いも、言いたかった言葉も、見たかった表情も、達成されることなく宙に浮いたまま。
悲痛で、凄惨で、未だに受け入れられない。
それでも、この時の瑞行は、智理は、現在ですら、未来ですら侵すことができない。
木村がフッと小さく息を零した。
「妬けるんですけど」
率直に見せる感情に、智理は目を細める。
「もう、過去だってことだよ」
木村といるのは、現在に――そして未来にいるのは、『この少年』ではない。
触れられるのは、今だ。
「あちい」
美術館から出ると、夏の容赦ない照りつけにあう。
木村はぱたぱたとTシャツの襟を揺らした。
連日の猛暑でバテた頃だし、冷たくつるりと食べられるものがいい。ランチはどこかで食べて、夕飯は簡単に済ませよう。
智理は献立を考えて、それから細かい算段をつけるのをやめた。平日は智理が用意しているから、今日は木村に考えてもらおう。自分にはない引き出しを開けるものだから、一緒につくっていて楽しさが増した。
スマホが短く振動する。智理は画面を確認した。
母親からのショートメッセージだ。
昨日、智理が送ったメッセージの返答だろう。
『描くか描かないかは別として、俺はこの家に住みたい』
そう綴った。少しだけ嘘をついた。
母の返事はシンプルだ。
『そう。なら、いいです』
冷淡ともとれたし、放任ともとれた。ただ、作品を描くことについて、母が触れずによこしたことが、智理には嬉しかった。
「雨、降らないかな」
空を見上げて、智理が零す。
降ればいい。降っていい。
「そしたら、傘が差せる?」
木村の返答に、智理はひょいと瞳で見上げる。
勝ち誇ったような笑みが癪だが、そのとおりだった。すっかり毒されたな、と自嘲する。
「骨の多い傘がね」
群青の空の彼方に、灰色の雲を希(こいねが)う。
どんなに鬱屈とした鉛にも勝てない茜の傘を差せば、雨音は心地よく、智理の耳をくすぐるだろう。
(完)
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