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高速鉄道の急速な敷設されたわけ[2018年/上海-北京の高速鉄道編/中国の高度成長を旅する#15]

切符が簡単に手に入るようになって驚いた

 Iさんやその後両親と別れた後、私は来た道を戻って地下鉄に乗った。向かったのは上海虹橋駅。上海から北京まで高速鉄道を使って行こうとしていたのだ。
 高速鉄道とは日本で言うところの新幹線のことだ。上海では上海駅と上海虹橋駅という二つの駅があり、私は後者の上海虹橋駅へと向かっていた。二六年前は上海駅から乗り込んで軟臥で北京駅を目指したが、今回は空港のそばに二〇一〇年に新設された高速鉄道用の新駅から出発するのだ。
 地下鉄には三〇分ほど乗っていた。先へ行けば行くほどキャリーバッグやリュックの乗客の割合が多くなり、高速鉄道の駅が近づいていることがわかった。
 たどり着いた上海虹橋駅の改札は地下三階にあり、そこから切符販売ロビーのある地上二階までエスカレーターで上っていく。殺風景で無機質な未来的な駅のデザインは、駅というより、その国を代表する国際空港に近い。

 中は実に広く、エスカレーターひとつ乗るのでも、少し歩く。しかも方向がにわかにはわからず少し迷ってしまった。この駅の広さは一三〇万平方キロもあるそうで、道を迷って違う方向へ行ってしまえば簡単に二、三〇分たってしまいそうだ。とはいえ、そんなには焦っていなかった。というのも乗るべき便を中国ビザ入手前に前もってネット予約していたし、しかもそのとき出発までにまだ二時間近く時間があったからだ。
 予約のため、渡航前に私が利用したのはtrip.comという旅行予約サイト。これを使って予約するのは実に簡単だ。列車、ホテル、航空券という三つのカテゴリーから、列車を選択し、出発日と出発地、行き先を指定すれば、その日の便の予約状況がすべてわかるし、切符があればそのまま予約が可能なのだ。
 trip.comを通じて、私が予約したのは、上海虹橋駅を一九時に出発し二三時一八分に北京南駅に到着するG22。ここでいうGとは、時速三〇〇キロ以上で走る高鉄(頭文字はG)というクラスのことだ。しかも私が予約した数字二桁のタイプは高鉄の中でも最速の部類に入る列車。一三〇〇キロあまり離れている上海~北京間をなんと四時間台で走ってしまう。同じ高鉄でも数字三桁の列車は五時間台~六時間台と遅い。
 私がなぜこの車両を選んだのかというと、ウェブサイトに表示された該当する便、四〇本あまりのうち、そのほとんどがこのGというクラスだったからだ。そもそも選択の余地があまりなかったのだ。Gであれば値段はすべて五五三元(八八四八円)均一。であれば最速の便を選択した方がお得に決まっている。
 同サイトによれば、G以外のクラスはそれぞれ一日に数本のみで、そのほとんどが夜行列車だったと記憶している。内訳は次の通りだ。最高時速二五〇キロの動車(頭文字はD)、最高時速一六〇キロで走る夜行列車の直行(頭文字はZ)、最高時速一四〇キロで走る特快(頭文字T)。同様に一二〇キロの快速(K)、頭文字がなく数字だけの停車は各駅停車というものもあったと思う。二六年前に私が利用し、「すごい一四〇キロもスピードが出てる」と言ってはしゃいだのは特快というクラス。今でいうTクラスだ。当時はこのクラスが最も速かったのだ。
 にしても驚くのは、安く据え置きされた鉄道の運賃だ。今回、私が予約したG22は二等で五五三元(八八四八円)しかしなかったのだ。これが日本だと、ほぼ同距離である東京駅~熊本駅間で最速で六時間、運賃は二万五〇〇〇円ほどもする。

 二六年前はオンライン予約などはなかったから、駅へ出かけての出たとこ勝負。どのぐらい時間がかかるか読めなかった。並ぶ習慣のない人民たちと押し合いへし合いしてビーチフラッグの取り合いのような攻防戦を繰り広げるか、比較的、求めやすい高いクラスの切符を、まだ売れ残っていることを信じて買いに行くしかなかった。しかしその必要は今回なかった。
 ただひとつ面倒だったのは、切符の発券のため、有人窓口に並ぶ必要があるということだ。人民ならば身分証明カードを、自動券売機でスキャンすれば、発券が可能なのだが、外国人は有人窓口でのパスポートの提示が必要なのだ。

 二階にある有人窓口は八つ。一つの窓口につき人民を中心に五人ずつぐらい並んでいる。ここで私は、予定の便を早めてもらうことにした。そこで、一番奥にある「改签」という窓口に並んでみた。すると、ものの一〇分ほどで番が回ってきた。この時点で、予約していた元の便が出発するまでにまだ一時間半の余裕があった。そこで私は、予定よりも出発が一時間早い一八時発のG18という便に変更してもらうことにした。これだと北京南駅に到着するのは二二時三六分と到着が四〇分ほど早くなる。夜遅い到着だけにこれは助かる。
 ガラス張りになっている窓口の向こう側にはヘッドセットをした若い女性職員がいた。私は変更したい便がわかるよう当該の便をスマートフォンの画面に表示し、それをガラス越しに見せた。するとすぐに通じ、パスポートの提示を求められた。ガラスの下のくぼみからパスポートを渡す。すると彼女は渡しのパスポート番号を端末にパチパチと入力、すぐに発券してくれた。以前ならば、気持ちに余裕がないようで、疲れてイライラしていた。こちらが何かを言っても無視するし、切符が発券されたとき、現金や切符を投げてよこしたりすることが通常だった。しかし今回は、そんなことはなく、ごく丁寧にガラス下のくぼみからパスポートとともに極めて事務的に切符を渡してくれた。
 昔ならばすさまじく並んでいたのに、なぜいなくなったのかというと、それはいくつかの要因が考えられる。一つ目はコンピュータによる切符の一元的な管理だ。二〇〇二年に私が旧満州に出かけたとき、すでになされていて、購入するのに長時間待つようなことはなかった。
 二つ目は二〇一一年(二〇一三年という話もある)以降、バスにしろ鉄道にしろ長距離切符を入手する場合、身分証明書の提示がすべて必要になったということだ。以前は、お金さえ払えば購入が可能だったため、ダフ屋が大量購入することができたが、席が空いていれば、乗ることができるようになったのだ。
 三つ目は人民の大半は自動券売機を使って発券するようになったということだ。身分証明カードを使うことで窓口を通すことなく発券が可能になったのだ。
 どの理由が決定的なのかはともかく、切符を買うことに苦労した身としては、あまりにあっけなくてビックリした。肩すかしを思いっきり食らったようなものだ。だけどというか、だからこそ、天国のような改善ぶりに感動した。

 有人窓口がある二階から一階に降り、X線検査を受けて、待合ホールに入る。そこはサッカー場がいくつか入ってしまいそうなほど広い巨大な空間で、プラットフォームは三〇もあるという。切符の右上に記された「检票:1A」という番号を探し出してから、そこに移動して、着席した。
 向かい合わせで縦にベンチが並んでいる所に座って待った。椅子の向こうには電光掲示板と改札があり、プラットフォーム別に改札が分かれているということらしい。このように実にシステマティックになっていて、日本のように一〇分前に駅に着き、駆け込むということは不可能になっている。
 現地に待っている人々はボストンバッグはまずいない。キャリーバッグがお洒落なビジネスリュックを持っている。上海の街中で見たようにダサさはない。街中はミニスカートが多くややイケイケな感じだったが、長距離移動な文家族連れが多かったりもう少しシックな服装だったりと落ち着いているという違いはあったが、二六年前のようなダサいワイシャツにスラックスという姿の人は皆無だった。
 時間通り一五分前に改札が開始される。一人一人切符を駅員が見ている。エスカレーターで降りると「習近平同志の元、緊密に団結し初心忘れるべからず、使命を守り、鉄道改革発展の新局面を作り出そう」などと記されたスローガンが眼に入った。

高速鉄道が急速な敷設されたわけ

 一九七八年、鄧小平は日中友好条約調印のために来日している。鄧は松下電気やトヨタといった企業を視察し日本の最先端技術を目の当たりにしたり、東海道新幹線で移動したりした。
「速い。速い。まるで後ろからムチで追い立てられているようだ。まさに我々に必要なものはこれだ」と鄧小平は語った。
 以来、高速鉄道を作るということが、国家的な目標となった。
 その後、改革開放政策により、旅客と物流両方ともにその量が激増した。しかし中国全土に敷かれた鉄道網はそれを捌ききるには貧弱すぎた。
 中国の鉄道部は一九九〇年一二月、国務院に高速鉄道建設案を提出する。それを受け国務院は一九九四年一二月、高速鉄道建設計画の実現可能性の調査を委託する。一九九〇年代後半~二〇〇四年にかけてほぼ全土の在来線の時速が二〇キロアップの一六〇キロとなった。これにより、頭文字がZの直行クラスが新しく設けられた。しかしこれは、新幹線のような新型車両を用いたスピードアップではなかった。このころは動車(D)や高鉄(G)というクラスはなかったのだ。
 二〇〇三年に劉志軍が鉄道部長となったことではっきりと潮目が変わった。というのも劉が高速鉄道計画の旗振り役となり、その後、高速鉄道網の構築が実行されたからだ。
 二〇〇四年、国務院は「中国鉄道中長期発展計画」を発布した。それは「二〇二〇年までに旅客運輸のニーズを満たすため、省都に相当する都市と大中都市を結ぶ平均時速二〇〇キロ以上の高速鉄道を一・二万キロ以上建設する」というものだ。リニアモーターカー網の整備も検討されていたがこの計画が発布されたことで、日本の新幹線同様のレール方式に方針が一本化された。投入する予算は実に二兆元(三四兆円)であった。
 その範囲は「四縦四横」とされた。四縦とは[北京~上海、北京~香港、北京~ハルピン、杭州~福州~深圳]、四横は[徐州~蘭州、上海~昆明、青島~太源、上海~武漢~成都]の各区間のことを指していた。
 とはいえ当時の中国は独自技術だけで鉄道を高速化する技術を持っていなかった。そのため外国の技術導入を計ろうとした。当初は日本の新幹線技術を採用する予定で劉志軍もその案を支持していた。ところが、その当時、江沢民による反日路線が幅をきかせている時代。学校では愛国教育が取り入れられていた。加えて日本側(JR東海)も中国への技術移転には乗り気ではなかった。そのためボンバルディア、シーメンス、川崎重工といった企業の技術を寄せ集めて、車両開発に取り組んだのだった。
 二〇〇七年四月、最高時速二〇〇キロ以上の動車(D)が多くの在来線に導入される。これにより約六〇〇三キロでは最高時速二〇〇キロに、八四六キロの区間では同二五〇キロとなった。
 二〇〇八年四月には北京~上海間の高速鉄道専用線の工事が着工する。北京~上海間の専用線に先駆けて七月には済南から青島間の専用線が三六三キロが開業、翌八月には、北京~天津の専用線一一五キロ、合肥~南京の専用線一一六キロがそれぞれ開業した。ここに来てようやく高鉄(G)が導入されたのだ。
 同年九月にはリーマンショックが起き、世界的な不況となった。しかし、中国は逆に強気の策に出た。一一月には四兆元(約六〇兆円)の緊急財政出動を決めたのだ。この財政出動を受け、鉄道部は高速鉄道建設に九〇〇〇億元(一五・三兆円)を投じると発表した。
 その後、高速鉄道専用の鉄道網は着々と伸びていった。二〇〇八年四月に専用線が着工した北京~上海線は予定より二年早い突貫工事によって二〇一一年六月に完成し、開通する。これによって時速三〇〇キロ以上の走行が可能となった。

快適すぎる高速鉄道の旅

 目の前には复兴号(復興号)と記された白地に濃い青そして下に金色のラインが入っている車両があった。ホームドアはなく丸見えだ。先頭車両の外観はジェット機の先端部のようでオーソドックスなもの。車両の横にはCR400BF Aと記されていた。カモノハシの顔のような外観をしている日本の七〇〇系新幹線のほうがスピードが出そうな気がするが、スペック的にはこちら復興号のほうが圧倒している。七〇〇系新幹線の営業時の最高時速が二九〇キロなのに対し、こちら復興号はなんと三五〇キロだというではないか!。 本当にそんなスピードが出てしまうのだろうか。
 それまでの和諧号は各国の技術を吸収した寄せ集めの車両鉄道だったが、この复兴号は中国標準規格。二〇一七年六月に運行を開始したばかり。しかも私の乗ったCR400BF Aは、三ヶ月前の六月に導入されたばかりの最新機種だという。にしてもなぜ復興なのかと言うと、習近平主席の「中華民族の偉大な復興」というスローガンに由来しているらしい。このスローガンについてはこのときよくわからなかったが後で雲南省の景洪に入ってからようやく理解していくことになる。

 日本だと車両に勝手に乗り込んで勝手に席につくが、車両の入り口にはにこりとも笑わないしっかりときつめのメイクをした若い女性乗務員が入口に立っていて、彼女に切符を見せないと中には入れない。せっかく女性乗務員を置くならもっとにっこりとすればいいのに、このツンツンした感じは二六年経っても変わらないようだ。
 私の切符は一〇号車の4Cだった。進行方向後ろから四番目、通路を挟んで右側の三列シートの通路側の席。家族連れやサラリーマンなどがいて乗車率は八割ほど。最高速度三五〇キロというだけあって窓は開かないようになっていて、その分、空調は効いている。
 一旦出発すると、車両はぐんぐんとスピードを上げる。時速二〇〇キロ台はもちろん二六〇キロ、そして三〇〇キロ、このぐらいで打ち止めなのかと思ったら、実際に三五〇キロに達してしまった。しかも揺れは日本の新幹線とさほど変わらず快適なのだ。これはすごい。
 トンネルというトンネルがなく、平地の中をただひたすら真っ直ぐずっと進んでいく。暗くなってきたし、廊下側なので景色はほとんど楽しめない。途中駅は二二だが途中駅は無錫東、南京南、済南西と三つだけ。スピードしか表示されない不親切な電光掲示板を見たり、取材メモを作ったり、ときおりやってくるワゴン販売の売り子さんたちの様子を見たりして、過ごすしかなかった。ワゴンの売り子たちが売っているのは、ジュースにサンドイッチ、ミネラルウォーターにコーヒー、ビール、酒のつまみなど。また別の売り子はワゴンで駅弁を売りに来た。ヒマの潰し方はまわりの中国人たちはしっかり心得ているようで、子供たちはゲームをやっていたり、大人たちはスマホやタブレットを見ていたりしていた。
 出発して一時間経過したところで、高層ビルがわっと並び建つようになる。車両はスピードを落とし、出発した上海虹橋駅とよく似たまるで空港のようなだだっ広いコンクリートの構造物に滑り込んだ。南京南駅だ。そうした空港のようなドデカい駅の様子にあっけにとられた。列車は南京南駅で少しの乗客を乗せた後の数分後に発車、またスピードを上げていく。
 南京南駅を発車した後、私は駅弁を買ってみることにした。上海虹橋駅を発車してすぐに買わなかったのは、思いの外、買う人が少ないからだ。だが買ってみて、なぜ売れ行きが良くないのかわかったような気がした。一人前が六〇元(九六〇円)と日本並みに高いのだ。運賃がかなり安く抑えられている分、割高に感じる人が多いのだろう。購入した駅弁は、チキンとシャケと豚肉と卵の料理という三つのおかずにご飯が付いたもの。温かいものが好きな中国人の嗜好に合わせてどれもほかほかだ。しかし、ご当地特有の名物料理が付いているわけではなく、単に量が多いだけで味もそこそこという、可もなく不可もない代物だった。
 駅弁が通った後、なぜか空のカートが何度も回ってくるようになった。よくわからず最初はスルーさせていた。しかし何回もくる。乗客はそのカートの中に空の容器などを持ったまま手を伸ばしては投げ込んでいた。つまりこれはゴミの回収をしてくれるということらしい。
 南京南駅を出てからさらに四〇分が経過。今度は安徽省にある蚌埠南駅という駅に到着する。ここも上海虹橋駅や南京南駅同様のドデカくて殺風景な空港のような駅で、見ていて飽きてきた。
 数分後に発車する。ドア上の電光掲示板を見ると、またスピードが表示される。時速二〇〇キロ、二六〇キロ、三〇〇キロ、そしてまたスピードは三五〇キロに達した。
 にしても時速三五〇キロも出して、大丈夫なのだろうか。東日本大震災が起こった二〇一一年に、中国の高速鉄道が大事故を起こして地面に埋めたことがあったけども。
 それに、数兆元(日本円で数十兆円)もの費用を使って、車両を作ったり、線路などの施設を建設したりしているわけだが、こんなに安い運賃で見合うのだろうか。費用対効果はどうなっているのか。

ボロボロだけどイケイケドンドン

 二〇〇七年四月に、時速二〇〇キロ以上の高速鉄道(頭文字がDの動車)の営業運転を開始。すると、さっそく、事故が相次ぐようになる。
 二〇〇八年一月には不適切な工事が原因で一八人が死亡し九人が負傷、同年四月には脱線衝突が原因で七二人が死亡し四一六人が負傷している。これはどちらも山東省で発生しているが、どちらもまともな現場検証や原因究明は行われず、一日後には路線が復旧した。
 さらには、二〇一一年七月、浙江省温州付近で動車(D)の車両同士の追突事故が発生、六両が脱線し、うち四両が一五メートル下の地面へ落下した。公式発表では四〇人が死亡し二〇〇人以上が負傷したという。この事故に関して、当局は「落雷による信号システムの故障」と原因を発表、事故車両を粉砕し始めたり、遺族を隔離して即座に保証金を払うという、実に素早い隠蔽工作が行われた。そしてなんと驚くことに事故から三六時間後には運転を再開したという。
 今までならこうした方法によって事態の収拾が図れたのだろう。しかし、二〇一一年にもなると、微博やWECHAT、ブログなどによって一般庶民が独自に意見や事実を発表することが可能になっていた。そのため、こうした当局の隠蔽工作はネットが炎上、それを受けてテレビでは事故車両を粉砕して埋める様子が繰り返し放映された。すると、当局は一旦は埋めてしまった車両を掘り起こしてどこかに移動させてしまった。こうした経緯は日本でも大々的に報道された。そのため、ながらく中国から遠ざかっていた私にも知るところとなった。


 ちなみにこうした事故の原因としてよく指摘されるのは、鉄道部の権力が肥大化し腐敗の温床になったこと。本来は安全対策や技術革新のために使われるべき予算が、賄賂として幹部の懐に入ってしまったことだ。
 そうしたことは二〇一一年七月の温州での大事故が発生する前に発覚していた。同年一月、高速鉄道の旗振り役であった劉志軍が高速鉄道工事に絡んでの収賄容疑で逮捕拘留されていたのだ。もちろん鉄道部の部長というポストは解任されていた。
 本来であれば、鉄筋やセメントを購入するために使われたり、高架橋や川を渡る橋梁の地盤工事のために使われたりするべきだった。しかし実際は費用がケチられ、工事は手を抜いて行われてしまった。そうした安全対策のために使われるべき莫大な資金が賄賂となり、劉らの懐に入っていったのだ。裁判の結果、劉は死刑判決(執行猶予二年)を受けた。それでも死者が生き返るわけではなかった。この事故の犠牲者は賄賂の犠牲となったと言えるのかも知れない。
 劉の逮捕後の二〇一三年三月、鉄道部は解体され、国家鉄路局と中国鉄路総公司に分離した。高速鉄道の予算は半減し最高速の速度である最高速度三五〇キロは三〇〇キロに、三〇〇キロは二五〇キロに制限された。それ以降は鉄道事故は減った。二〇一三年度は一三三六人が死亡(五・七%減)、二〇一四年には一二三〇人が死亡、二〇一五年には一〇三七人、二〇一六年は九三〇人、二〇一七年には八九七人となった。しかも中国は日本の一〇倍以上人がいる。とは言ってもいまもなおそれだけの人たちが鉄道事故で亡くなるということは驚愕に値する。日本で新幹線の事故が開業以来ゼロなのとは好対照だ。


 高速鉄道の運賃がかなり安いこと、工事のため数兆元(日本円で数十兆円)という巨額投資を行ったことを記したが、実際のところ負債額も桁外れらしい。報道によると、二〇一八年現在の負債額は五兆元(約八〇兆円)に達しているという。二〇二〇年に負債額が八兆元に達するとする識者もいる。一方、二〇一八年の第一、四半期の純損失は約六〇億円とぼろぼろだ。
 それでも鉄道建設自体は今もイケイケな調子で進んでいる。二〇一八年、同網の営業距離は二万五〇〇〇キロ。これは世界の高速鉄道網の実に三分の二にあたるという。同網は二〇二〇年までに約一万六〇〇〇キロを整備する計画と上方修正されて発表されている。さらに二〇三〇年までには三万キロに拡大する予定だと、当局はかなり強気な発表を行っているのだ。

 蚌埠南駅を出た後、睡魔に襲われて、ウトウトしてしていた。相次ぐ事故と無理に無理を重ねた建設の様子に不安を抱いてはいたが、実際、乗っているとそうした不安を払拭するほどに揺れを感じない。一歩間違って、衝突でもしたら、命を失う可能性だってあるのにだ。
 この心地よさが、安全を証明しているんじゃないか。まどろみながら、私はそんなことを考えていた。

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