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【著作権について考える入り口】デジタル技術における「体験の乖離」 - 『実況動画』はオリジナルな表現コンテンツか(禁止対象から許可空間の時代へ)【全文公開】

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今回は実況動画というものについて少し掘り下げてみたい。ここで言う『実況動画』とはオリジナルなコンテンツ(著作物)を利用した二次的な動画という意味である。

現時点で実況動画と言えば、ほぼほぼゲーム実況動画を指すことになるだろう。しかし、僕は、今後あらゆる業界に実況動画は拡散してゆくと感じている。映画やアニメの「映像を流して」の実況も時間の問題で解禁になるだろう(Twitchでは一部の国で既にテストが始まっている)し、もっと専門的な業界の作業風景の実況など(料理研究家による料理実況や漫画家による実際の作業実況や医師による手術実況など)も作られていくだろう。「○○先生の授業を□□先生が実況」なんていうややこしくねじれた教育コンテンツも作られる可能性は大いにあるし、僕だって可能なら作ってみたい。もっとも、現時点では許されなさそうなので、僕はまだ他予備校の有名な先生方については、ちょっとしたパロディ程度のイジり方しかやっていない。

とりあえず、一番歴史が長い『ゲーム実況』の話を取り上げよう。

かつて、ゲーム実況とは限りなく黒に近い「グレー」な行ないであった。著作権者からの許可もなく勝手にゲーム画面や音声を利用してコンテンツを制作する。収益化云々以前に、それだけで著作権的にグレーであった(そもそも黎明期には収益化なんて仕組みはなかった) しかし、いまや多くのゲームにおいては、プレイ動画がある程度シェアされることは初めから見込まれているし、積極的にシェアすることをむしろ推奨しているゲームも多い。PS4では、そもそもシェアするための機能が初めから準備されており、そのルールに則っていれば、著作権違反と言われることもない。もちろん、そうしたシェア機能のないハードやPCゲームなどではいまも実況動画がグレーとされる作品はあるだろう。しかし、それもほとんど話題にならなくなった。余程過敏な著作権者以外はシェアされることのメリットを受け入れている。ゲームというのは、もはや、単にプレイヤーがプレイするためだけのものではなくなったのだ。

実際に自分でやってみれば実感できると思うが、ゲーム実況動画を録画する、あるいは特にライブ配信でゲームをプレイしようと思うと、単なる作業を超えた明確な「スキル」が必要である。eスポーツ的なゲームであればそもそもの操作や認知に関してかなりの練度が求められるし、何らかの攻略要素のあるゲームであればある程度スムーズに攻略を進めるための準備(それは攻略法の入念な下調べであったり、ゲーム攻略そのものへの慣れの感覚であったり、攻略がスムーズでないことすら美味しく料理する話術であったり、人によってスタイルは異なる)が求められる。つまり、ゲームを「他人に見せられるレベルで」プレイするというのは、間違いなく立派なスキルである。ゆえに、一定以上のクオリティのゲーム(実況)プレイ動画は、実況者(プレイヤー)のオリジナルな表現コンテンツという「側面」を確実に持っている。

そういった意味で、ゲームはもはや完全に「メディア」であり「コンテンツそのもの」ではなくなりつつあると思われる。そして、ゲームというメディアを用いてプレイヤーが「表現」を行なったものが「ゲーム実況」である。「ゲームが好きだ」などとひとくちに言っても、そもそものゲームを「プレイする」スキルのある者とない者が、既に明確に峻別されている。

何を大袈裟な。そんな、高々ゲームごとき、誰でもプレイできるだろう。そう言うのなら、一度ゲームプレイ動画を作ってみればわかる。よほど才能があるか、ゲームおよびゲーム動画に慣れた者以外は、まずまともな動画は作れないだろう。

そういう意味で、ゲーム「プレイ」に関しては、僕は自動車の「運転」との類似性を感じている。運転免許を持った者が運転する。免許のない者は、それでもとりあえず、自動車に同乗することはできる。誰の運転するクルマに乗るか。自動車を例にとるなら、運転(できる)者とただ乗るだけの者が存在する。その感覚が近しい。

もっと話を広げれば、それはITスキル全般に拡張できるかもしれない。ITのリテラシーがある者とない者。そこにも自動車の運転免許との類似性を感じる。つまり、テクノロジーの恩恵をダイレクトに引き受けてアウトプット表現できる者と、ただ表現を受動的にインプットすることしかできない者の二極化が進んでいるということだ。いつの時代にもそうした傾向(リテラシーによる線引き)はそれなりにはあったわけだが、そこに「デジタル(明確)」メディアが「明確(デジタル)」な境界線を引いてしまったため、もうその二極化は不可逆になっている。

YouTubeに動画をあげる者と観る者。たとえば、そこにも二極化はある。受動的にコンテンツ消費を繰り返してコメント欄でクダを巻いているような人間は、永遠に「自動車を運転する」ことは、ない。運転免許も持たずにF1ドライバーの運転技術を「上から」批評することをアナロジーすればわかる。

以上、取っ掛かりとしてゲーム実況の話を取り上げたが、このような問題は本当にあらゆる業界で今後確実に現実化してゆくと、僕は確信している。そんな僕は、現在、編集された動画の作成からはやや距離を置いている。

かつては、動画なり何なりのコンテンツは、一次制作者こそが真のクリエイターと考えられていたはずで、他人のコンテンツを利用した実況者など寄生虫扱いだった。しかし、いまやそうではない。ゲームや映像作品その他のメディアは初めから「素材」である。ゲーム販売において、プロモーション活動の一環として有名実況者を利用するなんていうのは、もはやあまりに当たり前になってきている。

さて、ようやくではあるが、僕自身の考えを記していこう。僕の中でも、著作権に関する考えはこの10年ほどでかなり大きく変わってきている。もちろん、一市民として法律に従うのは当然ではあるが、正直ここまでデジタルが全てを塗りつぶした世界で「複製」に利権をぶら下げるのは、理論上は、ナンセンスとしか思えない。はじめから複製が見込まれたモノの複製を禁止して何になるのだろうか。路上に一万円札をばらまいて「拾うな」と言っているようなものである。

理屈の上では、初めから一定のサブスクライブの範囲内で著作物を完全に「放流」するしかないのではなかろうか。「歩行者天国」ならぬ「一万円札拾い天国」を作るしかないということだ。もう少し真面目に表現しよう。全ての著作物をあらゆる種類のサブスクライブ空間で「包含」して欲しい。たとえば、僕は入試数学の問題を解く動画コンテンツを作っているが、正直、入試問題を著作権の問題で利用不可などとされるのは、教育上全く理念に適っていない。おそらく数学の入試問題を大学の許可なく二次利用することはグレーだが、僕は教育目的という名目で普通に使わせていただいている。一定のサブスクライブ空間の設定があれば、もちろんサブスクライブさせていただきたいと思っている。繰り返すが、一市民として法律に従うのは当たり前だし、もしもいまの僕の行ないが訴えられでもすれば全て引き下げるが、このような利用を否定するのは時代感覚に合っているとはとても感じられない。

実況動画の話は著作権の話とは切っても切れないものではある。そして、現状の著作権の感覚は、僕はとっくの昔から時代遅れであると感じている。デジタルの世界に放流されたあらゆるコンテンツは、その時点からもはや複製や二次利用を「禁止」することが原理的に不可能だ。それがデジタルである。だから、著作権の未来は禁止対象を逐一設定する方向ではなく全てをサブスクライブ(許可)空間で埋め尽くす方向のみにあると僕は感じる。サブスクライブ空間外での活動は全て違法とすることで、もちろん法を守らない者を完全なゼロにすることは永遠にできないだろうが、サブスクライブ空間内での活動に自由な二次利用や収益化などのメリットを積極的に与え、サブスクライブ空間を前提とする文化が築かれれば、適法な手段を選択するユーザーが増えることは間違いない。結果として守られる著作権者の利益も増えるはずだ。著作権は、禁止ではなく許可を前提にした時代に即した在り方に変わって欲しい。

ただ、そこでおそらく問題となるのは、そのサブスクライブ空間を「誰」が保証するのかということだ。いわゆるGAFAなどがプラットフォームを提供することになるのだろうが、それでどこまで公益性が保たれるのかを考えると、それで「誰」の利益が守られるのかわからなくなってくる面もある。その話はシステムの話であって、著作権そのものの話を超えるので、いまは控えておく。

ちなみに、「価格」そのものについても、もう一度触れておく。僕は真にオリジナルなコンテンツについては、「手数料」的にシステムが徴収する「定価」ではなくユーザーがクリエイターにダイレクトに払いたいだけ払うという「投げ銭」の方が時代感覚には合っていると感じている。動画の収益化においても、何故か広告収入は善で投げ銭は悪という謎の風潮があるが、度を越さない「一定のルール」の元では、いまの投げ銭のシステムそのものが良いかは断定できないが、しかし、広告代理店が噛んでくる感覚よりも投げ銭的な感覚の方にこそ未来があると、その方向性だけは確信している。

そして、そんな世界においては、実況者は間違いなくクリエイターである。たまたま先行者が先行利益を掴むような運だけの世界ではなく、スキルで評価(より正確には単なる好き嫌い)される世界。

基本的にいま既存の「ビジネス」の文脈にのみ固執して動いている人々は、体験の二極化の手前側にいる。もちろん、それは悪いことでは全くない。「体験が乖離」することで、今後、社会を構成する役割が二極化する。その、社会の整合性を保つ手前側の仕事、新しい在り方を見出す向こう側の仕事、どちらも必要かつ重要だ。ただ、せっかくこの時代に生まれたのだから、できることなら僕は向こう側の世界を見てみたい。

一貫して僕が願うことはそれだけだ。

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