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Think difficult ! part4「壁」 -認識論的独我論から言語論的独我論へ【全文公開】

一番初めに『他人の壁』というタイトルで記事を出したのだが、同タイトルの書籍が既に出ていることを知ったので、タイトルを『壁』と直した。それにしても『壁』シリーズ、安易に出し過ぎやろ、出版社さんよ笑

"Think difficult!"の重要性についてシリーズ化して語ってきたわけだが、今回は趣向を変えた。問題意識を高めてもらうため、直接的ではなく間接的に語ろうと思う。ここで語っている内容そのものではなく、直接語っていない「意図」の輪郭を感じて欲しい。ここで語りたかったことは「独我論について」ではない。あくまでも「考える」という行ないに慣れていない方へ、何かヒントを感じてもらうという補助的な「効果」が狙いである。内容そのものではなく物語の「流れ」を感じて欲しい。要するに"Think difficult!"の練習教材を提供しようということである。だから、独我論として正しいかどうかなど初めからテーマではないし、独我論についてなどほとんど触れていないことは、あらかじめ言っておく。

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唐突だが、僕は予備校講師として、これまで、勉強のできる生徒、勉強のできない生徒、たくさん指導をしてきた。特に直近では勉強のできない生徒の個別指導に重点的に取り組んだ。その結果、逆に僕自身が受けた影響が二つある。

一つはポジティブな影響である。自分以外の他人が物事を理解するペースに合わせる技術が身についた。ゆっくり丁寧に根気よく他人に指導する。これは才能ではなく技術だ。理解力のない子が一体なぜそんなにも理解が遅いのかは、今でも僕には全く理解できないし共感もできない。それが「わかる」ことが、先生の第一歩であると僕は感じている。傲慢にも「共感できた」なんて思ったが最後、その後勘違いでエラい目にあう。安易に生徒に共感してしまう先生を僕は「先生」としては信用しない。生徒の理解の速度に合わせて、口頭においてもテキストの構成においても、理解すべき情報の本質をより小さなブロックに噛み砕きながら配置するというただひたすら「実務的な作業」こそが重要である。そこに多くの時間を割くようになった。

個別指導において先生に必要なことは何か。

「なぜ生徒が歩くのが遅いのか」なんていちいちわかる必要はない(わかるはずがない)

歩くのが遅い子がいれば、ただ一緒に寄り添ってゆっくり歩けば良い。

とにかく一緒に歩いて少しでも前に進むのだ。そのために必要なものは、優しさや思いやりといった不確実な要素ではない。単に訓練で可能になる「技術」である。「情」を指導上の小道具として使うことはあるが、「情」で生徒を賢くすることはできない。これは難しい問題である。人のやる気を導くのは間違いなく「情」ではあるが、「情」はやる気以上のものは与えない。僕も多くの失敗を重ねた。

そして、もう一つの影響についてだが、これはネガティブなものである。ゆっくり歩くことが業務上一部日常化したことにより、いざ一人のときに全速力で走ろうと思っても、本来できたはずの理論値の思考速度が出せなくなってしまった。これはいまでもかなり強い影響を感じる。究極的な話をすれば、独りで引きこもって誰とも話さず、つまり思考の共有を初めから一切考慮せず、自分のペースで本を読み思索を巡らせていた時が一番思考力があった。ただ、他人との思考の共有によるフィードバックを得ずに独りでひたすらこれをやり続けると、思考だけがどんどん先行して現実から乖離し、そのうち他人と話が通じなくなる。共有のための思考の「噛み砕き」が億劫になり、いわば仙人化してしまう。何事も結局バランス問題である。

前置きが長くなったが、この「他人に合わせる」というところを少しピックアップしてみたい。

他人に合わせると馬鹿になる。これは間違いない。だから「シェア」が前提の「SNS」は本質的に「馬鹿」のためのものである。馬鹿にカギカッコをつけているので意味は察して欲しい。意図的に思考速度を落として利用するためのものという意味である。

だからと言って、他人には合わせないと話は通じない。これも間違いない。シェアという他人に合わせることが前提であるはずの「SNS」を見ていれば、それが逆説として体感できる。「他人に合わせる」というのは僕自身も実際かなり苦労した熟練を要する技術であるが、その習得を問わぬまま「シェア」という行ないをワンクリック化(当たり前だがクリックにはタップ動作の意味も含めている)したことで、話が通じないことが前提の空間が作り出されている。逆説的に言い換えるなら、ワンクリックすれば「話が通じる」という、そんな「便利な」時代になったのだ。

『バカの壁』という戦後屈指のベストセラー本がある。このタイトルはなかなかうまい表現だと思う。この記事のタイトルもそこと少し引っ掛けている。内容が容易に想像できるので僕はこの本は読んでいないが、しかし、この口述筆記の「平易な」本も理解できていない壁の向こう側の住人は、バカほどたくさんいる。なぜそんなことが断言できるかというと、バカほど売れたからだ。日本の人口を考えるに賢い人は何百万人もいない。いてはいけない。それが「統計」である。賢いという言葉の定義の中には、当たり前だが希少性が前提されている。人類が皆おしなべて賢いのであれば、「賢い」という言葉は「人間である」ということと同値になってしまう。

失礼。話を戻そう。

だから、「バカとは何か」を煎じ詰めると同じ理屈で「他人」の存在にぶち当たる。まさに超えられない壁がそこにはある。バカを定義するには優劣の概念が必要で、優劣が生まれるには人間関係が必要だ。一人で誰と接触することもなく仙人のように暮らしているなら、そこにバカは存在しない。バカかどうかを決める基準は他人との比較にある。どうやって比較するかというと、言語というツールを使う。当たり前だ。思考のベースは言語である。つまり、「話が通じる」とは言語による「判断の一般化」である。一般化されればこそ、共有もされる。これは、前提である。「話」こそが人を人たらしめている要素、むしろ人そのものなのだが、現代とは、その前提がワンクリック化された時代ということになる。「ワンクリック化」とは言語による判断の一般化をすっとばす、すなわち、意見を異にする者同士が歩み寄る可能性を消去する行ないである。人が「これまでの」人たる定義を満たすための必要条件が失われてしまったのだ。そして、クリックした者同士をパッケージ化する。そんな時代においては、ワンクリックで「話が通じない」奴はバカと判断され、基本的には存在を消される。「基本的に」と言っているのは、まれに「炎上」という名前でパッケージ化されて壁を越境してくることもあるからだ。つまり、話が通じるように「安全に」パッケージ化された「陳列される」バカも存在する。ともかく、そうやって「話の通じない」バカを消去したり陳列したりしていると、最終的には「話が通じる(と信じ合っている)」モノだけが手元に残ることになる。それは何か。

自分自身である。

当たり前だが、ワンクリックで本当に自分と話が通じるのなら、それは同じ言語表現を認知した時にそっくりそのまま同じ意味を脳内に想起するということである。本来、そんなことが他人同士で断定的に保証できるはずがない。もし、究極としてイメージの想起の仕方が自分と全く同じだという者がいるとしたら、それはもはや自分そのものである。だからワンクリックで話が通じるというのはやはり幻想でしかないのだが、その幻想を前提としてSNSは回っている。ITとは幻想を意識作用として外部的に実体化する意味で、比喩でも誇張でもなくまさしく「魔法」である。僕はITが実現する幻を「幻実」と勝手に呼んでいる。勝手な用語に付き合わせて申し訳ないが、いま世の中で起きていることは、僕の認識では、「幻実」による「現実」の上書きである。

外部に作り出した技術とのインタラクションで我々の内部も不可逆に変更を受けているのか。そんなはずはない。接続を切ればまた元の人類に戻る。つまり、今後は外部との接続の有無(程度)で我々は異なった種族に分化するのだろう。アップデートされた人類は、もはや従来の意味の人間ではないと考えられるので、アップデートされる前の人間を「人間」と呼ぶことにする。

「人間」は原理的に自分以外の存在など決して理解できないようにできている。「自分」という基準から離れて他人の輪郭を捕まえることは不可能だからだ。そのような、原理的に自分の存在しか知らない「人間」にとって、他人とは一体何なのであろうか。最終アップデートを受け入れる前にそこを見直しておきたい。

接近手段はたくさんある。哲学的なものに始まり、社会学、経済学によるアプローチもあるだろう。生物学、物理学、情報学としてとらえる試みもある。もっと素朴に考えたって良い。ただ、それらは全て本質の着せ替え人形に過ぎない。本質は「君たちがいて僕がいる」というチャーリー浜(往年の吉本新喜劇座員だが若い世代は知らないだろうか)に包含されるのではあ〜りませんか!

「君たちがいて僕がいる」のだ。「君たちがいるから僕がいる」のでも、「僕がいるから君たちがいる」のでもない。

君たちがいる。そして、僕がいる。

論理的には、「他人」とはそれ以上に定義できるものではない。より善く生きるヒントとして「他人とは〜なものだ」と特殊な自己啓発をするのは構わないが、他人を自分との「因果関係で定義する」ことはできない。自他をつなぐのに使用可能な接続詞は、せいぜい"and"止まりである。

にもかかわらず、人間は多くの他人と集団を形成する。因果関係はなくとも、他人がいなければ自分もいないのだから、それは当然である。他人とは自分なのだ。他人が好きな人は自分が好きなのであり、その逆も同じことだ。そして、他人同士の共同生活を最適化するために「政治」が行なわれる。政治とは、「公共」というのが建前だが、本質を掘れば「自分」のための行ないである。

何人の人間と暮らそうが、一人きりで暮らそうが、見渡す限り、そこには自分しかいない。他人とは一体どこにいるのか。決まっている。

自分の心の中である。

人間は生まれてから死ぬまでずっと、自分から抜け出すことはできない。それが認識論である。認識論を否定するのは勝手だが、ここから先は証明という手続きが「存在」しない不毛地帯だ。考えるだけ無駄である。我々は自分が作り出す「他人」の像と必死で戦い、自分が作り出す「他人」の像に真実の愛を誓い、あるいは自分が作り出す「他人」の像に裏切られ、そして自分が作り出す「他人」の像に看取られて、最後の最後に誰かにとっての「他人」の像を背負わされて死ぬ。

他人の壁とは自分の壁でもある。冒頭で触れた「他人に合わせる」という行ないは、壁そのものと向き合う行ないである。自他が接触するマージナルな「場」としての壁に、やたらと広い窓を取り付けたがる「社交的」な者もいるだろう。広い窓を取り付ければ、壁の内側が明るく照らされることもあるかもしれない。一体何に照らされるのかは知らない。あるいは、社交的であることより「中身がある」ということに重きを置く者もいるだろう。人間に「中身」なんてものが存在するのかも知らないが、そういう人は敷地内にバベルの塔を建てようとする。より高みを目指そうとするわけだ。バベルの塔などと皮肉表現を使うということは、僕はそれをしていないということである。バベルの塔は決して完成しない。じゃあ、僕は一体何をしているのかというと、僕は地べたに這いつくばって面積を測量し地盤の調査をしている。数学物理学哲学生物学経済学その他何学を学ぼうが、たぶん本質的には何も得るものはなく、ただ泥まみれになるだけで一生を終えるだろう。あるいはそのうち調査すら放棄するかもしれない。僕は何を得ることもできず、ただ泥まみれになる、それだけのために生まれたのだ。しかしこれはニヒリズムではない。

いつ崩れるとも知れぬ、そして、高みを目指したところでそこに何があるとも知れぬ、そんな状況で高い塔を建てたいとは、僕は思わない。皆にそうしろと勧めているわけではなく、僕はそうすると言っているだけである。僕にとっては、いま立っている、直に触れている地面以上にリアリティのあるものはない。だから、僕は一生地面を踏みしめ続ける。自分とは何かを考え続ける。ある意味ではこれは執着なのかもしれない。しかし、こうした内省的発見行為こそが、逆説的に最も「他人」に近づく方法なのだと信じている。決して出会うことはできないだろうが、「自分」の最深部に「他人」が埋葬されていることは、初めから「知って」いる。

「人間には本質的に自分しかないのだ」ということを多くの人が知れば、世界はもう少し平和になるだろうか。

しかし、たとえば「人類全体が自分そのものである」というような、言語一般の意味を超えた感覚、これをそのまま皆さんに伝えるのに、僕と皆さんの間を阻む「壁」は、あまりにも高い。

そして、僕のいつもの手口であるが、最後の最後に全てをひっくり返して論を終える。ここまで語ってきた内容、その論点は、実は認識論的なものではない。これは言語論的な範疇にある。

何故か。

いま皆さんが感じているもの、すなわち、「ここ」にあるのは言語(が示す意味)であって認識(そのもの)ではないからである。

ここに"Think difficult!"のほぼ全てが詰まっている。

シェアされるものは「認識」ではない。そして、アップデートされた人類にとっての「幻実」がバベルの塔であることも疑いようがない。接続を切れば消えるのだから。しかし、もしも仮にそれが完成してしまうようなことがあったとて、完成してしまった時点で原理的にその所有権は人類ではなく神に移るはずだ。不完全な我々に完全など所有できない。そうと知ってか知らずか、それでも我々はせっせと神のために働いている。

人類は、なんと忠実な神の下僕であることか。


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