見出し画像

【表現研】『デスストランディング』は古い文脈の到達点

これからする話は、それなりの反発を受けると思う。でも、敢えて言っておきたい。プレイヤーもレビュワーもクリエイターも、ゲームに関わっている方々の思考法はあまりにも「具体」に寄り過ぎている。もちろん全員とは言わない。一般論であるが、俯瞰的に、抽象的に、意味そのものを捉え直すというスタンスでゲームに触れている人は、ほとんどいない。

それが即悪いと言っているのではない。ゲームをプレイする本質的な理由は、ただ一つ。楽しむためだ。そんなことは誰が言うまでもなく、明らかであり、極めて個人的な嗜好に基づき偏食で己の快楽のためのみにゲームを楽しむことは、正しい姿である(もっとも、今日においては、「ビジネス」という本質的ではない文脈がゲームプレイの動機を蝕む、すなわち楽しむためではなく配信ビジネスのためにただ流行っているゲームをプレイするという機会もかなり増えた)

しかし、である。「レビューする」ということになってくると、話は変わる。レビューというのは、ゲームそのものの外部に視点を持った行ないである。つまり、ただ目に見えたものだけを見る行ないは、レビューにはならない。

ある程度成熟した文化表現物においては、レビューもそれなりに成熟している。文学や映画といった、メインど真ん中のカルチャーはもちろん、アニメやマンガも、ジャンルによるが、かなり成熟したレビューを見る機会も増えてきた。

しかし、ゲームレビューに関しては、正直成熟したレベルにあると感じるものは、ほとんどない(ないとは言っていない)

もちろん、僕はゲームの専門家ではないため、僕なんかよりもはるかに豊富な知識を持ったレビュワーというのはたくさんいるし、そういう知識比較型というか特性をパラメータ化して評価する、いわゆる昔からあるタイプのレビューの範囲に限って言えば、良いものもたくさんある。

しかし、本質を捉え直した上で、ゲームとは何か、これからゲームはどこへ向かうのか、そういったことを本気で議論できていると思われるレビューは、あまり見たことがない。

別に、体系的、アカデミックな学問知識に基づいていれば良いと言いたいのでもない。そういう「お勉強」の延長にある学問かぶれのサブカル論みたいなものもたくさん見かけるが、目新しさを含んでいることは少ない。

ゲームというのは、正直、映像そのものの要素と、ADVゲームなどに見られる純粋なストーリー要素と、操作そのものの楽しさに関わるアクション要素と、様々な要素が複雑に散りばめられたものであり、単純な映像作品と比べてデザインの幅がとても広い。

これからの文化表現物としては、僕は、疑いようもなくゲームがその最前線を走るはずだと確信している。いまスタンダードとされているレベルのゲームをネイティブに経験して育つ世代は、いまあるゲームの向こう側を体感しているはずだ。僕達がかつてファミコンをプレイしながら、いまあるようなゲームの形を「未来」として想像したように。彼らの中から新しいものが育ってくるだろう。

問題提起しておきたいのは、これまでの文脈で評価の高いゲームを作ってきたことが、そのままこれからの文脈において実績になる保証がないということだ。物事の成熟には段階があり、混沌とした初期に活躍する才能、方向性が固まってきた成長期に活躍する才能、行き詰まりを打破する才能、その他各段階に求められる才能は異なる。スポーツでも、理論のない初期の状況で活躍する汎用性の高さゆえの才能と、トレーニング方法から何から全てが理論化されてから活躍する突き抜けた特化型の才能は、たぶん異なる。

大いに反発を受けるだろうが、僕は現時点での小島秀夫さんの作ったこのゲームを、面白いと全く思わなかった。世間の評判を聞いてとてもとても楽しみにしていて満を持してプレイした『デスストランディング』が、あまりにも平凡で、演出が古臭く、冗長で、苦痛で、楽しみにしていただけに心の底からがっかりした。

決して駄作ではなく、現状の水準で見るなら非常に完成度の高いゲームだったのだろうと思う。最後まではプレイできなかったので断言はしない。でも、これからのゲームの「未来」を感じられるような要素は、何一つなかった。あくまで「過去」の総決算である。

正直な話、僕ががっかりしたのはあまりに期待をぶつけ過ぎた結果であり、おそらく不公平な評価でもあると思う。しかし、小島秀夫さんという方がゲームの可能性を切り拓くクリエイターであるという一般の共通認識がある以上、そこは強く論じる必要がある。

『デスストランディング』は、マニアックな配達シミュレーターであって、ゲームではない。そして、演出の悪さにより、世界観への没入にプレイヤー側に強いる負担も大き過ぎる。

ゲーム性の面だが、正直な話、デスストはゲーム以下だ。悪いゲームと言っているのではなくて、そもそもゲームになっていない。あくまで、シミュレーターということだ。いわゆる「おつかいクエスト」はおつかいが手段だが、デスストではおつかいが目的そのものである。その目の付け所だけには賛辞を送りたいが、決定的に面白くない。ファミコンで遊んだ世代の人間なら、ゲームに触れた瞬間の、あの「ワクワク」をもっと大切にして欲しかった。いたずらに複雑で分かりにくいシステムやインターフェイスのせいで、初手の印象が、単純にワクワクより面倒臭さが上回ってしまった。面倒で苦痛でやる気が続かなかった。最初から「小島ゲーム」をやる気満々のモチベを持った人間でないと、続けられない。

ストーリー面については、最後までプレイしていないので何も言う資格はないのだが、操作を止めてじっとムービーを観させるというインタラクティブでない時間があまりに長過ぎるのと、SFにありがちな謎を小出しにするミステリー風の演出が平凡過ぎて、観るに耐えなかった。

要するに、どんでん返しのある面白い「ストーリー展開」を作り、そこに目の付け所がちょっとだけ新しい配達という「題材」をつけたから、「最強」のゲームになったんじゃないか、というゲームである。

ストーリー展開+題材=最強

小島ファンという前提の上でなら、最強のゲームだったのかもしれない。

でも、仮にその面白さがストーリー依存であるなら、それはそもそもゲームである必然性のない作品だし、配達という題材も結局インターフェイスとしてプレイヤーが触れる部分は極めて平凡ないし平凡以下の(不親切な)システムだったし、何より初手触った時の高揚感、ワクワク感が本当に生まれない作品だった。

ゲームは映画とは違う。ゲームはプレイヤーこそが演者であり顧客である。映画監督は立場的に演者にダメ出しできるが、ゲーム制作者は顧客たるプレイヤーにダメ出しなどしてはならない。客に食べ方を強要するうるさい飲食店の時代はもう終わっている。そういう意味で、ゲーム制作者に「監督」という呼称を与えたとして、ゲーム監督の仕事は映画監督の仕事とは全く異なる。映画監督は純粋にクリエイターであるが、ゲーム監督はクリエイター以前に、自らがプレイヤーでなければならない。

小島監督の業績は疑うべくはない。しかし、彼は本当に今の時代にもなお監督として活躍する人材なのだろうか。いまの時代のゲームを本当にプレイヤーとして楽しんでおられるのだろうか。

次回作を見ればきっと結論が出せるだろう。それまでは、いちゲーマーとして、まだ小島監督を応援したい。

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。