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ジェイラボワークショップ第25回『利他とは何だろうか』【基礎教養部】[20220425-0501] #JLWS

J LAB Season4 Workshopのモデルとして僕が担当した回のログです。通常の半分、一週間で行ないました。

僕のこれまでの

の能力主義の連載

とつながる部分が多くあり、それなりに示唆に富んだ内容になっていると思います。いつも通り前提知識は不要ですが、決して簡単に読めるものではないと思います。頭を使いながらじっくり読んでいただければ幸いです。

それでは、以下、ログの転載です。50,000字程あります笑 日付ごと、投稿ごとに見出しをつけました。もちろん、参加者全員分の投稿に目を通してもらえた方が空気感が味わえると思いますが、どうしても忙しいという方は、僕からの問いと答え、読み物として閉じて読める部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば僕からのメッセージは伝わるようにしておきました。よろしくどーぞ。


■にしむらもとい

このジェイラボワークショップを始めるにあたり、先週一週間はそもそもこの場をどうするかということを、少し相談させていただきました。少々強引な部分もありましたが、ある程度の方向性は定まったものとして、進めさせてもらいます。
というわけで、もう一週間、しれーっと僕がこのまま引き続いて担当させてもらいます。先週とはまた異なる方向性のお話になるかと思います。専門的な学びというのではなく、僕自身が昨年度から向き合っている能力主義の乗り越えのために考えていることの導入部分を、この一週間で共有できればと思います。僕自身の考えをお話するターンではありますが、一期一会な良いフィードバックが得られればそれもまた嬉しいことです。

■にしむらもとい

では、これから一週間、更なるウォーミングアップとして一日一問ずつ皆さんに何らかの問いを投げかけ、翌日僕の回答を提示するというサイクルで皆さんに「利他」という概念について考えてみてもらおうと思います。
最終日は問いかけなしで、僕なりのまとめを追加して終了とさせていただきます。
一週間枠ですので、ぱっと議論に参加する練習として気楽に(無理と思いますが笑)使ってもらえればと思います。
この期間は毎日
正午
を僕の回答を提示し次の質問へ移行する区切りとさせてもらいます。正午を過ぎた場合、ご意見いただくのは構いませんが、僕からのリアクションで皆さんの意見を拾うことは間に合わなくなりますのでご了承ください。

Day1 許容度(マージン)がない社会

★にしむらもとい - 問い

導入として、「え?」という、全く関係ないと思われる角度からコーナーへ進入してみようと思います。
利他の対の概念といえば当然利己ですが、更にそれをわかりやすいところで考えてもらうために、一つ話題を置いておきます。政治性がなく、解釈に大きな幅も生まないものを選びました。教育の問題もこの場では先入観がこびりついているので敢えて避けました笑 何でも良かったんですが、直近の話題で「煽り運転」についての動画をたまたま見つけたので貼っておきます。はっきり言って、動画そのものには見るべきところは全くありません。ただ、こうした「動画の存在」とそれに対する「一般的な反応」を総合的に見て、皆さんは何を感じられるでしょうか。あるいは特に何も感じないでしょうか。それを少し聞いてみたいと思います。良かったら、ご自身の言葉で何らか意見を投稿いただけるとありがたいです。深い洞察あるご意見もありがたいですが、素朴な反応、ステレオタイプな反応は、より後の議論をしやすくなるのでそれも大いに助かります笑 僕が何を言おうとしてるのかを想像しよう(当てよう)などと考えず、感じたことありのままを教えてもらえるとありがたいです。まあ、突然こんなわけのわからない動画を見て何か言えとか言われても困ると思いますんで笑 何らか思考を巡らせていただけるだけでも、翌日からの話に繋がると思います。よろしくどーぞ。

当時リンクした動画はその後非公開となったようです。

■けろたん

うへぇという気分になるのをわかってはいたのですが動画、 コメント欄を見て、 やっぱりうへぇとなりました。 以下、 うへぇの内容を分析してみます。
<「動画の存在」とそれに対する「一般的な反応」を総合的に見て感じたこと。>
あおり運転する人の気持ちはわからなくもない。 事故や自分の社会的評判をリスクに取って人を困らせて面白がる心理はわかる。 快感を得る方法が少数派。
あおり運転へ怒る人に納得はしない。 暇つぶしに他のコメントに同調して自分たちが想像可能な範囲の悪を非難するのは娯楽として楽しいのだと予想している。 もっと愉快なコンテンツがあるはずなのになぜわざわざこのような動画をみるのだろう。 コメント内のあおり運転 「解決策」 に対する感想としては、 警察があおり運転対策を強化すると、 他の業務への労働力は減ると思うのだが、 そのトレードオフが気になる。 (自分だったらそれが気になるというだけで、 Youtubeのコメントに整った理屈を期待しているわけではない。)
<分析>
自分が直接的に巻き込まれていない問題でも、 それをネタにした (負の) 感情の連帯を行う人たちがいること自体は事実として認識している。
自分は共感が苦手な上、 運転しないので、 あおり運転よりもリンチにつながる言動の危険性を過大評価している。
これを差し引いても、 自分が第三者である限り、 おかしなことをしている人がいたら、 おかしなことに怒るよりもなぜおかしなことをしているのか考えたほう有益だと思う。
一方で、 素朴な感情がもたらす連帯力を考えると、 多くの社会運動が怒りに駆動されて実際に社会を良い方向に変えてきたので、 怒りがわかないことは個人的には楽で倫理的にも優れているように見えるがマクロには悪い効果を持つ気がしている。 法の理念を身に着けさせるのと比較して、 程度の差はあれ人間に備え付けの仕組みである感情を利用した道徳的統治のほうが、 何らかの観点では社会統治上の利点があるのではないか。 少なくとも、 より人間自体を基礎においたしくみと言える。 自分は戦略的に怒りをパフォーマンスして利用する訓練をしていないので、 今後表に出る機会があれば練習すべきかもしれない笑。 インターネット論破芸に影響された 「論理的」 であることを盲目的に是とみなす文化に食傷気味なので、 一見不合理な感情の合理性に思いを巡らせるのが最近の立場です。
<本題 (能力主義) と関係ない仮説>
あおり運転が社会問題化したのは、 自動車の技術発展による事故防止が飽和した結果、 急激には減らないおかしな運転をする人間が目立つようになったからではないか。
危険が減ったがゆえに、 残っている危険がより目につく現象は、 あおり運転に限らずいたるところにある。
道路交通法によると、 運転中の通話は両手または片手を塞がないものなら (例えばハンズフリー通話など) OKらしい。 となると運転している警察官がトランシーバー的なもので通話しているのはだめなのではないか。
<あおり運転に関連しない思いつき>
まず、 「利他の対の概念といえば当然利己ですが、」 に引っかかりました。 利他と利己が衝突するのは、 総量が決まっているものを取り合うようなシチュエーションに限られるように思います。 利他と利己の定義、 もっと言えば、 どこまでを 「己」 とみなすのか、 が能力主義における大きな問題であるように思うのでコメントしてみました。

  • けろたん
    あおり運転の動画を再生してから、 おすすめに上がってくる動画が一変してビビっています。

  • にしむらもとい
    怒りなどの素朴な感情の合理性についての言及は面白いと思いました。また、技術が整備された結果その余裕によってそれまで目立たなかった要素に意識が集中するという現象も、確かに多少なり適用されているのかもしれません。拡散の手段も整備された結果がこれですからね。「利他の対が利己」という表現で丁寧なツッコミが来るのはさすがです笑 まあ何もそんなゲーム理論のような話がしたかったわけではなく、これも素朴にイメージされる印象を重視して置いただけのお話です。今回準備したお話では、論理的分析よりは発想の部分が重視されてますので、今後も多少引っかかる部分が出てくるかもしれません。その際は適宜ツッコミを入れていただけたらと思います。なお、YouTubeのおすすめを乱してしまい、申し訳ない笑

■ゆーろっぷ

個々の動画の内容に関して思うところはあるかもしれませんが、動画とそれに対する反応とを全体として見る視点に立ったときには、特に感じることがないというのが正直なところです… 良くも悪くも予想しやすいというか、「こういうテーマの動画は娯楽として成立しそうで、それは大体こういう内容で、反応はこんな感じ」ということが大雑把にわかるので、全体として見た時に「まぁそうなるよね」という感じ方くらいしかできません。けろたんさんがやっているような、一連の消費活動の背後にある心理や倫理を分析する、みたいなことに関しては、ぶっちゃけ一々考えるのが面倒になっているかもしれないです。

  • にしむらもとい
    こうした動画に感情のマージンなしに反射で反応する方が大勢いる一方、それを冷ややかに見ている、あるいは冷ややかを通り越して諦め、無関心で通り過ぎる方も結構おられると思います。そういう方からすれば、この場にはもはや「虚しさ」しかないでしょうから、どうでも良いとしか感じないのもわかります。そして、どうでも良いことはどうでも良い方の都合では改善されません。どうでも良いと思わないで動く(動いてしまう)方の意志が反映され、今後もこういう場は良かれ悪しかれ形を変えてゆくのでしょうね。

■Takuma Kogawa

YouTubeという偏った母集団のこのチャンネルの視聴者というサンプルを一般的といってよいかどうかは疑問が残りますが、本筋ではないと思いますのでおいておきます。
映像の感想としては「煽り運転がなくなるといいな」、コメントについては「表現は強いが気持ちはわかる」、総合的には「どうでもいい」です。

動画の存在に焦点を当てると、煽られた側はその苦しさを知ってほしいと思って投稿者に映像を渡したのだと思いますが、なぜ先にメディアではなく副業YouTuberに渡したのかが気になりました。安全運転の啓蒙から離れて、映像が多くの人の目に触れることに力点を置いているようにも思いました。
コメントに焦点を当てると、誰かを敵に見立てているのが多いですね。煽った人や警察が敵認定されています。どうしても被害者目線で映像を見るため仕方ないとは思います。この動画のコメント欄で、煽られた側に問題がある等の「一般的意見」に反するコメントをしたらどうなるのでしょうか?

話はそれますが、ただちに生命の危機に瀕するわけではない煽りについては、私は否定的ではありません。とはいえ執拗に煽られ続けると精神的に参っていずれは生命に影響することが考えられます。法的に制限されない領域をそのまま保つことは難しいだろうと思います。

  • にしむらもとい
    YouTubeという偏った母集団のこのチャンネルの視聴者というサンプルを一般的といってよいかどうか。これも職業柄でしょうか笑、細かいところを丁寧にツッコんでいただいてありがたい限りです。僕が少し言葉足らずだったせいで、「一般的」の定義が互いにハマらなかったようです。そもそもこういう現象は僕はSocial Media特有の現象と感じておりますので、このメディアを離れた場で一般化しようとすると、それはそれで意味が全く変わってしまうと思っております。一応、僕はYouTube以外にもTwitterその他で同様の話題を検索して参考にはしましたが、まあ、全く同じ傾向が認められただけだったりしました笑 おっしゃられているように、動画を撮った行動の動機としては、安全運転の「啓蒙」ではなく感情の共有(快楽)のための「拡散」に重点が置かれていますね。Social Mediaの性質にまんま引っ張られております。これがはたしてSocail Goodであるのかなどの議論も、YouTube黎明期などではかなり議論されたと思いますが、いまとなってはこの手の問題は総合的に「どうでもいい」ものになってしまい、その界隈に固執するものによってのみ回る「分断」された小さな世界に閉じ込められていますね。

■Yujin

僕はよく交通事故のドラレコ映像をまとめた動画を見ます。運転する時に気をつけなければいけないことを学ぶため…ではなく、単純に野次馬気分です。テレビ番組でよくある「衝撃映像!」なんかも好んで見てました。
煽り運転の動画も幾度となく見ました。「煽り運転被害→YouTubeにアップ→ニュース番組で取り上げられる」はもはや定番の流れですね。そのニュース映像がまたYouTubeにアップされて、元動画と同じようなコメントで溢れかえります。
交通事故動画ではよく「煽る奴が悪い」「煽られるような行為をした奴が悪い」論争でウンコを投げ合っています。煽り運転にせよ、コメントでの論争にせよ、皆さん何かに怒りを覚えて攻撃(制裁?)しないとやってられないんでしょうか。誰かを悪者にして攻撃すると気持ち良くなれるのでしょうか。他人をとやかく言う前に、己の心を磨こうと心に誓いながら、いつもコメント欄を眺めています。謙虚になれよということです。

  • にしむらもとい
    匿名の場は、今も昔も、ウンコの投げ合い広場ですね。謙虚になりましょう。

■Hiroto

「警官は完璧でなければならないのだから」という暗黙の前提を共有した論調のコメント欄で、正直げんなりしました。
医者、警察官、教員、、などの有名かつ特殊である種特権的な職種は、叩きの対象になりやすいのではないかと思います。かなりの人がそういった職種の人を「同じ人間である」とはもはや思っておらず、異なる世界の住人であるというように認識をしているのではないでしょうか。元カノが医学生なこともあり、何かあったらすぐヤブ医者だの言う人などに僕は日頃から少し違和感を抱いていたので、こういった感想が一番に出てきたのだろうと分析しました。
見終えて冷静になって思ったのは、「一方の視点からだけで感情的になりすぎじゃない?」ということです。まあ十中八九この動画に関しては煽ってる側が悪質だとは思いますが、この動画に限らずさまざまな事件に対し、偏った情報から意見しがちなように思います。これはかなり言いにくい話題なのですが例を挙げると、梅沢富美男が飯塚幸三をめちゃくちゃに叩いてネットで賞賛されていたことなどは、正直全く理解ができません。あれも十中八九たしかに飯塚がやらかしているのでしょうが、十ではないわけです。被害者が憤るのはわかります。ですがそこの白黒をつけるために裁判があるのであり、その白黒がついていない間に飯塚幸三叩きをするのは本当に傲慢だなと感じざるを得ませんでした。裁判中に叩きすぎると本当に悪かったとしても刑が軽くなったりするので、良いことなしなのではないかなと思うのですが、、。
こういったフラットで客観的で一般的で感情論から一歩引いた意見は、結構な人に嫌がられるのだなということを最近実感しています(東大祝辞の件も然り)。

  • にしむらもとい
    公人とまではいかなくとも「公」の性質を持つ職業の方というのは、概ね一般大衆がウンコを投げつけるのに「良い的」として機能しているようです。真実はわかりませんが、僕からすればこの動画も、運転者の手際が良すぎますので、逆に怪しく感じる部分もあります。敢えて全くの空想話をしますと、もしかしたら煽りの動画が撮りたくて「実は相手に事前に軽い煽りを行なっておいてこの状況を引き出した」という疑いすら持てます。全くの空想です。要するに、想像力の欠如が全ての根源であろうと思います。それは話をどんどんメタに広げてゆくと、「『こうした偏った意見を感情の反応だけで言ってしまう人々』に対して違和感を持つ自分」というのも、場合によって想像力の欠如が協調して意見を拡散する側に回ってしまうと、全く同様の構造を入れ子にしてしまいます。正しさというのはどう扱えば正しいのか。厄介なものです。

  • Hiroto
    最後の入れ子構造に関しては全くもって同様の危惧をしていました(後出しになっちゃいますが笑)。何か大きな発言するときにブレーキがかかるのはこの入れ子への意識があるからかもしれないです。

■蜆一朗

朝寝起きで見たからかまったく感情が動かされませんでした。「これぞYouTube」といった感じですね。強いて言うなら、煽られている方が異常に冷静だなということと、コメント欄での警察官への当たりが強いなということですかね。元教員で今はこういう動画や違法アップロードのヤクザ映画をYouTubeで見て過ごしている親父なんかも「犯罪を犯したら死刑でいい」なんてことをよく言ってます。自分は間違いを犯さないという根拠のない自信に溢れているのかもしれません。親父の名誉のために言っておくと、こういう感覚を持っている人が多数派だと思います。「普通に生きてたらそんなことしようと思わないよね」「俺たち私たちはちゃんと守ってるのに守れないなんて普通ありえないよね」という感覚はわからなくもないですが、それもまた「普通」の人たちが理解できる範囲の「普通」でしかありません。芸能界が薬物に甘くて不倫に厳しいのもそのあたりに原因があるかもしれません。自分たちが偉いと感じる踏み台にするという意図を感じることもなく、ただ純粋に批判しているだけにも見えます。本当に感情を動かされているんだなという気がします。

たとえば、子供を虐待する親が捕まるというニュースを見て、うちの親なんか(再度ディスって申し訳ない)はそのたびに新鮮に悲しんでいます。僕が生きている間だけでも「そんなこと」は飽きるほど起きているし、その倍は生きているはずなのに、普通に起こりうることだという認識にならないのを不思議だなと思っていました。何か事件が起きても「自分が住んでない地域の情報なんかいらんねん」「あそこの交差点でこんなことあってんて、怖いな〜」という感想を持つようです。直接自分が被害を被りうると認識しないかぎり自分ごとだとは思わないのでしょう。

こういう風に、メタ認知(この言葉もまた伝わらない人には伝わらない)が苦手な人は多いと思います。抽象化すること・同一性を見出すこと・客観視すること、これらは恐ろしく難しいことなのだなと日々痛感します。

  • にしむらもとい
    僕も煽られている側が異常に冷静なので何らかの「準備」があったのではないかとすら感じます。「警察」は動画の撮れ高のための単なる道具として利用されている印象ですね。別に電話で警察に助けを求めている様子もないですし、意識的に「視聴者」と感情のベクトルを揃えて共有するために電話しているのかなと感じます。真相はわかりません。そして、結果として視聴者は見事に感情を動かされてゆくわけですね。感情というのは人間を動かすのにかなり大きな力を持っているのは事実と思います。敢えて感情に即時反応をしないメタ訓練をしている者でない限り、感情に訴えかけられることには抗いがたいものがあるのでしょう。それがマーケティングであり、アジテーティングであり、プロパガンダであり、心理学であるわけですね。

■ていりふびに

コメント欄の言葉をみていると、動画の登場人物に会っていないし、詳しく知りもしないのに強気の言葉がよく書けるなと思います。
「~なんだろう」と一応推測の形を取ってるいる文も多いですが、推測でしかないのであれば尚更、強気の言葉を書くことに僕は抵抗があります。

  • にしむらもとい
    コメント欄で実際にコメントをするという行ないにまで至る方というのは、実際に何らか感情を動かされているはずです。それが見聞した内容の側の問題であれば内容に沿った健全なコメントになると思いますが、自分の側の問題で反射的な感情の動きに抗えずに気持ちをぶちまけてしまっている場合、反射であるが故に「想像力」が全く働かない単なる感情の発露ばかりになるのでしょうね。

★にしむらもとい - 答え

では、僕なりの印象をお話ししながら、話を次へつなげていきたいと思います。
僕が何の話をしたかったのかと言いますと、
社会は人の過ちをどこまで許容するものであるべきか
ということです。
もちろんこれは、「煽り運転を許容しよう」という話ではありません笑 煽り運転の問題に対するテクニカルな話はどうでもいいんですが、題材にした責任としてひとことだけお話ししておきますと、「煽り運転」そのものについては社会に明確な「害」がありますので「法的に」罰則を規定して取り締まることは絶対必要であることには同意します。しかし、「感情的に」どこまで取り締まる「べき」なのか。罪を犯したことのない者なら石を投げて良いのか。罪を犯したことのない者などいるのか。罪とは何か。
ついでに言うと、これは「法」の話でもありません。「法」を論じるにおいて社会とは何かが前提とされるのは当然ではありますが、今回の話は、社会とは何であるかを考えるための更に前提のお話だからです。
これが日本人特有の感覚なのかデータを取ったことはないのでわかりませんが、少なくとも日本人にはこの数十年の間、根強い「自己責任論」というのがはびこっていると思います。古くはジャーナリストが紛争地に赴いて武装集団に拉致された際、自己責任論が彼を処刑しました。ここ数年は、新型ワクチンの問題で、自己責任論もかなり拡大的に用いられるようになり、馬鹿は「勝手に死ね」から「勝手なことをするな」というかなり束縛の強いものに変容してきています。Social Mediaによる「連帯」がその動きを加速しているのは疑いようがありません。双方向性がなければ「勝手に死ね」という一方的な宣言にしかならなかったものが、いまではSocial Mediaは「俺たちの邪魔をするな」というかなり強めの利己意識を束ねて実際に他者を束縛するプラットフォームになっています。
何故そんなことになっているかをひとことで言うなら、「一般」のSocial Mediaユーザーのリテラシーが追いついていないからです。もっとはっきり言うと、Social Mediaという場は、コミュニケーションの本質を理解する「能力」の違いが、かなり拡大されて表現される場になっているということです。そして、現実問題、Social Mediaはそもそもリテラシーを育てるための場としてデザインされているわけでもなく、運営者が人の意識の動きをトラフィックとして取り出して「価値」に変換するための場でしかありません。
つまり、Social Mediaというのは、それにどっぷり浸かって使えば使うほどリテラシーが高まるという類のものでは全くない。ツイ廃とはむしろTwitterリテラシーの対義語ですらあるでしょう。Twitterのリテラシーが高い民というのは、総じて異なる文脈でその能力を得ています。そして、その能力が得がたいものであればあるほど、そうした少数民族の声はSocial Media内では響かない。だから、僕はこのコミュニティのような閉じた場でのコミュニケーションによってある程度の共通認識を形成することを初動の布石として重視して活動しているわけですね。
では、我々は今後どのような意識を持って活動すれば良いのか。
上の皆さんのコメント返信の中で何度か使用したと思いますが、基本的には「想像力」を持つことが重要ではあります。別に豊かである必要は全くありません。ほとんどの方は想像力が全く「欠如」していますので、わずかでも「持つ」だけで大きく状況は変わると思います。
では、想像力を持つとはどういうことなのか。結局、そこが実感として自身の心象風景の中に立ち上がってきていなければ、口先で唱えるだけでは、想像力を持つことなど絶対にできません。たとえば、今回題材にしたこの煽り運転の煽り主について、

彼は一体どういう生まれでどういう育ちを経てこのような人間になったのか

百歩譲って、そこまでが多くの方の想像力の限界だと思います。それすら、人によっては考えたくもないことだと思います。もっと酷い、たとえば相手が小児性愛の殺人犯などであれば、そんなこと想像すらしたくもない人がほとんどでしょう。ですから、これを考えられるだけでも、かなり議論は本質的なものになるとは思います。こうした想像力は「法」の議論をするにおいてはテクニカルな面でかなり有益であろうと思います。しかし、僕はもう一歩、抽象(本質)へと踏み込んで考えたいと感じています。

何故自分は彼ではないのか

この想像力が持てる人というのは、少なくとも僕は実際の生活の中で会ったことがありません。正確には、会ったことはあるのかもしれませんが、実生活でこんな話をする機会がないため、そんなことを考えているのかを確認できたことがありません笑
そこまで踏み込んで想像力が持てた場合、更に

責任とは何か

という問題にも踏み込む準備ができたと言えるのだと思います。
自分が自分であること
それは偶然でしかありません。そう、偶然にもたまたま、いま「自分が自分である」ことに責任が発生するのは何故でしょうか。そこで、今度はもう少し抽象化した問いを投げかけてみます。

Day2 偶然と必然、あるいは因果とは何だろうか

★にしむらもとい - 問い

ある日、出会った異性と恋に落ちました。
それは偶然なのか必然なのか。
皆さんは、どちらと解釈しますか。
よろしくどーぞ。

■アンケート

ある日、出会った異性と恋に落ちました。 それは
偶然である    9
@YY 12, @ていりふびに, @あんまん, @ingen, @ゆーろっぷ, @Tsubo@Yujin@Shun@chiffon cake
必然である    9
@チクシュルーブ隕石, @Naokimen@Hiroto, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @コバ, @けろたん, @イスツクエ, @Yuta

■にしむらもとい

さすがに、それをイチから語れというのもハードルが高いので、一応アンケートも置いておきます笑

■チクシュルーブ隕石

僕自身は異性との出会いが多い方ではないのですが、異性との出会いに限らず出会いには何かの必然性があるのではないかと思うようにしています。また同様にして別れもある種の必然性を持っていると考えるようにしています。このように考える理由は単純で、そう考えると相手との関係を大切に思えそうであるという期待感を持っているからです。
ただ僕はそのような出会いを心の底では偶然であるとも同時に考えてます笑。個別個別の事象は偶然であるかもしれないがそれを自分なりの解釈で必然と思うという加工作業みたいなことを脳内でしています。つまり最終的には必然だと思うという事ですね。
ここまで書いて自分でもよくわかんなくなってきましたが、必然と思う事は一種のエゴ(利己的)なのかもしれないですね。

  • にしむらもとい
    必然性があるのではないかと思うようにしている。
    偶然であるかもしれないものを解釈で必然とおもう加工を脳内でしている。
    後で触れますが、この考えは非常に本質的だと思います。

■Hiroto

責任という概念の成立には、「自己の行動は自己が決定している」という前提が必要です。そして現代社会に蔓延る自己責任論を敷衍して考えるなら、恋に落ちたのは自己の歩んできた人生の選択の結果であって、必然と言えるでしょう。

  • にしむらもとい
    自己の歩んできた人生の選択の結果だから必然である。全くその通りだと思います。

■蜆一朗

びっくりするくらい隕石くんと同じ感覚ですw

  • にしむらもとい
    僕も若い頃はこれに近い考え方をしていました。特に女性との出会いについて、誤解を生むかもしれませんが、究極的には僕は相手は誰でも良いと考えていました。いまもあまり変わっていません。たまたまいま出会い、お互いを必要としたその運(縁)を大事にしようとずっと考えて生きてきました。あれ、いま、独り身ですね、僕。あれ。

■Naokimen

物理をやってる影響がかなりあるような気がしますが(そしてこのwsの論点からずれている気しかしないですが笑)、一般に、ある出来事が起こる前まではその出来事を含めて無数の出来事が起こりうる可能性(ゆらぎ)がありその出来事が起こるのは「偶然」といえますが、ある出来事が起こった後はその出来事は過去のことなのでそれは変えられず「確定している」という意味でもはや「偶然」ではないと考えてしまいます。つまり、出来事が起こった瞬間にその出来事は「偶然」→「必然」へと変化するということです。したがって、今回の問いにおける「ある日、出会った異性と恋に落ちました」という出来事はすでに過去に起こったことなので「必然である」と判断しました。

  • にしむらもとい
    絶対食いついてくれると思ってました笑 物理学徒らしい、まさに物理に適った意見だと思います。量子力学コーチ、そろそろなれそうですね笑

■YY 12

隕石君及び蜆さんの考えとちょっと似ているよう気がしますが、僕は「偶然」を選びました。

確かに普段の出会い(異性に限らず)の中で「これは偶然の出会いだ」なんて感覚はありません。意識していませんが、なんだったら「必然」だという感覚で過ごしていると思います。
隕石君は「相手との関係を大切に思えるためにも期待感を持って必然と考える」と書いてましたが、僕の場合は単にそういった出会いが「偶然」であると認識出来ないから、素朴には「必然」という答えに行き着いてしまう気がします。例えば、24人が今ここに集まっているのも「何重もの網目の様な選択の結果」だとすんなり実感として処理できません。
ただ、いくら実感として湧かなくてもやっぱり事実としては「偶然」であるというのがありのままだと思いますし、立ち止まって考えたらそっちに投票していました。
(例外として恋に落ちた相手が目の前にいたら「これは必然だ」と言っちゃう気がします())

  • にしむらもとい
    感覚としては必然が近いけれども、事実としては偶然であるというのがありのままだと思う。
    これもよく理解できます。また後で触れますが、言葉にして伝える時には「必然」と言った方がしっくりくるのにも、一応理由があります。

■Takuma Kogawa

[個人的に好きな説]
すべては神によって決められている。生まれることも、どういう学校に通うかも、ジェイラボに入ることも。だから恋に落ちることもまた必然である。
[もう少しきちんと考える]
生まれた瞬間はそれこそ無限の可能性が広がっており、すべてが偶然に思えます。どこで生まれるか、親がだれであるかは偶然です。しかし、ある程度育って経験値がたまってくると、進む道が唯一ではなくても、どう転んでも進まない道はでてくると思います。遺伝子や環境等の外部要因によって、無限にあった可能性のうちの有限の可能性についてはつぶされていくと思います(数学的にはまだ無限であるという指摘は無視する)。この観点で行くと、例えば私が中学三年生のときに中卒で働く道に行かなかったのは必然だと考えています。
ある人に会うのは偶然の要素が大きいと思います。ジェイラボを知ったきっかけは数学を復習するときに教育系を観るようになり、接点tの動画を観るなどしていたことにあり、GAFAに誘導されてはいるのですが…。「出会って恋に落ちる」かどうかについて、出会った瞬間まで積み重なった一つ一つは偶然の産物かもしれませんが、恋に落ちる要素が沈殿した自分が恋に落ちてしまうのは必然だと思います。ゲーム開始時はどのヒロインも狙うことができますが、選択肢をランダムに選んだとしても行きつく先(good ending or bad ending)はその選択肢を選んだ以上必然なのです。

  • Takuma Kogawa
    責任の話につなげると、煽り運転をすることもある意味では必然だったと言えます。発作的に煽り運転をしたとしても、その発作を起こすための沈殿物が人間をコントロールしているかもしれません。
    重度の精神疾患を患う人が犯罪行為をしても、責任能力がないということで有罪にならないケースが多いと思います。被疑者の「精神疾患」という部分に責任をなすりつけているのです。しかしながら、煽り運転をした人が容疑者となったとき、「沈殿物」に責任をなすりつけて無罪になることはないでしょう。精神疾患であれ沈殿物であれ、その人の肉体がそのように動いた原因がそれら(容疑者がそのように行動させられた原因)であるなら、どちらも有罪かどちらも無罪になるのが自然な理屈です。そうしてしまうと容疑の理由(たとえば煽り運転)の責任をはるか昔の先祖や外部要因にいくらでも転嫁でき、有罪判決など下せなくなります。私は、自分の意志で行動しているのか、自分によって行動させられているのか?行動させられたことに対して私が責任をとるべきなのか?

  • にしむらもとい
    自分の中にたまった時間的な沈殿物が次の行動を決めてゆく。
    偶然と必然の要素をバランスよく取り入れた良い説明ですね。ちなみに、責任の話は、法的なものとそれ以外のものは僕は全く一致しない(方が良い)と思っております。後で少しだけ触れます。

■けろたん

必然に投票しました。
理由はそちらのほうが口説き文句として効果的に使えそうだからです。

  • けろたん
    この感覚は運命観を反映しているはずですので、 分析できたら追記します。

  • にしむらもとい
    運命。そこには偶然も必然も含めようという意図がありますね。というより、「いま」を全面的に肯定するための一つのレトリックなのかもしれません。だから、口説き文句に適しているのでしょう。

■ゆーろっぷ

偶然/必然の解釈は結局定義の問題だと思います。僕は偶然を「理性の外部」として大雑把に認識しているので、恋愛感情などの理性で制御不可能な(これは「抱いてしまうことが避けられない」のであって「対処できない」というわけではない)「欲望」も偶然の産物と捉えています。もちろん、そういう一連の欲望を抱くこと自体も神様だか何だかに決められているのかもしれませんが、結局それを知ることは不可能なので、その辺りを偶然/必然の議論に含めるのはあまり意味がないかなという感じです(それを前提としてあえて議論してみるのもそれはそれで面白いのですが)。
ただし、問題の状況に戻ると、これが「必然」になる状況も想定できる気はします。それはすなわち、「この人に対して自分が恋愛感情を抱くように(自分自身を)誘導する」という判断を「理性的に」下した場合です。対象に(それ自体は偶然の)恋愛感情を抱く目的で、あるいはそれをより強くする目的で、その人と関わり続けることを「(言語的に)考えて」選んだ場合には、全体として「必然」になるのではないか、という感覚があります。

  • にしむらもとい
    偶然を「理性の外部」として大雑把に認識している
    「(言語的に)考えて」選んだ場合には、全体として「必然」になる
    この辺りが、感覚的ながら非常に本質的であると思います。

■Tsubo
「信号や電車が来るタイミングなど自分で制御することができないパラメータによってその出会いは生起した」と僕は思うので,偶然に投票しました.この考えにはサンデルの「能力主義は正義か」で出てた「社会的成功は生まれた家庭の状況とかたまたまの要因が大きいんやで〜〜〜」という主張の影響があると思います

  • Tsubo
    まあ,僕も実際にそうなる場面だと「必然だ!!」って思う気がしますね()人間はなんと都合がいい思考を行う存在なのだろうか…

  • にしむらもとい
    「自分で制御することができないパラメータ」を偶然と感じる。
    非常に自然な感情だと思います。この意見には、かなり多くの方が同意すると思います。

★にしむらもとい - 答え

さて、偶然とは何か、必然とは何かなどという大層なお題について、僕の考えをお話ししていかないといけないわけですが、「こんな風呂敷広げて大丈夫なんか?」と心配されているかもしれません笑 大丈夫です。いつも通り「そうでしかあり得ない」話しかしません。ただ、前提を確認しながらお話しさせていただこうと思いますので、少し長くなると思います。

例として挙げた「恋に落ちる」というシチュエーションは、まあ何でもよかったんですが、問いが抽象的過ぎるので設定を俗にしてみたというだけです。一応そのシチュエーションに沿って少し考えてみましょう。「人と人が出会う」ということと、そこで「感情が動く」ということ、この二つに本質的に大きな違いがあるのか。ないなら、人が何かの現象を認識した時、その現象がどのような複雑な要素で成り立っていようが気にせず必然か偶然かということだけを考えてよいことになります。
多くの方は、「人と人が出会う」のは物理的な確率論の問題であり、「感情が動くかどうか」は確率ではなく体内に蓄積された様々な経験、記憶、そういったものの帰結であると感じると思います。つまり、そこに微妙な差異を認めている人が多いと思います。僕はほとんど違いを感じません。若かりし頃、僕が数学や物理学に熱狂できなかった理由(ことあるごとに記事にしていますのでもう説明しません笑)が、ここでもちょっと関係してきます。
皆さんは、「因果」という概念を極めて素朴に、おそらく一切の疑いを持たずそのまま丸呑みしていると思います。物事には原因があり、原因が結果を導く。そこを疑っている人など、この世に存在するでしょうか。数学は実際の現象から切り離された概念も多く現実的な「因果」の文脈からは距離を取っていると言える気もしますが、数学の一分野である統計学や物理学、その他、その恩恵を利用して発展した工学、医学など、「現象」に紐付いた学問は、極めて素朴に「因果」の存在を認定しています。僕はそこに非常に疑問があります。
言語による記述、論理、それが現象の因果を説明する(している)のか、そんなことわかるわけがなく、「ルールを決めたら(仮定したら)ルール内でルール違反を判定することができる」だけのことでしょう。
これも以前から言っていますが、言語的(≠論理的)に絶対間違いないと言い切れる命題は、トートロジーだけだというのが、子供の頃から変わらない確信です。僕はそれをよく

思考の海抜ゼロ地点

と表現します。
トートロジー(同語反復)という表現を借りるなら、小泉進次郎さんがよくネタとして引用されるタイプの発言を思い出していただければイメージしやすいかもしれません笑

今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。

一般にトートロジーには「中身がない」と言われます。しかし、僕からすると中身が「ある」からこそ、そこに嘘が発生するという認識になっています。もっとも、小泉さんの上の発言の場合は、「今のままではいけない」という前提がそもそも真なのかがわからないので、発言の後半で解釈に大きな揺らぎを与える情報が追加されてはいないという程度の意味で「嘘は少ない」とは言えますが、全体として真なのかはわかりません。
たとえば、

私は私です。そして、日本は日本です。

これなら、どちらも形式的に完全に正しい。そして、より形式的に「中身がない」。
僕が思考を現象に当てはめる時に重視していることは、そのスタートを、この中身がない「海抜ゼロ地点」におくことです。思考をするとは、情報を様々な基準において構造化するということであり、構造化というのは恣意すなわち意志の反映であり、意志とは偏見の別名です。偏見のない意志などあり得ません。

ようやく、スタートラインに立ちました。では、現象の「因果」とは何でしょうか。それは、あらゆる解釈の幅を考慮してなおここに断言しますが、「言葉」を超えた範囲を持ちません。この話はおそらく数学などにも大きく影響する話だと思いますが、ともかく、「因果というルール」が現実に存在して世界を支配しているということは、絶対にありません。それは僕という個人の妄想でも何でもなく、言語的に断言できることです。世界(宇宙)を支配しているルールのような「何か」はおそらくあるとは思います(あるということがどういうことかすら我々にはわかりません)。我々が科学でやっていることは、その片鱗を因果として(数式で)言語的に記述する遊びだと思います。どのみちそんな究極ルール(繰り返すとそれがルールという概念に当てはまるものなのかすらわかりません)なんてものは我々には認識できないので、どうでも良いことです。我々が「因果」と呼んでいるものは、言語で現象を記述するという行ないを発明した結果生まれた、ただの概念です。「概念形成できる言語をコミュニケーション手段として用いる生き物」以外に因果を感じて生きている生き物はいません。そんなことわからない? いいえ、我々は幼児期にそれを経験しています。幼児期の我々は、因果など感じてもいなかったはずです。いや、そんなことはない、覚えてはいないが感じていたかもしれないじゃないか! いいえ、むしろ、覚えていない(記憶もできていない)ということこそが、まさに幼児期にはその概念を持っていなかったことの証拠であろうと思います。
つまり、「因果」とは言語(もちろん数式も含む)なしには存在しない「概念」だということです。犬や猫に(おそらく概念言語はないのでその仮定においては)因果は存在しません。少なくとも、犬や猫が我々ヒトと同じ意味での因果を感じていることはないと思います。「そういう」話であるなら、冒頭で提示した恋に落ちるという現象について

「人と人が出会う」ということと、そこで「感情が動く」ということ、この二つに本質的に大きな違いがあるのか

という問いへの答えは、

違いはない

ということになります。
因果は「言語」を介してそれを認識しようとした瞬間に現れるものであり、言語を介すまでは存在しないものです。これが「海抜ゼロ地点」です。
つまり、何らかの確率現象を言語(数式)で認識した瞬間、それらは全て因果を含んだ現象として立ち現われることになります。因果を含んだ現象とは何か。それが「必然」です。ということは、言語で認識しないならその現象は「偶然」の範疇ということです。偶然か必然かは定義の問題であり、解釈の問題であるというのが一般的な意見かと思います。僕はそうは思いません。言語化される前のモヤモヤしたカタマリとしての「偶然」と、言語化した後の固定された概念としての「必然」。そのどちらも、本来はあらゆる現象に対して適用し得るもので、その線引きは言語化を経ているかどうかだけです。その線引きが認識されていないため、言語使用者のさじ加減だけで偶然と必然という言葉が好き勝手な定義で用いられています。もちろん、それがまかり通っているということは、僕の用法よりそのような「一般の用法」の方が自然だということではあります。これは、多数派とは何かというまた別な議論になりますので、今回は立ち入りません。
少し長くなりましたんで、まとめておきましょう。
今回問うた

ある日、出会った異性と恋に落ちる
これは偶然なのか必然なのか

この問いの答えは、

言語で答える限りにおいては「必然」である

ということになります。
すなわち、もし「偶然」だと主張したければ、語ってはいけないことになります笑
それは、この現象が「偶然ではない」という意味ではありません。みなさんがそれを黙って受け入れるのなら、きっとそれは偶然なのでしょう。しかし、それを偶然だと声高に主張すればするほど、言語的に嘘が積み重ねられていってしまう。ここでの僕の主張はそういう意図です。そして、語れば語るほどドツボにはまるという、この「語りが生み出すオートマティックな矛盾」というのは、現代社会の問題のかなり深部をえぐる切り口であろうと感じています。
ちなみに、

責任とは何か

という問いに少し触れましたが、まだここに突っ込むには準備が不足しています。責任というのは、端的には、法的な責任と、法ではカテゴライズできない<責任>があると思います。法的責任については、明確に現象には「因果」が存在するという仮定に基づいており、現代社会の構造に初めから組み込まれています。ですから、これを認めずに生きてゆくことは不可能で、僕も、いま<責任>について考えたいと思いながらも、日々「法的責任」も背負って生きざるを得ません。「法的責任」とは脳の問題であり、そこで拾いきれていない<責任>は身体の問題だと思います。いま、偶然必然の問題が言語の問題であるということを一つクリアしました。責任が必然から生まれているという認識が確定したかもしれません。それが法的責任。しかし、もう一つ、この言語以前の身体(偶然)が一体何を背負っているのか。その<責任>について考えること。それが、行き過ぎた効率化(脳化)社会における様々な問題の切り口になると思います。それはまた準備が整った時にお話できればと思います。
今回は、一週間と、期間が短いので、ともかく「利他」というテーマに一刻も早く着地しなければなりません。もういい加減、ワードだけでも出しちゃおうと思います。

Day3 利他を人間の行動規範にできるか

★にしむらもとい - 問い

というわけで、以下アンケートを配置しておきます。利他を人間の行動規範にできるか。アンケート回答後、良かったら追加で意見を投稿いただけると嬉しいです。また、この空間だと「利他」という言葉の定義でいろいろ出てくる気もしますが、素朴に「行動の結果が主体以外の人に利する」という程度の意味で使っております。定義にこだわりのある方はその辺もご意見いただければ参考にさせてもらいます。

■アンケート

「利他」を人間の行動規範にすることは
理に適っている    2
@けろたん, @chiffon cake
理に適っていない    4
@Takuma Kogawa, @チクシュルーブ隕石, @YY 12, @コバ
理を超えている(わからない)    9
@イヤープラグさざなみ, @Hiroto@Naokimen, @ゆーろっぷ, @イスツクエ, @蜆一朗, @ていりふびに, @Yujin@Shun

■にしむらもとい

もしアンケートが難しければ、わからないに投票して「利他」って何だろうというフワフワした意見を投稿いただいても良いです。

■チクシュルーブ隕石

僕は利他が理に適っていないに投票しました。このように投票したのは利他という言葉の奥にある利己の存在がどうしても消すことができないと考えているからです。
『情けは人のためならず』という諺があります。よく意味を誤解されがちですがこの諺では情けをかけることを推奨しておりその帰結として自分にいいことがあるよというように結んでいます。しかしこの途中に相手に情けをかけて助けるという利他的な考えを経由しています。このように利他の中に利己の成分が存在しているのと同時に利己の中にも利他の成分が入り込んでいるため、利他的である事のみを行動規範にするのは理に適っていないと考えました。
また所長が仰っていた『語りが生み出すオートマティックな矛盾』は利他にも言えると思います。先ほど語った利他と利己の関係を踏まえて考えると、自らが利他を大切にしていると語れば語るほど利己を大切にしていると主張している事と同値であるために利他的であると語る事は意味を為さないと思います。
以上の事を踏まえて利他的である事のみを人間の行動規範にすることは意味を為さず理に適っていないと考えました。

  • にしむらもとい
    利他的である事のみを人間の行動規範にすることは意味を為さず理に適っていない
    僕の問いよりもちょっと条件をキツく縛りましたね笑 この議論だと、「利己成分が入ることが利他の意味を失わせる」のかという新たな視点を持ち出す必要が出てきますね。ただ、それはそれとして、
    言葉の奥にある利己の存在がどうしても消すことができない
    というのは、今の議論の流れ通りの素直な感覚であろうと思います。

■イヤープラグさざなみ

利「他」を考える際に、結局は自分のことだけを考えてしまう(そうせざるを得ない)ところが面白いと思います。自分のことだけを考えてしまうというのには二つの意味があって、一つは「見返り」を求めてしまうということ、もう一つは、相手のために何かをしようと思ったときに、自分は他人になれないから、「自分が相手の立場だったら」と想像する他ないということです。後者の方を突き詰めていくと、利他の考えは結局自分を大事にすることに直結するのではないかと思います。他の方の意見も読みながら、また何か思いつけば投稿します。
(追記)
「見返り」の話はどうでもいいような気がしてきた。

  • にしむらもとい
    相手のために何かをしようと思ったときに、自分は他人になれないから、「自分が相手の立場だったら」と想像する他ない
    というところが、かなり本質的であろうと思います。

■ゆーろっぷ

今までの議論を振り返ってぼんやりと考えてみると、「利他」というものは「偶然」の範疇ではないかなという気がしてきます。所長はどこかの記事で「善とは偶然の別名である」という趣旨のことを述べていたと記憶していますが、そのように言い換えることもできますかね。「自らが利他を大切にしていると語れば語るほど利己を大切にしていると主張している事と同値である」と隕石君も述べていますが、これは逆説的に「利他」という概念の輪郭を浮き彫りにさせる、非常に鋭い指摘だと思います。「利他」というものは、語った瞬間に矛盾した「利己」になってしまう、原理的に言語化不可能なものなのだと結論づけることができるのではないでしょうか。
このような「利他」を人間の行動規範にするということ。「利他」が言語的に語り得ぬものであるならば、それを行動規範にするなんてことは「理(言語)」というものを、文字通り超えているのではないかと思います。…と言いつつも、それが(身体的な感覚として)どういうことかはよく分からないので、「理を超えている」と「わからない」のどちらの意味も込めて、3番を選びました。

  • にしむらもとい
    「利他」というものは「偶然」の範疇ではないか
    これは、9割正解だと思います。確かに、僕自身これまでそのような発言をあちらこちらでしていたと思いますので、僕の記事を丁寧に読んでくれている方には大体バレていた話であるかもしれません。以下もう少し踏み込んで新たな視点を追加してお話しいたします。なお、ここでも隕石くんと同様に、利己と利他は並び立たないというような論法が為されていましたが、僕はちょっと違う角度でお話をしようと思っております。そもそも利己と利他はカテゴリそのものが違うのだと思います。

★にしむらもとい - 答え

社会の許容度の問題、偶然と必然の定義の問題に触れ、いよいよ「利他」の話に入りました。「流れ」は、なんとなく感じていただけているでしょうか。僕なりに道筋を準備して進めているつもりなんですが……。
そしてまた一つ、脱線から始めましょう。

「利他」とは何かを考える。

そんなことが一体何かの役に立つのでしょうか。役に立つ立たないで言えば、今回の話は僕の話にしては、実は割と役に立つ方ではあると思います笑 ただ、そもそも、

利他なんてものは「考える」より「した」方が話が早いのではないか。

哲学的思考というのは、常にそういう批判に晒されます。しかし、そこで安易にアンガージュマン(コミットメント)のような余所者の言葉を借りてきて「やっている」ふりをすることの方が無意味です。哲学的思考とは、敢えてエクストリームな状況を想定して突き詰めてこそ、その価値が浮き彫りとなり、活きてくる類のものです。普段は意識せずに何事もなく生きてゆけているとしても、性能や機能の限界や本質を正確に線引きして把握しておくことは、我々の心構えに影響します。
では、本題に入りましょう。上のレスの中で

利己と利他はカテゴリが違う

と述べましたが、その説明から入ります。

利己の概念をそのまま他者に転写すれば利他になるのか。

そうではないと思います。利他というのは、単に他者に利益を分配するという意味ではありません。だから、ゲーム理論のような話でどうにかなる問題ではないと思います。利益の分配は、結局のところ単なる複数の「利己」パラメータの調整であり、そこに「利他」の要素はありません。もしも、「富の分配を最適化する」という定量的な目的を利他と呼ぶのであれば、その意味での利他は、人間の行動規範として理に適った(機能し得る)ものにはなると思います。しかし、僕がいま意図している利他は違ったものです。
では、僕がここで言及している利他とは一体何なのか。
いま自分の人生を振り返るに、僕にとって、「利己と利他」という概念はどんなときも終始つきまとい続けてきた難題でした。

利他をしようとしても利己になってしまう。

それがまずスタートでした。

じゃあ、いっそ利己に振り切れば利他にもつながるだろうか。

それは全くの酷い勘違いでした。

全ては、利他という概念を利己の演繹で済まそうとしているところから始まっています。そもそも「利」とは何でしょう。自分にとっての「利」は自分にとっては明白です。自分の「快につながる」ものは全て「利」でしょう。そして、それは目に見える「利益」だけとは限りません。そう、何も利は目に見えるものとは限らないというのが、利己と利他の間の決定的な溝の原因だと思います。上のレスの中にもありましたが、何が相手にとって「利」なのかは

自分は他人になれないから、「自分が相手の立場だったら」と想像する他ない

わけですが、想像である以上、永遠にそれが他者に利しているのか確定できません。そう、

自分が相手のために何かを行なうことがそっくりそのまま利他なのではない

というのが、まず決定的な真実だと思います。この真実に気づいた時、僕はもう実質として利他など放棄するしかないのではないかと感じたものです。しかし、放棄するとかしないとか、実はそういうことすら成り立たない、「そもそものカテゴリの誤認」であることにも気づきました。
これは、先の「必然とは何か」という議論が深く関係してきます。我々は言語で何かを認識した時に、そこに因果を感じ、意味を感じます。我々が(他者のために)何かをした瞬間の因果の最前線は「我々の行ない」です。それがその後どこへ波及してゆくのか、その時点では因果(の認識)はまだ発生していません。もちろん、様々な経験知、統計などにより未来予測は立つかもしれませんが、予測は因果ではありません。つまり、我々は自らの行ないが他者に利すること(因果)をそもそも目的にはできないはずです。因果とは全て結果論であり目的にはなり得ないはずです。では、そのまま同様の議論で利他もあり得ないのか。

いいえ。

ただし利他を認識するためには「時間は過去から未来へ流れる」という、科学に捏造された「常識」を反転させる必要があります。
利他とは他者が利を得ることです。その利はその他者にしかわからないものです。つまり、その他者が利を認識した瞬間に、(おそらく)利他が始まります。利他というのは、誰かのその原行動から時間的にも空間的にも断絶して発生します。たまたま原行動に接近した時空で利他が起こることもあり得ると思いますが、直接因果が接続して起きたことを意味するものではありません。僕がいま時間を反転させる必要があると述べたのはこういう意味です。

誰かが誰かの行ないの結果に「利」を感じることが利他である。
利他が生じた瞬間、過去の誰かの行ないとの間に接続が発生し因果が生じる。

そういうことでしょう。

我々の行ないが、いつかどこかの誰かに利することは偶然である。
我々が得る利が、あの日あの場所のあの人のおかげであることは必然である。

しかし、現代人のほとんど(全員)がこれを逆に捉えています。

我々の能動的な行ないは、狙って誰かに利することができる。
我々が受動的に得る利というのは、単に運によるものである。

いかがでしょうか。以前から、運や偶然必然についてはいろいろと記事にして語ってはきましたが、今回のタイミングで、「能力主義」と関連させて議論しやすい形に変形して切り出しました。
行動がその動作主体の利を目的とすることは、完全に理に適っています。しかし、他者の利という「因果の外」にあるものを行動の目的、規範に据えることは、「原理的に不可能」ということです。これは「理に適っていない」のか「理を超えている」のか、なかなか判断が難しいところです。たぶんどちらとも言えるのでしょう。

他者に利を与える(と自らが信じる)行為が、即、利他として成立するわけではない
自身の行動から他者の利の方向への接続には時空の断絶がある
自身の利から因果を辿れば自動的に他者(の過去の行動)へ接続される

引き合いに出すか迷っていたんですが、出しましょうか。以前、「贈与」について述べた本がワークショップで取り上げられたことがあるんですが、アレは僕には強烈な違和感がありました。非常にネガティブな、堪え難い違和感です。

アンサングヒーロー

「ヒーローなんてものは必要ない」ということを、こうした言い回しで「語る(歌う)」こと、贈与の価値を商業出版で売り上げることの、とてつもなく大きな矛盾、僕が前半で語った違和感がまんまそこにありました。
参考までに触れておきますが、贈与というのは明確に利己だと思います。与える側がその行ないに明確な目的を持っているからです。その行ないの「意図がどこにあるとかないとか」の問題ではありません。与えると受け取る。これが時空間的に接続しています。だから利己です。良い悪いではなく、そういうものです。利他の原理は違います。

利他が発生するのは相手が利を受け取ったと「感じた」時であり、行動を起こす側からの接続がありません。後に相手がその行動に利を感じて、仮に行動を起こした側に感謝の意を伝えてきたとしても、我々はそれ(相手が利を感じていること)が真実であることを知ることすらできません。これが空間的な断絶。

そして、相手がその利を受け取る(認識する)のは、実際にはその直後かもしれないし、一日後かもしれないし、下手をすると1年後、5年後ということもあり得るでしょう。究極的には、そう、行動の主体であった自分の死後になって、巡り巡ってどこかで利他が発生することだって十分あり得ます。これが時間的な断絶。

この意味での利他は、本当に利己とは全く原理が違います。
この流れを説明したおかげで、できる話がまた一つ増えました。
皆さんは死者を尊ぶ気持ちを持っているでしょうか。

人は何故死者を弔うのでしょうか。

死者の弔い、それはすなわち利他のお返しの心のことなのでしょう。
まさにその人自身にお世話になったから、その個人限定でお返しをするのではありません。その個人(故人)限定でのお返しの心、それはむしろ利己であり、死者の冒涜に近いものです。
自身が受けた利他のお返しの心、これを究極まで一般化(広義解釈)すれば、あらゆる個を超え、全ての死者を弔う、尊びの眼差しへと変換されるはずです。断絶した時空への感謝だからです。生者ではないところに重要性があると思います。生者を尊ぶと、生者には自身が含まれますから、また矛盾が発生します笑
今度は逆を考えましょう。利他を行なった我々がそのお返しの心を受け取るのは、究極的には「死後」ということになります。自らの行動が利他を生んだとしても、それを一般化してしまえば見返りとして期待されるものはせいぜい「死後に弔ってもらえる」ことくらいです。
どうでしょう、これは生きている間の自身の行動を束縛する規範になるでしょうか。
少なくとも、「凡夫」たる僕には無理ですね。
利他は、空間を超えることよりも、人の死、世代、時間を飛び越えるという要素により、やはり現世での行動規範にはなり得ないように思います。
SDGsその他の「良いことやってますアピール」や「利他が自身の行動を合理化し得る」という論理は、これまでの議論に照らし合わせれば、見事に破綻しています。これらは、他者の利を勝手に決めて(無理矢理因果を前方から接続して考えて)いるという意味で、単なる利己の複合体です。 

Day4 自力と他力

★にしむらもとい - 問い

そんなわけで、利他は我々の生きる目的にはならないということになります。我々は利他を目的として生きなくても良いのです。

良かった!笑

しかし、だからと言って、無限に利己的であって良いのでしょうか。
利己を許容して拡大することで、「自己責任論」というものが生まれます。「能力主義」もほぼ同義です。利他の概念に関しては言いたいことは大体言い尽くしましたので、ここからは派生の話をしたいと思います。自己責任論という話を、いまぶり返しましたが、自己責任論の真逆に近い感覚を、実は我々日本人は知っています。親鸞でお馴染みの「悪人正機説」です。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

親鸞の弟子(一般には唯円とされているようです)が書いたとされる『歎異抄』の一節です。ちなみに、この『歎異抄』の有名な一節ですが、親鸞自著の『教行信証』では微妙に解釈が異なるようで、個人的には最近そちらの方が気になっています。
話を戻しますが、何にせよ、これは宗教としての「救い」の話ですので、いまの文脈にそのまま適用できるわけではありません。しかし、この視点は大きなヒントをくれると思います。深入りはせず、発想だけを拝借して議論に取り入れてみましょう。
皆さんは自分の人生は自力でコントロールしたいと感じますか。それとも他力でコントロールされていることを受け入れますか。以下、アンケートに「率直に」回答いただけると助かります。

■アンケート

自分の人生をコントロールしているものは自力か他力か。
自力である    1
@けろたん
他力である    10
@Takuma Kogawa, @イヤープラグさざなみ, @Yujin@Hiroto, @イスツクエ, @YY 12, @ゆーろっぷ, @Tsubo, @シト, @コバ
どちらとも言えない    6
@Naokimen, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @ていりふびに, @chiffon cake, @Makimoto Daiki

■にしむらもとい

アンケート、「自力」と答えた人が一人もいませんでした。さすがに誘導が行き過ぎたかもしれません笑 もっとも、こうして誘導されていることが、やはり「他力」なのだということなのかもしれません。自国の宗教家を持ち出して他力なんぞの話をいたしますと、さすがに腐っても日本人、愛国心とまでは言いませんが、一定の共感はあるようです。

★にしむらもとい - 答え

さて、もちろん、僕も「人生とは自力ではなく他力なのだろう」という実感を持っています。ただ、「本願」とか「救済」とか言い始めますと、僕もなにやらちょっとわからなくなってきます。宗教の教義というものは、人生をよりよく捉え直して生き抜くための一種のライフハックみたいなものです。それが唯一の帰結としての真実であるというより、そう信じれば生きやすくなるならそうすれば良いという意味での真実です。そして、それは時に教義外のものを排斥するという意志を外側に生み出して一人歩きします。そんな恐ろしい教義がたくさんある中では、この「他力本願」という教義はかなり開かれた普遍性の高いものだとは思います。
しかし、正直なところ、僕は別に死後救われたいという願望があるわけでもなく、神様や仏様への信心なども全くありません。他力を本願としていれば、阿弥陀如来様はそんな僕すらも包み込んでくださるというなら、ありがたい限りではあります。

悪人正機説

このアイデアについて少しだけ検討してみましょう。もちろん、宗教としての解釈の話ではありません。このアイデアがどの程度の意味の広がりを持っているのか検討することが、いま考えている能力主義の問題点を浮き彫りにしてくれます。

善人(面してるやつ)だって救われるんだから、悪人はなお救われる。

ちょっと偏見で解釈を足しましたが、これはどういうことかおわかりでしょうか。また、これを逆手にとった「悪いことをすればするだけ救われる」という開き直りも、良くないこととされていて「本願ぼこり」と言われているそうです。それはそうですね笑 悪い方が良い。そんなバカな話はありません。では、そういう人はどう扱えば良いのか。正直、論理的にはこれはガバガバ理論だとは思います笑 しかしまあ、宗教ですから、さすがにその辺のことは論理的にがっちり詰めるというよりは事後の解釈でどうにか教えを維持しているようです。また、ここでの善人とは何かについて、僕はちょっとキツめに「善人面」と表現しましたが、それは行き過ぎかもしれません。もう少しユルく表現しますと、「自力作善」を為している人、程度を指していると思います。一見他力を頼むからこそ念仏を唱えて救われようとしている人でも、実際の心の中では、念仏を唱える自分の努力によって阿弥陀如来へ想いを届けようと考えている。そんな人は、他力を頼りきっていないということになるようです。
上のアンケートにおいても、他力の選択肢を選んでくれた人は、確かにそう感じてくれていたのだとは思います。しかし、人生が他力であることが、本当にその人の身体的実感として感じられているのかは、まだわかりません。何故かというと、「他力」というのも所詮言葉だからです。むしろ、

「わからない」と回答してくれた人こそが、実は人生が他力であることの強い実感者である

かもしれません笑 この辺が、様々な場面で僕がいつも登場させる「言語的な矛盾」に近い感覚だったりします。もちろん、他力と答えてくれた方は率直にそう感じてくれているのだと思いますし、僕も自分の人生は「おそらく」他力なのだろうと感じています。
宗教としてではなく、哲学として「他力思想」とは何かを考えたとき、それは「答えがない」ということに尽きると思います。論理的な命題に対する「解なし」ではありません。答えがあるのかないのかもわからない。そして、そもそもわからないのかどうかもわからない。何も言えない。そういう圧倒的な絶望。僕の中での「他力」はそうした「絶望」の言い換えです。その絶望を「救い」と捉えれば、そこに宗教が成立するというだけです。
一体、僕はなぜ今このような話をしているのでしょうか笑 もともとは、いまの時代の能力主義的な、あるいは自己責任論的な価値観をどう乗り越えるのかという話がしたかったわけです。それと他力思想に一体何の関係があるのか。
僕がいまこの段階で実感として伝えたかったことは、先に表現した「圧倒的絶望」です。「語り」がオートマティックにどんどん矛盾を量産し、世界を塗りつぶしてゆく。何故それがこんなにも広くまかり通っているかというと、

その行ないを自制するためのブレーキ、メタ視点を、おそらくヒトは「生まれながらには」持っていない

からです。しかし、言語(虚構)を発明して以来、我々ヒトは、自分たちをただひたすらに徹底的に言語(虚構)でがんじがらめに縛って生きています。時にその糸が絡まり結び目を作っても、それをほどく動機というのはなかなか見直されることがありません。絡まった糸に足元をすくわれたなら、「悪いのは足をすくわれて躓いた人間である」というのが自己責任論でしょう。法とはもちろん、虚構です。すなわち、自己責任論がはびこる現代社会とは、法治国家の限界点でもあるのだろうと思います。
僕自身、何が最善なのかなんて自分に判断できるとも思っておりません。ただ、少なくともそれを見直す機会くらいは作られて然るべきだろうとは感じております。複雑にこんがらがった糸(意図)を、一度立ち止まってほどいてみる。そんな機会くらいはあっても良いのではないでしょうか。そのために必要なことは、圧倒的絶望(他力)を感じることだと思います。我々が、たまたま自分の身体をもって、各々が我々であること。そこに責任はあるのでしょうか。責任とはもちろん、虚構です。言語無くして責任などあるはずがありません。ですから、法では規定できない、この身が背負うべき、責任とは違う「責任のような何か」を表現する手段は、言語ではないはずです。

それすらも全て言語で共有しようという「感覚」が社会をおかしくしています。

これは、正確には感覚ではなく脳内に生じた「概念」ですが、それが何であるかが意識されていないという意味で、敢えて感覚という語を当てておきます。
この感覚が誤認であることに気付かない限り、我々ヒトはもうオウムガイのように進化の袋小路に入るしかないと思います。その気付きのために必要なことが、圧倒的絶望だと思います。Social Mediaは有限な規則内でデザインされた人口の箱庭であるため、そこで宇宙、神、仏、他力、そういったものを感じることはありません。Social Mediaの利便性は重々承知していますが、むしろその技術的なアップデートのためにも、ヒトは、ありのままの宇宙、世界と触れ合うためのNatural Mediaとの接点を部分的であれ取り戻す必要があります。これは、「文明を投げ捨てよ」という原始回帰ではありません。「文明を再構築しよう」という進歩のためのアイデアです。
皆さんは、これまでの人生において、「正しく」絶望して生きてこられたでしょうか。その経験なくしては、いくら行き詰まった資本主義の課題をテクニカルに追求しようと、経済学がいかに虚構に満ちた学問であるかを主張しようと、総体としての我々ヒトに、いまのあまりにも便利な世の中をわざわざひっくり返す「動機」など生まれ得ません。
我々が前に歩を進めること。その行動自体は「惰性」です。「惰性」こそが「進歩」の別名です。人生とはそのほとんどが惰性です。それが真実です。ただし、ごく稀に、躓いて転倒などしてしまった時は、惰性以外のものが求められるはずです。躓いた時には、気持ちを新たにして再び立ち上がらねば、ただ惰性で歩くことすらできません。
今日の我々は、本当に日々、進歩しているのでしょうか。進歩とは何なのでしょうか。

Day5 時制

★にしむらもとい - 問い

「進歩」という概念について納得するために、少し脱線して我々の生活と時間認識の関係について考えてみたいと思います。過去、現在、未来、我々は何を重視して生きているのでしょうか。以下、アンケートを置いておきます。

■アンケート

現代社会において最も重要視されている時制は何だと思いますか?
過去    6
@YY 12, @ゆーろっぷ, @イヤープラグさざなみ, @Hiroto@Makimoto Daiki, @コバ
現在    8
@チクシュルーブ隕石, @Naokimen@chiffon cake, @蜆一朗, @イスツクエ, @Shun@Yuta@Yujin
未来    3
@Takuma Kogawa, @けろたん, @Tsubo

■にしむらもとい

ついでに、そう思う理由をふわふわっと書いといてもらえますと助かります。

■蜆一朗

学歴にしてもフォロワー数等にしても、過去に積み上げてきたことが何らかの形で発露した人が注目されることが多いと思います。一瞬過去に投票したのはパッとそのことが頭に浮かんだからです。

YouTubeやSNSなどでそういったことがかなり評価されるためか感覚が狂ってきてますが、過去の実績は認めるとして「それで今あなたは何ができるの?」と思うのが大多数派の感覚なのではないかと思います。未来がよりよくなればいいとは思っても、そのために今できることは今頑張るしかないわけで、結局は今が1番なのかなと素朴に思いました。 

  • にしむらもとい
    未来がよりよくなればいいとは思っても、そのために今できることは今頑張るしかない
    置かれた環境も含めた「視野の狭さ」により、目の届く範囲のことしかできない。善い悪いではなく、それが多くの方の現状だろうとは、僕も思います。

■Takuma Kogawa

いまがよければいいという考えをたまに目にしますが、積極的にそう考えているのか(現在を最重要視しているのか)は疑問です。たとえば貧困によって今生きるので精一杯の立場であっても、死なないために今を重視せざるを得ないだけで、一時的に過去や未来を相対的に低い順位においているだけではないかと思います。
社会全体はおいておき人間関係や経済活動については、現在は重要視されない項目だと思います。誰かと仲良くなるとき、「今が楽しい」感覚がありつつも、計算が働いているなら現在以外も考えてはいるはずです。採用面接は現在ではなく過去のふるまいから未来を測ろうとしていますし、経済は「将来の見通し」をもとにスマホを開発したり株式投資をしていると思います。今がんばるのは現在の状況のためですか?>>しじみさん

  • 蜆一朗
    未来に向けて頑張ることができるのは、未来に対してある程度信頼が置けるから、頑張ることでうまく行く可能性を少しでも感じているからではないかと思います。今を重視せざるを得ない、あるいは未来に向けて頑張るという視野の持てない僕のような人も少なくはないのかなと感じています。おそらく目の前を生きるだけで手いっぱいな人が想像以上に多くいるんだと思います。
    僕自身に経験がないため想像の範疇を超えませんが、例えば浪人を繰り返す人はこのような心理状況なのではないかと感じます。「可能性が低いからこそ頑張らないと」と感じられる人は、学力以外のところで精神の拠り所や自己肯定感を得られているんだろうと思います。大学に行くことに明確な動機が持てなかったり、勉強しても成績が上がる気がしなかったり、受験勉強に向かうための精神的な負担が平均よりも大きかったりする、けど乗り越えないといけない壁はそんなこと言っていてもどうにもならない、未来に向けて頑張ろうにも、克服したい現状が感情的に負い目を感じさせる…と考えているうちに、もう目先の感情を処理するだけで手一杯になるのだと思います。僕もそうですし、教え子の中にもそういう子が多くいました。
    現代社会がという元の質問の意図とは関係なく、僕自身にあまり未来志向がないことや社会経験が少ないことに引っ張られた解答になってしまいました。上に書いたこともこの設問とは的外れですね。ですが、4/29 20:54 時点で学生が全員「過去か現在」に投票していることは社会経験と無関係ではない気もします。

  • にしむらもとい
    「今が楽しい」感覚がありつつも、計算が働いているなら現在以外も考えてはいるはず
    計算というのが、そっくりそのまま未来志向のことですね。なぜ我々は未来を計算したいと思うのでしょうね。

■Yuta

この国の過去なんて自分には関係ないし、未来なんて自分は生きていないし、という感覚の人間が多いような気がしたからです。かくいう僕もそうなのかもしれません。

  • にしむらもとい
    過去にも未来にも何のつながりも感じないで生きるということ。それは現在を生きていることになるのでしょうか。僕自身、「いまを大切に生きる」とか「いまを生きることしかできない」といった表現をよく使いますが、我々は言語を引きずって生きている以上、過去と未来を切断して生きることは不可能なので、「現在だけを生きる」というのはレトリックですね。現在というものは過去と未来との関係性の中にこそある(しかない)ということが、今回の議論を通じて伝われば幸いです。

■Hiroto

 個人を測る尺度は過去の実績で、実績を測る尺度は(測られた過去の時点での)現在への影響力で、それら全ては未来のために測られている、という感じがします。社会全体が個人の総体であるという見方の上では、過去が一番重要な気がします。

  • にしむらもとい
    時間の「流れ」という概念に基づくと、その源泉が過去であるという意味では、過去が一番重要に感じるのは全く自然なことと思います。

■YY 12

「過去」に投票しました。(なお、僕は重要視という言葉を「評価」と近い意味で考えてます。)
理由としては、単純に過去以外に確かに測れるものがないからです。
また、所長の記事からの受け売りですが、現代では欠かせない「お金」なんかも「過去の成果の印」であるといえます。これは社会が過去を重要視している良い証拠なんじゃないでしょうか。
「未来」も確かに大事ですが、それは視る(評価する)ものではなくて、「期待するもの」のイメージです。

  • にしむらもとい
    単純に過去以外に確かに測れるものがない
    「未来」は視るものではなくて、「期待するもの」
    これもその通りですね。重要視という部分の解釈でのみ、僕とは意見が少し食い違ったかもしれません。

■Naokimen

時間は場所やその人の速度などによって異なりますがそんなことを言っても仕方がないので時間が一様等方なものだと仮定(近似)して考えます笑
まず、過去についてはすでに確定したものでありどう頑張っても変えることができないという点でそれを考えるのは無意味だと思います。次に、今の段階では確率的にしか“予測”できない未来については、“一般”の人が考えている利他が実は利己だということ同じ論理で結局現在のことを考えていることに帰着されるのではないかと思います。そして、今確実に確定しているかつコントロールできるものは“現在”しかないので今回の質問の答えは“現在”にしました。「現代社会において最も重要視されている時制は?」という質問から若干外れた考え方をしているような気がしますが、実際なんとなく重要視されているのは“現在”だと思います。
なお、“他”を判断するために確定している“過去”から判断するしかないと思いますが、結局それは“過去”という確定したものを材料として“現在”を“推測”しているわけであり(あくまで推測であり自が他とは異なる故完全には確定できないが)、結局“現在”に帰着されると思います。 

  • にしむらもとい
    過去について(中略)考えるのは無意味
    未来については(中略)結局現在のことに帰着される
    今確実に確定しているかつコントロールできるものは“現在“しかない
    言っていることは全くもってわかるんですが、しかし、僕にはそもそも現在という時制にそこまでの信頼を置くことができません。実際のところ、現在は過去と未来の境界線であり、せいぜいただの観測点という程度の意味しか持たないと感じてます。どっちかというと、僕はコントロール「できない」という意味で、現在を生きる「しかない」という感覚を持っています。

■Makimoto Daiki

過去に投票しました。私は現在artistと名乗って日々勉強しながら生きていますが、一般には高卒ニートですし、知り合いからも格下に見られています。それは、私が過去に何の実績も、相手が認める資格も持っていないからでしょう。少なくとも私の周囲の人間は、今私がどんな人間であろうが、過去の実績や経験が無ければ、「口だけは達者やな」の一言で、取り合ってくれません。「今あなたは何ができるの?」と聞ける人は、人に対して偏見が少ないように感じます。私は今まで、学校やバイトや街中などいろんな場所で、人を観察してきて、偏りなく物事を見れる人はそう多くないと思いました。(経験談なので、狭い世界の中だけの話かもしれませんし、これも偏見なのかな、など考えますが、、)

YouTubeの登録ボタンについても、ボタンを押した時は「今面白い」で押しているのでしょうが、その後、登録されたチャンネルを見る時は、「今を楽しんでる」というよりかは「かつてあんだけ面白かったから、○○」というように過去を重要視していることが多いのではないかなと思ったので、現代社会において最重要視されてるのは過去であると考えました。

ちなみに私自身は、過去も現在も未来もひとつの【時】という単語の要素に過ぎないと考えているので、どれも大事の程度は同じです。

  • にしむらもとい
    重要性を「判断の基準」として考えた時に、世間では過去という基準が一番多用されているのは、全く事実と思います。

■Tsubo

「未来」に投票しました。現代社会においては「消費」という行動が最も重要視されており、その消費が未来時制であると考えるからです.現代社会は,一般的なイメージである資本を介した消費だけではなく,時間など他の「価値がある」とされる媒体を使って何かを得ようとする消費(今文章を書き込んでいる行動がまさにそうですね.)に覆い尽くされているという印象がします.この「消費」と言う行動の選択基準は「未来における利益を最大化できるかどうか」ですし,消費してもらいたい側,つまりありとあらゆる形でのステークホルダーは自らを消費すれば未来における利益は最大化できるよと明示しているにせよしてないにせよ宣伝しまくってますし,僕たちが普段目にする情報も大抵はその宣伝の範疇だと思います.なので,現代社会では「未来」と言う時制が一番重視されていると感じます

  • にしむらもとい
    現代社会においては「消費」という行動が最も重要視されており、その消費が未来時制である
    具体的に社会構造を分析すればそういう側面があることも間違いないと思います。

■チクシュルーブ隕石

一般的に人の評価をするときにはその時点よりも過去に何をしていたのかが非常に重視されているという感覚はありますが、結局現在何をできるのかを問われている場面が多いと思ったので現在に投票しました。また、未来についても現在について考えたときに未来という概念を使いたいという事をスタートとして思考し始めるケースが多いと感じました。ただこれは現在の僕について見てほしいという希望的観測に近いかもしれないですね笑。
少し話はずれますが、人が本当に未来を大切に思っているのかについては僕自身非常に懐疑的です。その大きな理由としては未来を考えている風の人が多いと感じているためだと思っています。SDGsに代表されるように未来の事を考えている素振りを見せる事が称賛に繋がるケースが非常に多く、本当の意味で考えている人の総数には非常に興味があります。
これは余談になるかもしれませんが以前聞いた話の中に『人間はお墓を作って過去の人物を弔ったりするのとは反面にこれから生まれてくるかも知れない子孫については儀式を行わないという事が未来より過去を重視している証左である』という言説を聞いて納得させられてしまいました。 

  • にしむらもとい
    人が本当に未来を大切に思っているのか
    『人間は過去の人物を弔うのとは反面これから生まれてくるかも知れない子孫については儀式を行わない』
    本筋とずれたところを拾ってしまいますが、面白いと感じました。人間にとっては過去も未来も結局自分の「都合」でしかないため、都合のつけにくい未来よりも、むしろ事後解釈によってなんとでも都合をつけやすい過去の方が重要視されているということでしょうかね。ただこれは正確には重要視というよりは、ある種の愛着、愛情の問題な気もします。懐古厨乙。的な。

★にしむらもとい - 答え

「現代社会において」という設定が、変に問いをややこしくしたかもしれません笑 ご意見いただいた方、ありがとうございました。

それでは話を進めましょう。
「現代社会」という言葉を一応拾っておきましょうか。この言葉自体が、既に現代という時制を含んでいますね。現代社会とは、常に「そう」呼ぶ人間の生きている時代のことです。今回のような聞き方だと、まさにこの2020年代の今の社会特有の問題として、僕が何かを切り出そうとしているような感じを受けたかもしれませんが、有史以来どこを切り取っても、最も重要な時制は何かという問いの答えは、常に同じになるだろうと思います。
「重要視」という言葉にも引っ掛かりを感じた方が多かったですね。僕も引っ掛かりを感じながら敢えて解釈がばらつくのも良いだろうと思い、そのまま放り投げました。僕の意図は、どの時制を「多用」しているかではなく、どの時制を「志向」しているか、でした。この意味を初めから明確にしておけば、もう間違いなく皆が「未来」を選んだと思います。聞き方を曖昧にしたおかげでいろんな意見を聞けてよかったです笑
しかし、また問題が生じます。

未来とはなんでしょうか。

多くの方にとって未来とは希望であるかもしれませんが、それはあくまで願望の話です。生物としてのヒトにとって、未来とはむしろ生存を脅かす天敵と言っても過言ではありません。ヒトは言語(物語)の発明以来、天敵たる未来への警戒を怠ったことはありません。ディオ・ブランドーという名の、とあるイギリス人の言葉を引いておきましょう笑

「恐怖」を克服することが「生きる」こと

「生きる」とはただ「生きる」ことでしかないというのが、もちろん「思考の海抜ゼロ地点」です。どうあがいても我々は生物であり、生物としての身体を持つゆえに、身体のデザインに含まれた生存本能、動機の根っこ(遺伝子)を持っています。生存と拮抗する要素を「恐怖」として回避しようとするのは、「死を望む」という物語(虚構)で本能が上書きされない限り、誰しもが持っている動機です。ここで言う恐怖とはホラー映画に見られる恐怖ではありません。ホラー映画は檻に閉じ込めた猛獣と同じで、こちらへ飛び出してきて「生存」を脅かすことのない飼い慣らされた娯楽です。
我々は、国家間の戦争さえ避けることができれば、「直接的に」生存を脅かされるという経験をほぼせずに暮らせる社会を実現しました。したがって、もはや強く意識することはあまりないかもしれませんが、本能としては、恐怖(リスク)を回避したい(せねばならない)という動機が、もちろん言語に先立って存在していたはずです。それが余すところなく満たされると、恐怖を回避どころかそもそも発生させたくないという動機に変わり、それすらも満たされると、遂には恐怖をコントロールしたいという動機にまで変わってきたわけです。「安心したい」という動機は、それを脅かす要素をあまりに排除しすぎることで、過剰なアレルギー反応がごとく「支配したい」という動機にまで発展してきました。

コントロール・支配・管理

当然、この意味で、

最重要視されている時制は未来です。

そして、それは、「未来に夢を託す」「より良い未来を次世代に残す」そういう意味ではありません。

未来志向とは支配志向のことです

言葉の綾と感じるのも正しい感性です。あらゆる文脈において常に未来をこの意味で使用すると、皆さんは社会から爪弾きにされます。お気をつけください笑
では、その志向、動機をどうやって満たすのか。どうやって実現するのか。

現代社会で最も「多用」されている時制は過去です。

現代人は、未来を手に入れんがためにひたすらに過去を利用しています。僕が日頃しつこく繰り返している、データ(記録)に基づくあらゆる分析、心理学、統計学、およびそうした分析を利用した振る舞い、マーケティング、プロパガンダ、医学薬学、その他あらゆる「予想」は、全て過去時制です。
たとえば、現代の物理学の知見では「時間は存在しない」ことになっているようです。これは我々が素朴に感じているような「連続的に過去現在未来の順に流れる」時間概念では現象の包括的な説明がうまくいかないという程度の意味だと思います。
「不可逆に連続的に流れる時間」という概念は、おそらくヒトの認知にべっとりと貼り付いたものなのでしょう。認知から可能な限り距離を取って考えると、時間というのは現象(変化)の別名であって、つまり、時間は現象のパラメータというより現象そのものであるように思えます。だからこそ現在から過去を「視る」ことと未来を「視る」ことに、実は本質的に違いはないのではないか。そういうことだろうと思います。
皆さんは、時間という存在が世界を表現している(パラメータである)と感じているのではないかと思います。時間変数で現象をシミュレーションすることも多いでしょう。しかし、それらは本質ではなく近似ということなのでしょう。
若かりし僕の貴重なる日々を吸い取った『存在と時間』という憎むべき本がありますが、時間は存在しないのです。ハイデガーのおっさんは晩年

今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。(中略)もし10年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話しを聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。遅かった。

などと言っていたらしいですが、言ってるだけで、ついぞ仏教から学ぶことはありませんでした。西洋の一般的な哲学の文脈から仏教的な思想へと接続する道は、あまりにも遠かったのです。それに対して、現代物理学者(量子論研究者)の中には、仏教の柔らかな教えとの思想的な接続を意識している人が、実際かなりいると思われます。『時間は存在しない』の著者も様々な場面で仏教的な思想に触れています。
まとめておきましょう。

「存在と時間」で世界はわからない。
「関係と現象」が世界の全てである。

これが、現時点で言語的に語り得る世界の真実であろうと思います。つまり、繰り返しますが、時間は別に過去から未来へと流れているとか、そういうことではありません。我々に認識できる情報量が限定的すぎるせいで、いわゆるエントロピーが増大するという「流れ」をその「結果」として感じてしまうだけであり、それを時間と呼んでいるだけのことだというのがざっくりした説明です。我々にとって現在とは観測のための足場ですが、展望台に上ってどこを眺めるのも自由であるように、過去も未来も自由に眺められるのだとしたら、現代に立って過去を分析することも未来を予測することも、ほぼ同義になると思います。
もちろん、宇宙の内部存在である我々ヒトには何らかの限界はあると思いますが、いまのところ統計的な試みが「そこそこ」ヒト世界(ヒトが認知する宇宙の部分集合)の未来を予測しているのは事実です。時間に、「本来は」過去も未来もないとしても、「本来は」なんてことは我々には関係ありません。ただヒト世界内で、過去を徹底的に分析し、未来という予測不可能な「獣」を、予測可能な「獲物」として扱い、あわよくば飼い慣らして「家畜」にすらしようと試み続けています。そして、それらはかなりの精度で実現しつつあります。

恐怖を支配して安心に変えること

気に入らなければ言い方を変えてもらえれば良いと思いますが、ともかく、

これが人類の望む進歩の本質的な姿

であろうと思います。
未来を過去で塗りつぶす。それで、生きることと拮抗する「恐怖」をなくせるのならそれに越したことはないじゃないか。そう感じるかもしれません。しかし、先ほどからキーワードとして敢えて何度も登場させていますが、「支配」という概念が気になりませんか。

過去の記憶と未来の予測をリンクする。

これが全人類で共有されるなら素晴らしいことであるかもしれません(本当に素晴らしいのかはまだ吟味できていません)。しかし、記憶と予測をリンクするためには、少なくとも現在では、専門的な知識、巨大な資本が必要であり、その行ないが全人類で等しく共有されることは、このままでは、まずないと思います。そして、

誰かの過去(都合)とリンクした未来(都合)へその他大勢が巻き込まれてゆく。
その他大勢は、「過去に溺れる」か「未来を夢見る」ことになる。
そして、この意味での過去と未来にはほぼ違いがない。

これまでの議論における、言語、必然、自力、データなどは全て「過去」です。都市化、利便性、その他、敬愛する養老先生が『唯脳論』などでかつて脳化と呼んでいた概念は、この議論で置換するなら「過去化」であろうと思います。養老先生は構造と機能という概念をよく使っておられましたが、構造こそが時間の流れを生み出す根源なのでしょう。構造という概念は、そこにある全ての世界内情報をおそらく記述できていない。それゆえそこに機能、すなわち時間の流れという相対的な何かが「見え方」として発生してしまう。そして、それは全てのヒトが例外なく背負う逃れ得ない認知的「原罪」であるため、構造から機能を取り出す(過去を未来に転写する)技術というのは、ひとたび発明されると、それを手に入れたものがそれを持たぬ全人類をハッキングする技術になり得るわけです。古典的な意味でのタイムマシンというものの存在可能性には僕は否定的ですが、いま話しているような意味では既にタイムマシンは発明されていると言えるのかもしれません。
以上が、2020年代の現代社会の像(写像ではありません笑)であろうと思います。
ただ、この話だけを聞いていると、統計学などによるハッキングは、万能(だからこそ危険)であるかのように感じる人もいるかもしれませんが、実際どこまで万能なのでしょうか。時間というのは観測者各々に「相対的に現れる」記述であることも忘れてはいけません。万能ではないことにこそ、僕の思想を割り込ませる隙間があるということです。
必然の話を思い出してください。我々は何かを意識して言語化した瞬間、そこに因果を感じると述べました。その感じ方は相対的なものです。
相対的時間を扱う学問の最たるものは、物理学ではなく歴史学でしょう。
また寄り道しましょうか。歴史とは何でしょう。多くの方は歴史とは事実であると誤認していますが、歴史とは記述です。「史」とはふみであり記録です。事実ではありません。
さらに具体化して、たとえば、

「日本史」とは何でしょうか。
かつて、縄文人や弥生人は「日本史」を生きていたのでしょうか。
アイヌの人々はいつから「日本史」を生き始めたのでしょうか。

日本史とは、全て後付けで引かれた日本という枠組みによって発生したものです。事実化、言語化、観測によって、現在から過去へ向かって遡及的に意味づけが為されたものが歴史です。今起こっていることがそっくりそのまま未来へと残されていくわけではありません。全く逆です。
過去とは揺るぎない事実ではなく、現在の都合で解釈された真実だということです。それと同時に、未来とは現在の都合で解釈された予測です。我々は、過去を都合よく解釈するだけにとどまらず、その都合を今度は未来へと「ある程度」転写し得る能力(技術)も獲得しつつあります。現在のところ、これらは完全に合法の活動ですが、ヒトが種として最適化して「進化」してゆくためには、いずれはルールが敷かれねばならないことだろうと感じます。
最後にもう一度念を押しておきます。
我々が生きているのは、正確な意味では現在ではありません。我々は過去の「記憶」と未来の「予測」との割れ目、その関係性としてのみ言語的な「現在」を認識しています。「今」を生きるとは、関係性のみに依存して「空(くう)」を生きるということです。真なる現在など、知覚できるものではありませんし、まして言語化などできません。言語化されたものは全て「過去」です。未来予測ですら言語化されたならそれは必然の「過去」です。
そういうお話でした。

Day6 何故お金では利他が発生しないのか

★にしむらもとい - 問い

さて、どれだけの方が興味を維持して話を追ってくれているかわかりませんが笑、そろそろこの物語も終わりが近づいてきました。皆さんへの問いかけとしては、これが最後になります。
我々は無理やり利他を目的として生きることは不可能であるし、そんなことは目指さなくて良いという話を、既にしたと思います。

利他は行動規範にならない

つまり、“SDGs”は地球を救わない。それでは、我々は一切他人のことなどおかまいなしに、利己的に振る舞い続けて良いのでしょうか。古今東西のあらゆる哲学者、倫理学者が、あらゆる書籍において、これまでこじつけ散らかしてきた問題です。これについては、僕は実はあまり関心を持っていません。何故かというと、ヒトは言語を支えに生きる限りにおいて、利己的でしか在ることができないからです。考えるだけ無意味です。
では、利己の究極としての「お金」の話をしながらゴールを目指しましょう。
皆さんにとってお金とは何でしょうか。

社会が回るための素晴らしい発明品。
それさえあれば何でもできる力。
生活するために必要なただの道具。
社会問題を引き起こす諸悪の根源。

良い面、悪い面、どちらも思いつくのが一般的でしょう。いざそれが何かと聞かれてもなかなか割り切れない、アンビバレントな乙女心のような想いを抱いているのではないかと思います。「お金とは何か」が言語化できそうならしてみてくれると嬉しいですが、難しいでしょうから、一つ具体的な問いを置いておきます。

■アンケート

募金活動、慈善事業への寄付など「お金を他者へ贈与する」ことは
全面的に善いことである    1
@けろたん
部分的に善いことである    6
@YY 12@Makimoto Daiki, @Naokimen@Hiroto, @イスツクエ, @Yujin
善いとも悪いとも言えない    6
@チクシュルーブ隕石, @コバ, @蜆一朗, @ていりふびに, @Shun@chiffon cake
部分的に悪いことである    1
@ゆーろっぷ
全面的に悪いことである    1
@Takuma Kogawa

■コバ

お金とは何か:それを共通の認識として取り扱えるコミュニティ内で効力を発揮する価値の表象を、数字という概念を被せてコインや紙として具現化させた物。
かと思います。
なので日本では、100円は「100円の価値がある」とされ、1000円は「1000円の価値がある」とされ、1万円は「1万円の価値がある」とされます。
またお金は、価値の表象を(ここは日本なので分かりやすく“円”で話をします)円に変えた途端、正しく具現化されたはず(そもそもそれががお金の機能)なのに、“価格“に変わってしまい、正しく具現化されていないという機能不全を根本に抱えていると思います。
なのでアンケートの回答ですが、「お金を他者へ贈与する」その瞬間は「価値がある」と言えますが、お金を贈与した瞬間に「価格」へと変わるので、その「価格」を「他者」がどうするか、それによって善い悪いのジャッジは決まるのではないでしょうか。つまり「その他者がどうするか次第」という意味で「善いとも悪いとも言えない」に回答しました。 

  • にしむらもとい
    お金というのは、本質的にはコミュニケーションツールですが、コミュニケーションツールとしては、決定的に不完全だと思います。後で触れます。
    お金を他者へ贈与するという行ないが、結果として善になるか悪になるかということで言えば、コバさんの主張の通りだと思います。ただ、傾向としてはあまり善い方向に向かうことは少ない気がします。これも後で触れます。

■Hiroto

お金が今の意味でのお金たる根源には、他者の存在が不可欠です。が、それと利他的であることとは全く別だと思います。お金が利己的(虚構的・言語的)であることには完璧に同意します。
利他的であることを言語的に自覚してアクションを起こした時点でそれは利己的である、という話(噛み砕き方が合ってるかはわかりませんが)がありました。その意味で、明らかに使用用途がわかっているような慈善事業への寄付は、(逆説的に?)利己的であろうと思います。利己的であることと善悪との対応がいまいち自分の中でも整理しきれていませんが、このような寄付を完全な善とは言えないなという気がします。
悪というのはさすがに尖りすぎな気もしたので、②に投票しました。

  • にしむらもとい
    お金が今の意味でのお金たる根源には、他者の存在が不可欠
    お金がコミュニケーションツールであるからですね。
    利己的であることと善悪との対応がいまいち自分の中でも整理しきれていません
    おっしゃる通り、利己的と善悪との対応の話は僕もこれまであまりしたことありません。そして、おそらく対応はあまりないと思います。

■ゆーろっぷ

 今回の問いの文脈において、お金というものは、「言語外 / 因果外」にある「善(利他)」を記号化し、無理やり「因果」を作り出すための媒体であろうと思います。そして、それを用いた贈与は、少なくとも「善い」ことにはなり得ないのではないでしょうか。特に(Hirotoさんが述べているように)他者にとっての「利」を「使用用途」として勝手に決めて固定化してしまうような活動は、確実に「利己」の範疇となってしまう気がします。
僕としては、ある行いが「利己」であるからといって、それが必ずしも「悪」ではないとは思います(そもそも完全に利己的な行いであっても、時間・空間を隔てて(=因果を超えて)他者が「利」を感じれば、それは「利他」となるのでは?)。しかし、「お金を贈与する」という行いは、インフルエンサーなどが自分の立場を守るための「ポジショントーク」の道具として使用されるイメージが強く、「お金で善は買える」という腐敗的価値観を助長してしまうのではないかという懸念があります。このような僕個人の感覚も踏まえて、「部分的に悪いことである」に投票しました。 

  • にしむらもとい
    ゆーろっぷ君が感じている違和感は非常に理解できます。僕もそういう思考をぐるぐるしていた時期がありました。お金はあんま善いもんじゃない気はするし、だからそれをポーンとあげたところでそれも全面的に善い行ないではなさそうだし、人間はどうせ利己的にしか振る舞えないし、じゃあ利己的だったら悪なんだろうか。そんな中で、
    「お金で善は買える」という腐敗的価値観を助長してしまうのではないか
    というアイデアをこの文脈で言語化してくれたのはさすがと思います。腐敗的かはともかく、それがあまり善いサイクルを生まないことは、一応以下で触れます。

■にしむらもとい

本日は最終日でこちらからの新たな問いはありませんので、僕からの意見投稿は夜遅めの時間23時くらいまで待とうと思います。良かったらそれまでに、お金についての素朴な意見でもその他何でも、感じたことを投稿しておいていただけたら嬉しいです。

■チクシュルーブ隕石

募金をする人は相手の状況に感情を動かされて行動しているものであり、自分の気持ちをお金という形で発散しているにすぎないと考えています。利他の原理に照らし合わせて考えると募金という行動は非常に利己的な行動です。このことからその募金を相手が受け取った時、また募金による効果を享受した時に相手がどう感じるかが善悪に直結するので絶対的に善悪を判断できないという結論に至りました。その意味ではコバさんの意見とほぼ同じだと思います。

またお金そのものの正体とは何なのかについても自分なりに考察してみました。お金はある種の器として非常に便利なので世界で流通していると思いますが、お金そのものには何の価値もありません。これは現実的ではありませんが、明日から今流通しているお金は一切の価値を持たなくなるという可能性もあります。しかしお金自身に価値などに微塵の価値もないと言う事を意識しながら過ごされている方はほんの一握りだと感じています。この実体と一般の認識の齟齬がお金というものを必要以上に万能だと考えさせてしまう原因だと思います。

  • にしむらもとい
    「募金をする行ない自体は非常に利己的だが、結果的にその利を受け取る人がどこかにいるならそこで利他も発生し、それで助かる人がいるなら、それでよいのでは?」という意見は結構多そうに感じます。結論から言うと、募金で利他は発生しません。以下で理由は説明します。
    お金は価値ですがそのものに価値はないというのは極めて本質的な意見ですが、ほとんどの方は札束を見ればテンション上がると思います。お金というのは人心のハッキングツールとしても非常に優秀なのだと思います。

■にしむらもとい

それでは、利他について考える最後のヒントとして、「お金」について考えてみましょう。
別な連載で書きかけていた未公開記事から一部だけ先に借りてきてお話をします。後から公開される記事と少し内容がかぶるかもしれませんがご了承ください。また、「お金とは何か」という話は、一般には「社会の中でお金が果たす役割」についての、要するに「政治経済的」な言及を指すと思いますが、僕はお金という根本概念自体に疑問を持っておりますので、政治経済の話は、少なくとも今回の議論においては期待しないでください。

★にしむらもとい - 答え

お金はどこから生まれたのか。もちろん「交換」からです。お金は本来的に「貯めて愛でる」ためのものではありません。裏返すなら、時間的空間的な制限なく「好きなだけ貯められる」という機能もまた、お金という発明品の抱える不備だと思います。ともかく、人と人が物を交換する際に、それをより「安心」できる形で行なうために生み出したものが「お金」です。今回のWSの文脈で言うなら、お金は完全なる「過去」ですね。
お金の価値、機能が保証されているからこそ、我々は安心して「交換」ができているわけです。

……。
本当にそうでしょうか?

幼少期に「お金」というものの存在を知った瞬間から、僕は「お金」には違和感しか感じていません。僕にとってお金は善悪の対象以前に、最初から「腑に落ちない」「直感に合わない」ものです。ともかく、極めてシンプルには、「お金は物の価値を一元的に切り取って定量化した数値」です。それの一体何が問題なのか。丁寧に議論すると数万字になりますので、それは別の論考に譲り、幼少期に感じた「違和感」の部分だけを取り上げてお話しします。お金の一側面についてです。
幼い僕が抱いた違和感は

お金には「顔」がない

ということです。物を手に入れた時と比べてお金をもらうことに僕は全く嬉しさを感じません。これはお金が嫌いとかそういう話ではなく、お金というものに対して、感情的にテンションが上がらないのです。もちろん、お金が手に入れば入ったで、一定の使い道を考えるわけですが、お金を使えることが嬉しいわけではありません。お金には「顔」すなわち「身体」がないのです。すなわち感情もない。「交換」とはコミュニケーションです。コミュニケーションに感情が伴わないというのは、どう考えても変です。
物とお金との交換を、多くの方はあまりにも素朴に信頼していますが、僕は物とお金との交換は不可逆なものであり、つまり順序を入れ替えることはできないものと感じています。「お金が現実に紐ついていない」という表現を以前にしたことがありますが、それも大体同じ意味です。

ピッタリ10,000円で買えるものを並べて、それらが全て「等価値」であることを実感として認められる人は、一体どれほどいるか。

以前にこういう問いかけをしたことがあります。それらは、お金を媒介として「買う」という行ないにおいては同列ではありますが、じゃあ買ってまたすぐに10,000円で売れるかというと、もちろん売れる保証はありません。その一回においては「交換」可能ではありますが、それ自体は常に「交換可能」な行ないではありません。もっとも、その問題はお金固有の問題ではなく、広く「交換」にまつわる人情、コミュニケーションの問題です。
たとえばお金を介さないで、ご近所の鈴木さんとちょっとした物同士の物々交換をしたとしましょう。後になってやっぱり嫌だなあと感じたなら、再びそれを覆して交換をやめるという交渉をすることもできます。物々交換とは、完全に当事者間だけの問題だからです。ここで言う交渉は法や制度を引っ張ってきて適切に用いるという性質のものではありません。もっと乱暴なものです。人と人がシンプルに言葉を(場合によっては身体言語≒暴力を)交わすという意味です。お金も、この程度の規模で使われるのであれば、「新しい問題」を生むことはなかったと思います。しかし、いまやお金はこの世界のあらゆる交換の記録でもあります。物の交換が売買という行為に変換されたことで、コミュニケーションの意味合いは限りなく限定的になりました。「交換」の主体が、まさにその受け渡しをしている当事者ですらなくなってしまった。さらには、お金による交換の「記録」とは何を意味しているでしょうか。先の議論で言う「過去」ですね。お金もまた、人間が自分の都合で「安心」して生きたいがための発明品ということです。確かにお金を用いた交換の効率化、制度としての交換の「保証」のおかげで、交渉において自身の身体を侵害し得る他者の暴力のようなリスクは排除できたと思います。しかし、それはそれとして、制度化の際に見落とした概念があります。そんな中で

お金を媒介として物を売買することは本当に「交換」と言えるのでしょうか。

物々交換における等価交換性は、外から保証されるものではなく、当事者のみが納得することで成立するものです。では、貨幣を通じた等価交換性は、一体誰が納得しているのでしょう。当事者は納得しているのでしょうか。納得しているなら、皆さんもブランド品を高いとは思わないでしょう。納得しているのは「適正な価格」と主張する経済学だけです。僕や鈴木さんはブランド品の価格に対しては、何も納得しているわけではありません。経済学を押し付けられやむなく受け入れているだけです。そして、ごく稀にそうした「適正価格」という経済学の幻想の網をすり抜けて顔の見える交換が行なわれることがあります。

違法取引です。

違法取引においては見事に当事者同士だけの納得によって交換が行なわれています。何故かと言うと、まず違法ですので、適正価格の保証を国に訴えることができません。そして、これが重要なことですが、バレれば自身が法で裁かれるため、まず外に漏れないように気を配ります。すなわち、当事者同士だけが交換に関わります。この「共犯性」とでも呼ぶべきものが、本来、交換に必要だったはずの「当事者意識」に近しいものと思えます。さらに、バレた時に今度は自分にリスクが及ばないように自分の痕跡を消す画策も、必死で行ないます。つまり、取引から互いの「顔」を消すことに必死になるということです。放っておくと「顔」が存在してしまうことを認めているからこそ、逆に消そうとするわけですね。あるいは、その裏取引が継続的に行なわれた結果、奇妙な「信頼関係」が成立でもしたならば、今度は互いにその「顔」あってこそ取引に応じるという、極道やマフィアのような世界観にもつながってゆくのかもしれません。極道やマフィアは「顔」を立てることを重視するという世界観がどこまで正しいのか知りませんが、そうであったなら、そうした裏社会は近代以降の社会で失われた「顔」という身体性がいまなお存在する数少ないコミュニティなのだろうと思います。もちろん、僕は裏社会に精通しているわけではなく、法を破ることが前提の無法組織は社会的に決して認められるものではないことに同意します。あくまでそのコミュニティの機能というものを(一部想像を含めつつ)極めて限定的に取り出せば、そういう側面もあるというだけです。何を肯定しているわけでもありません。
さて、通常の「表」取引の話に戻りましょう笑 我々がお金を通じて商品の売買を行なう時、そこに「顔」が見えることは前提とされていません。裏取引においても当然そうしたお金の匿名性という機能を利用して顔を消すわけですが、通常の売買行為でも意図しなければそこに「顔」が介在することはありません。
ここで「顔」と言っているのは、もちろん「身体的責任」という意味です。仮に、顔を見せずにオンラインショッピングをしたとしても、クレジットカードその他の個人情報は「記録」されます。記録によって法的責任が発生します。では、記録としての個人情報は「顔」として機能しないのでしょうか。いま取り上げている「顔」とは、互いの顔を見て美人イケメンの品評会をするというような「顔画像データ」という文脈のものでは全くなく、住所氏名職業その他あらゆる信用情報などの極めてプライベートな個人情報も含め、それでもデータ単体では「顔」にはなりません。下品な言い方をするなら、「互いの金玉を握り合う」というような意味での「金玉」ほどの身体性であれば「顔」と同義に扱えるかもしれません。女性の場合は、ちょっと良い表現が思い浮かばないので許してください。そして、裏取引においては、これは相手の「弱み」と同義であるかもしれませんが、僕は腹を割って話すコミュニケーションという程度の意味で「顔(金玉)」という言葉を使っています。日常においては、相手の金玉を握る機会を得たからと言って、普通はそのまま握りつぶすことなどしません。お互いに金玉を握り合う(そろそろこの比喩はやめます笑)ことで、身体と紐付いた安心、信頼が得られるというだけです。
お金には極めて限定的な一つのパラメータの大小という価値しか含まれていません。それがもう絶望的に設計ミスです。お金には絶対に「人間」が紐付かねばなりません。物々交換同様に、やり取りにおいて

「顔」が見えるシステムではないからこそ、お金では利他が発生しない

のです。ここまでくればもう説明は要らないかもしれませんが、最後にこの原理を説明したいと思います。
ちなみに、昨日の問いの答えを先に置いておきます。お金で何か善いことをしたなら、そんなことは善いに決まっています。マフィアが人身売買で得たお金で何らかの人道支援をしたとして、その支援自体が悪であることはありません。善行は善行です。繰り返しますが、いま考えていることは、利他についてです。それでも、全く利他になり得ない行為が果たして善かと言うとやはり大いに疑問が残ります。
なので、募金活動、慈善事業への寄付など「お金を他者へ贈与する」ことは

部分的に悪いことである

というのを僕の答えにしておこうと思います。これは、その後何が為されるかで善悪が決まるという文脈ではなく、お金を他者へ贈与する行為自体が、結果的に自身の悪を隠蔽する目くらましの行為になっていたり、慈善への取り組みで利己心を満たした結果が実際にも悪につながりやすいと思われるからです。その話はさておいても、何よりお金は利他を生みません。
お待たせしました。話を引っ張りすぎました。

何故お金では利他が発生しないのか

確認しますが、利他とは何らかの他の誰かの行ないから自分自身の利を感じることです。「利を感じる」こと自体は、利己の範疇です。「他の誰か」の行ないから結果として利を感じるという現象が「利他」のメカニズムでしょう。少なくともそう定義することが最も矛盾がありません。そして、その利他の成立には、結果としてその利を生んだ行ないの主体の「顔」が必要です。先ほど金玉と言っていたやつです笑
お金を直接手渡しにしようが、あしながおじさんとして匿名で寄付しようが、その差出人の「形式」で善悪の線引きが為されるのは変だと思います。つまり、もっと突っ込んで話をするなら、

「顔」とは身体的責任のことであり、ただお金だけをばらまくような行ないは、身体的にその責任を負わない行ないである

ということです。どうでしようか。これでかなり納得いっていただけたのではないかなと思います。富豪がお金をばら撒くことに、何故違和感があるのか。それは、富豪がお金のばらまき先の貧者に自分の金玉を触らせないからです(便利すぎて金玉の比喩から抜け出せない笑) 前澤さんがお金をばら撒いたとして、それ自体が強い悪行ではありません。しかし、何か気持ち悪さを感じる。それは、身体的な責任を取る気がないからです。これも以前言ったことのある話ですが、もし僕が1億円を配るなら、たぶん1,000万円とかのレベルで数人にのみ配ると思います。何故かと言うと、たかだか100万円以下のお金では、その人の人生を大きく変えるようなことはないからです。せっかく、何かを支援するのなら、人数は少なくとも確実に何か影響を与えられることをした方が意味があると感じます。さらに、人数が多すぎるとばらまき先の方々とその後関わることも不可能でしょう。平気でそれができるのは、もちろん関わる気がないからです。だから、誰がどう見ても確実に「身銭を切っている」のに、富豪による慈善事業への寄付などには違和感ばかりが先行するわけです。もっとも、前澤さんの場合は名目からして慈善事業ですらありませんでしたね。

Day7 まとめ

★にしむらもとい - 終わり

以上が、利他にまつわる僕からの物語でした。「利他ってなんやねん」という話の流れを「因果」と「時間」をキーワードとして追っていただき、特に最後に述べたお金のくだり程度のことを日々考えていただければ、少し世の中の見え方が変わってくるかもしれません。お金というのは、それを流通させるシステムにおそらく不備があります。そして、その不備を埋めるためにはお金という概念に、今後何らかの情報技術を導入して顔付きのもしくは金玉付きのお金を新たに作らねばならないと思います。お「金」とは名ばかり、そこに「金玉」は「紐付いて」いないのです(金玉納め) 以前は、仮想通貨、暗号資産のような概念が中央銀行をぶっ壊し、国という単位をぶっ壊すことで世の中も変わっていくのかなと思われる節もありましたが、いまは僕はそういう見通しは全く持っていません。
そして、今回追いかけてきた利他の概念を見直しながら、いまの世の中を塗りつぶしている「能力主義」「自己責任論」などを検討してゆくと、そのあまりに複雑に絡まってどうしようもなく見える糸をほぐす「糸口」も見えてくるのではないでしょうか。能力主義、成果報酬、人と人のつながり、などなど。
では、このWSはこれで本当に終了です。明日からはまた、各部活動に引き継がれて、それぞれのオリエンテーションが始まります。各部のWS運営の基本方針の説明や意識調査、場合によってはちょっとしたWSのデモンストレーションなども為されるかもしれません。引き続き、この稀有な空間とよろしくお付き合いください。
願わくば、積極的に参加され、良き体験を得んことを。
スタートダッシュとしての僕の担当は以上です。
ありがとうございました。


そして、願わくば、公開したこのログが、時空を隔てたどこかの誰かへ、意図せず響かんことを。

僕の「利己的」な願いである。

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