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『実力も運のうち 能力主義は正義か?』【読書のおと】……(序)読書案内編

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はじめに - 新たなジェイラボ課題図書として

今回課題としたこの本は、僕が行なっている活動に少しでも足を突っ込んでおられる方には全員に自分の力で熟読して欲しい本である。まとめ動画やショボい要約サービス、その他有象無象の解説評論に触れるだけで済ませて欲しくない。

この本に関しては、僕にしては珍しく他人の評論や解説動画をいくつか、わりと真面目にチェックした。何故そんなことをしたかというと、この本の真に意味するところ、そしてこの本には書かれていない僕なりの解答を、より「多く」の人に伝えたいという気持ちになったからである。ネットで簡単に拾える(すなわち皆さんが見る確率が高い)いくつかの解説はリサーチ済みである。皆さんに一番身近でわかりやすいと感じてもらえそうなものは、岡田斗司夫さんによるYouTubeでの解説動画だろうか。一応、貼っておこう。

さて、それではこの動画を観終えた人に、どう思ったかを問うたとしよう。ほとんどの人が「面白い」とか「すごい」とか「長い」くらいしか言えないはずである。それは断言できる。ここには具体的な事例や思考結果の紹介しかない。己の思考(運動)の開示はない。この動画を観るモチベーションを持つ人は小さなブロックの知識の集合のみを求めている。思考(運動)が苦手だからだろう。小さな知識をいくら寄せ集めても、自分なりの大きな「思想」を紡いで語る(運動する)ことは、絶対にできない。

初めから方法論などの知識としての知だけを求めているなら、もちろんそれで構わない。けれども、思考力そのものに関わる知を求めているのだとしたら、自分も一緒に思考しなければそんなもの身につくはずがない。それはわかりきっているはずのことだ。しかし、抽象思考に慣れ親しまずに育ったほとんどの人は、この「しんどい」段階を、簡単に、あまりにも簡単に放棄する。

僕はこの本は(解説を書くため)都合二、三回は通読したが、一回目はかなり丁寧に一緒に考えながら読んだ。それこそ十時間くらいかけたのではないかと思う。一方的に受け身でインプットするだけなら二、三時間もあれば読めたとは思うが、ともかく、僕が十時間もかけてこの本を読んだことを告白すれば、「そんなに読むのが遅いとは頭が悪い」と馬鹿にする人もいるだろう。僕からすれば、この手の本を軽快に速読する人の方が、むしろ「頭が悪い」と感じる。ここに書かれていることは知識ではないからだ。この本を速読する人は、サンデル氏の思考を自分の知識のライブラリに放り込む(参照可能にする)以上のモチベーションを持っていない。しかし、「参照」から「乗り越え」など決して出てこない。「知識人」が何も生み出さないのは、そういうことである。

もっとも、熟読したところでこの本に限っては著者であるサンデル氏すらまともに答えを書いてはいない。以前の著作からその傾向はあった。社会問題を分析するにおいて、サンデル氏は同時代人としては稀有な視座を持ち、かつ、そうした分析を極めて高い水準で遂行する。ただし、現実問題として解答を提示するまでには至らない。あるいは、解答を一般に具体的に示さないのは、意図的なものである可能性もある。ともかく、サンデル氏の議論は、いつも徹底した恐ろしく見事なまでの問題点の明確化「だけ」で終わる。

それでも、僕はこの本を少しでも多くの方、特にジェイラボに関わる人々に読んで欲しいと願う。そもそも、ジェイラボの活動としては、その思考法の柱として、僕は皆さんにずっと『唯脳論』という本を勧めている。未読の方は絶対に読んで欲しい。よくわからなければ二回三回間を空けて四回でも五回でも読んで欲しい。

この本は、脳について書かれたものではなく、思考法についてこそ書かれたものであり、「そう」読むことが最も得るものが多いということも、既にお話をしている。

なので、正直、現時点でこの本をしっかりと読んでいただいていない方は、僕の日頃の言動をたぶん何一つ理解できていないとすら思う。言ってみれば、ここで僕は「バカの壁」の線引きをしているとも言える。

そう、ある意味においては、残念ながら僕も能力主義者なのだ。ただし、僕は、能力によってこそ「成功する」というものの見方は持っていない。僕がいまここで指している能力は、

テキスト(文字情報・抽象概念)から一定以上のボリューム(分量)のアイデア(ひとまとまりの構造)を読み取る

という極めて限定的なものである。早い話がこれはリテラシー(読み書き能力)の本来の意味に近いものである。読み書き能力。活動を共にするにおいて、それくらいは他人に求めてもバチは当たらないだろう。

もっとも、これは読み書き能力が低い人間を見下すということでは、全くない。あくまで、僕が活動するにおいて、その範囲での活動のしやすさのための基準である。僕だって、読み書き能力は高くてもそれ以外の能力は総じて低かったりするし、当たり前だが人間性は能力の一側面のみで測れるようなものではない。そもそも能力にムラのある僕が、能力が全てを決めるという意味での能力主義者などであろうはずがない。

0. 本の読み方 意識の置き方

0-1. 残念な現実

さて、誰も触れない残念な現実に、せめて僕だけは真っ先に触れておこう。

そう、

この程度の本ですら、それ相応の読書体験を持たないが故にまともに読めない人というのが世の中の多数派になりつつある

という現実である。それは、もう疑いようがない。そして、この程度の本ですら、読める人間は読めない人間に対してマウントを取る。取れてしまう。そして、絶望的な分断が生まれる。

けれども、僕は皆さんにこの本を何としても自力で読んで欲しい。だから、我ながら気持ち悪いが、この本の読み方のコツを形式的に示しておこうと思う。別に認知心理学に基づいた素早く知識を吸収するための効率的な読み方を紹介したいのではない。10分で読んで10分でアウトプットとか一ヶ月に100冊読むとかの類の読書法は皆さんを賢くしない。それは、そうした読書法の講師を見ればすぐにわかる。皆まで言わせないで欲しい。

0-2. 具体的手順の罠

まず、一回目に読むときは、わからなかった箇所や気になった箇所に線を引く。紙ならついでにドッグイヤーでもつけておく。電子書籍ならハイライトしておけば後でまとめて参照できる。正直この辺の具体的な仕草は些細なことであり、僕も大したこだわりはない。しかし、こういう具体的手順に話が及んだ瞬間、エビデンス厨が湧いてしまう。だから僕は普段具体を語らないのだ。どんな風に線を引くのか。どれくらいの頻度で線を引くのか。読書において線を引くこと自体愚かなことだ。なるほど、どこかでそんな話を聞いてきたのだろう。けれども、統計的根拠を気にする前に、十分な読書体験を積むことが先ではないか。その順番を違えることがオカルトであることに気付ける人間は少ない。

まあ良い。ともかく、こうした一般書は、論文のように決まった形式で書かれているわけでもなく、単一の目的の論文よりもはるかに分量があるので、内容を自分なりに再構成してコンパクトにするところに過大な負荷が発生する。そこに留意すべきである。論文とは違い、読み手が自分の手でアブストラクトせねばならないのだ。そして、そうした形式の自由度こそが一般書籍の良いところでもある。どんな順番で話を印象づけるか。時にフィクションとノンフィクションの境界を融かすという尖った表現すら選択し得る。僕だっていまこうしてかなり自由に書かせてもらっている。そんな自由な表現に触れながら、その意図を把握しようと思うなら、自らその要旨を抽出せねばならないのだ。良いだろうか。楽しみを超えた読書というものがどれほどハードルの高い作業か、ご理解いただきたい。

そして、ここは強く、強く念押ししたい。

本の要約は読み手によって内容は異なって構わないどころか、異なって然るべきである。

これは、大学受験の国語や英語で要約の指導を受けた人や、あるいは実際に指導する側の人なんかが聞くと、かなり違和感を覚えるかもしれない。

0-3. 要約は一意という愚と要約サービスの無意味さ

「本を読んでその内容を自分の手で自分のためにまとめる作業」とは何なのか、その意味をよく考えて欲しい。要約とは、「書かれた情報に強弱をつけて具体を排除して抽象によって大きな流れをコンパクトに描くこと」であろう。だから、それを形式的に行なう限りにおいては、誰が要約しても中身は同じにならなければおかしい。それはそうである。形式的である限り。しかし、我々ははたして形式的に本を読んだという事実を積み上げるためにのみ読書をしているのか。いや、もしかすると実際そういう人が大半なのかもしれないという現実も真面目に想像できて恐ろしくなっても来るが、本質的にはそうではないだろう。形式ではなく、自分の思考の幅を広げるためにこそ読書をすべきだし、皆、建前としてはそう感じているはずだ。究極的にはどんな目的で読書しようが勝手だが、一応、ここでは「自分の思考の幅を広げる」という目的を大前提としておく。

であるならば、本を読んだ結果として手元に残すべき情報は、一般論、形式としての中身の要約では、断じてない。我々一人一人は、一般論からは決して何も得ない。己の知の国境を脅かす、限界ギリギリとぶつかりまくるような議論でなければ、己の知は更新されないに決まっている。

だから、本の要約サービスやYouTube解説動画などの「一般論」は、皆さんが賢くなるのに一ミリも役に立たないのである。そして、皆さんが十分賢くなった暁には、もちろん今度はそんなサービスに心惹かれることはなくなっている。

0-4. 己の知の輪郭に触れる

話を戻そう。そういうわけで、我々が読書をするにおいて意識すべきことは、自分の現在の知の輪郭に合わせた情報を適切に編集して残すことだ。そのために、一回目でまず読むべき箇所を単純に、物理的に減らす。そして、その部分だけを拾ってもう一度読み直す。その辺の一次情報の減らし方には人それぞれの工夫があって良いと思うが、ここでは万人向けということで単純に下線やハイライトで読み直すという何の工夫もない方法を敢えて提案している。工夫があれば好きに工夫してもらって構わない。そこは本質ではない。

ともかく、一回の通読で削ぎ落として減らした情報を改めてざっと読み直すと、ぼんやり頭にイメージされた本文全体の内容が少し整理されて構造化される。されないとしたら読書体験が不足しているので、もっともっと本を読もう。読書は身体運動である。近道などない。さて、通常の読書は減らした(選択した)情報を読み直すところまでで良いと思う。更に、その時点でnote記事にするなりメモに残すなり何らかのアウトプットまでしておけば十分だろう。

気をつけるべきことは、繰り返しになるが、そうした情報の構造化作業を形式的にではなく自分の知の輪郭に合わせて行なうことである。もちろん、自分に合わせるだけでなく著者の主張を汲み取ることは重要だ。後に本の内容を参照して誰かと話題を共有する機会ができたとして、著者の主張そのものもある程度意識にとどめておかないと、話がしづらくなる。しかし、だからと言って、「著者が何を言っていたか」という段階で読書を終えてしまうと、自分は「賢く」はならない。いまの自分の知の輪郭を変更、場合によっては拡大することこそが、賢くなるということである。そのためには、いまの自分の知の国境、その前線に常に赴かなければならない。一人玉座にふんぞり返ったまま安楽にしていると、領土を増やすどころか下手をするといつか領土が縮小したとしても気付くことすらできない。

僕は、たとえどんな本を読んでも常に一定の学びは得ることはできると宣言できる。それこそ僕が普段読まないような内容の薄い自己啓発本ですら、読めば読んだなりに学びは得る。マンガや暇つぶしのための娯楽雑誌を読んだって学びは得られる。学びは自らの意識の問題だからだ。良いだろうか。内容をまとめるとか要約をするとか、そういう形式ばかりにとらわれてはならない。せっかく本を読んだなら、自分の感じるイメージと本の提示するイメージをはっきり突き合わせて、自分だけにこそ響く「まとめ」を構造化することだ。それだけが、我々を賢くする。

繰り返すが、方法論による読書は知識の習得以上の結果は残さない。残し得ない。そんなことは、認知心理学なんて単語を振りかざすまでもない。脳みそがついているなら、考えればすぐにわかるだろう。古の時代から明らかなことである。

この本をどう読めば良いか、わかっていただけただろうか。まずじっくり読む。その中で著者の意見として重要な部分、自分にとって大きく響く部分、それを可能ならある程度分別しながら、方法などどうでもいいがたとえば線を引いたりハイライトしたりして絞り込む。

それから、改めて読み直す中で、分量(ボリューム)のせいで意識できなかった全体の構造を、減らした分量の中から自分なりに明らかにする。全体構造把握のための作業負荷が高いことが論文と一般書籍の大きな違いである。

0-5. 客観的に著者の意見を学んでも賢くはなれない

最終的には著者の意見を吸収しながらも、自分なりの問題意識こそを情報として残す。それが最大限に重要なことである。いくら著者の意見をメモして残しまくったとしても、意味がないとは言わないが、賢くはならないのだ。著者の意見など、正直、失念したならその都度ググれば良い程度のものである。肝心なものは何か。

「客観的に本を読む」なんて支離滅裂な言葉を発しないで欲しい。本は主観的に(己の知の輪郭に合わせて)読んでこそ、読み手の知に大きく働きかける。本は個人的な動機に基づいて書かれている。論文ではないのだ。データを拾うのではなく著者と対話すべきである。

そして、

著者の意見などまとめるな。自分の意見をこそまとめろ。

それが読書である。

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読書案内はここまで。本の内容に大きく踏み込んだ論考(僕の意見)は続編として別記事にて改める。

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にしむらもとい / ジェイラボ所長

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