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Think difficult ! part2「文章表現の真実」 -情報と表現の差異【全文公開】

どんなに難しいことであろうと、小学生でもわかるやさしい言葉で説明できること。

それは、とても大切で、とても難しいことである。

ただ、問題は、本当にその言葉の持つ意味、歴史、肌触りのようなものまで含めて正しく表現できているか、である。難しい概念をわかりやすく説明するということに僕は常々疑問を抱いている。将来、知性で飯を食っていくことを目指す受験生であるなら、それくらいの疑問も持てて欲しいと思う。

前回の「学力とは何か」でも書いたが、高度に抽象化された概念をわかりやすく表現すると、具体的な局面に束縛され、表現の幅が失われる。明らかに情報が変容する。抽象化されているからこそ認識できることというのは、具体的には語り得ない。しかしながら、「難しいことを簡単に説明できる人こそが頭が良い」という戯言がまかり通っている。難しいことを簡単に説明できる人とは、嘘をつくことに抵抗がない人のことである。抽象物を具体的な説明で理解するというのは、あくまで理解の真似事である。

「サルでもわかる○○」みたいなタイトルの書籍がたくさん出ている。しかし、だいたいにおいて、やっぱりその真髄は「サル」にはわからないし、かと言って「ヒト」が読むと今度は全然物足りないという、残念な仕上がりになっていることが多い。「サルが書いた○○」なら納得の出来映えと思える書籍は多い。

他にも、いまさら時間をかけて古典的名作の全てに触れるわけにもいかないので、あらすじと解説を寄せ集めてまとめて読もうという「忙しい人のための○○」みたいなダイジェストものもたくさんある。実はこの手のものは「サルでもわかる」よりは価値があることが多い。事実、僕も知識として脳内ライブラリに放り込みたい時には使うこともある。元々知識のインプットしか求めていない時は知識のまとめは役に立つ。しかし、敢えてネガティブな表現を使うと、これも、オリジナルに触れる「体験」を奪う野蛮行為であると言えなくもない。

そもそも、本質というものは、外面的な見た目を着せ替えても、変わらないはずのものである。本質とは中身のことなのだから。難しいものはどこまでいっても難しいし、苦労して時間をかけるべきものには時間をかけなければならない。物理も数学も知らない人間に相対性理論が一言で説明できるなど大嘘である。

ともかく、難しいものを理解するのには、各自の理解度に合わせて一定の時間がかかるというのは大原則で、それは絶対に正しい。「たった一年で東大に合格できる本」という本があったとする。それは、勉強に対するある程度の素養やいろいろな条件を考慮した上での(条件を満たした)一年を指している。だから、生まれてこのかた全く勉強などしたこともない人がその本を読んで勉強を頑張ったとしても、絶対に一年で東大に合格することなどできない。最低限やるべき学習の絶対量を中学生レベルから見積もれば、一年では絶対に足りない。それはもう絶望的に足りない。言い回しを工夫して印象の操作をしても、本質や事実は絶対に変わらない。

体験について他の例を挙げると、例えば、3時間の映画を観るのとその15分ダイジェストを観るのとは、全く異なった体験である。もしその長編映画がとてつもなく退屈な映画だったとすると、3時間ひたすら退屈な時間を過ごすことになる。それはかなりの苦痛だ。その苦痛と、「その映画は退屈だ」という内容をメタ的に表現した短いダイジェストを観るのとは、全く違う体験である。それはわかってもらえると思う。あるいは、コンサートを実際に会場まで鑑賞しに行くのと、家庭用映像機器で鑑賞するのも全く異なった体験である。歴史あるコンサートホールそれ自体の迫力ある造形、人々が集まり同じ目的を共有しているその空気感、デジタル化に乗らない音域をふんだんに含んだ生音の豊かさ、実際の音量の迫力、そういったものは、少なくともいまの映像機器では再現できない(いずれそれすらも再現できる技術が開発されればこの意見は撤回する)。その上で、「それはまあ別物なんだけどね」ということを理解しつつ、「忙しいサルでもわかるようにサルが書いた○○」を敢えて利用するのであれば、それもまた正しいことであると思う。本来的な体験は失われているが、わかった上で「部分的な情報構造を取得したいだけだ」というモチベーションで触れるのなら、全然構わないと思う。

ただ、体験を欠いた情報は、自身を変革するほど大きな意味を持つことはない。「それ」をいくら入力しても、知識が増えるだけで自身が成長することはないということだ。入り口として情報は必要である。けれども、どうか、そこで立ち止まらず、ちゃんと後付けでも良いから「体験」をすべきだと思う。知識と体験は違う。

もう少し受験寄りの話をすると、例えば、生物を学ぶ生徒にとって、中途半端に範囲制限されることでかえってわかりにくくなっていることが、かなりある。特に生化学的な分野については、どこまで覚えたらいいのか参考書を見てもマチマチでよくわからない。東大京大レベルであれば変な知識問題は出題されないが、広く入試問題を見ていると、どこらへんまでが記憶すべき知識なのかの線引きがかなり曖昧に感じる。教えるなら徹底して全部教えれば良いのにと思う。全体像を把握することが納得という「体験」を生む。納得の伴わない知識(体験を欠いた情報)は、脳内でも端っこに追いやられる。これから学問の道に入ろうとする生徒に知識の出し惜しみをする理由がわからない。とは言うものの、教育課程に入っていないものは、こちらとしても強制的に教えるわけにもいかず、いろいろ気を遣う。それでも、メリットが上回るものは課程外であっても教えようかということもあったりする。

受験生はサルではない。サルにわからせるという目標設定は必要ない。「サルでも受かる簡単医学部」みたいな嘘をつくより「ヒトならちゃんとわかる受験勉強の全て」という形できっちり全てを教えた方が近道なのに、と常々思う。

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さて、今回の話の着地点はどこか。「僕が日頃使う(書き)言葉がカタいこと」に理由があることを、少しだけ説明しておきたかった。このカタさは今後も続く(申し訳ない)。僕の使う言葉は理屈っぽい。長い。断言が多い。エラそうである。およそ、ウェブで文章を読者に読んで「いただく」ための原則からも大きく逸脱している。じゃあ、なぜそんな書き方しているのかというと、一つにはその書き方が好きだからだが、もう一つには、文章の目標設定がそうさせている。普段話す言葉はこんなにカタくはない(つもりだが……)。

文章を書くときの僕自身の意識として、情報と表現は違うというものがある。ここで僕が伝えたいことは情報ではない。「役立つ情報」をただ提供するだけなら、僕ももう少しわかりやすい書き方をする。シンプルにデータを読めるよう、余計なオリジナル表現はつけないし、受け入れてもらいやすいように語尾を柔らかくする。しかし、情報提供ではなく自分の考えを「表現」しようということになると、話は別だ。読者に自分の感じていることを「体験」して欲しいという意味合いが出てくる。そうなると、僕の考えを噛み砕いてただ情報として伝えるという選択肢はとれない。読んでいて、まわりくどく感じる部分があるなら、それはそこで回り道をして考えて欲しいという意図があるし、前提知識がないと読めない部分があるなら、知識があるか、なければ調べるくらいのモチベーションがないと読めないよという目印である。

断言口調もエラそうに感じるかもしれないが、これも意図がある。「そうかもしれないし違うかもしれない、それはひとそれぞれだから判断は皆さんにお任せする」といった保身のためにどっちとも取れるような読みにくい上に結局何が言いたいのか意見が見えない「筆者不在の表現」という無駄を省いているだけだ。筆者不在の何も内容のないスカスカの文章を読まされるほど無駄な時間はない。だから、文章はできるだけ「責任をもって断言する」ことを心がけている。自分で断言できないことを書くと、途中で意見がぶれてくるし、そもそも何かを書くのであれば断言できるレベルまで至ってから書く。最後に、個人的な好みの問題として、文章として少しでも文字数を減らしコンパクトにできるという観点からも、断言口調が好きだ。念のために補足するが、断言できないことまで断言したいわけではなくて、断言できること「だけ」を書いている。書くなら曖昧さを残したくないというだけのことである。

つまるところ、僕の頭の中をなるべく忠実に再現するとこういう文章表現になるということであり、言い回しを変えてしまうと、僕の頭の中の再現にはならなくなる。そもそも、わかりやすい言葉遣いで文章を書く人は、頭の中もわかりやすい言葉でふんわりやさしく構成されているのだ。それも素晴らしい個性である。僕も、それを模して書くことは、労を厭わなければできる。普段話をするときはもっとふんわりした話をする。もしも、何かをわかりやすく解説すること、中身を変換して再言語化することを仕事として依頼されたなら、当然その趣旨に従って、読者の歩調に合わせた文章を書く。全ては、「誰を読者として想定し、何を目的とするか」である。

最も大切なこと。文章には「目的」があり「読者」が存在する。文章の評価というのは、文章それ自体にはない。目的とのマッチングによって決まる。自分が「読みたいことを書けば良い」というモチベーションは、書き始めるまでのハードルを下げるのには大いに有効だが、文章の質を高めるものではない。自分が「読みたいこと〈から〉書いてみれば良い」という表現なら誰からも文句は出ない。

受験において「小論文」を書くときも、建前上はきちんと「読者」を想定してその視線を感じながら「目的」に沿った文章を書かないといけない。ただ、受験においては個性的過ぎる表現はプラスには働かないことが多いので、減点のリスクを避け、つまらない無難な文章を書く羽目になる。僕は小論文が大嫌いだ。「小論文」で試されているのは表現力ではない。構成力、つまり、「目的」を達成できているか、客観的、論理的に思考できているか、だけである。だから、実際のところはさほど読者を意識する必要はないし、自分の頭の中を再現するという「表現」をする必要もない。必要な情報を機械的に構成して書き出すだけだ。プログラミングに近い。

僕がここにあげている文章も、「学習者」の目にさらされることを意識して書かれている。

結論。

「難しいことはきちんと難しく」

"Think difficult!"

「当たり前」はごまかさない。

「難しいことがとても簡単にできる」という「嘘」が横行している。そんな「嘘」に惑わされず、「難しいことを難しいままちゃんとこなせる」ひとになって欲しい。

たとえば、文章を書くことは、とても、とても、とても、とても、難しい。

しかし、書き始めること、それ自体は難しくない。

僕ができる助言はそこまでである。


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