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ジェイラボワークショップ第35回『表現研オリエンテーション』【文化表現研究部】[20220718-0724] #JLWS

持病のためと活動方針の迷いからしばらく活動停止していた僕の趣味活動である文化表現研究部(表現研)の活動を再開しました。以下、一週間で行なったオリエンテーションのログを公開しておきます。

Day1 アンケート

■にしむらもとい

さて、活動再開した表現研でございますが、表現研の趣旨と今年度の活動方針をオリエンテーションしていきたいと思います。 今年度はe-sportsを実際に体験することを主な趣旨にしておりますが、何故そんなことになっているのかということまでお話を持っていくことがこの一週間の目的です。 元々表現研はアニメマンガゲーム(場合によって実写作品)などのオタク的な文化の研究というのを活動目標としておりましたが、とっつきやすい研究対象であるにもかかわらず、頭でっかちに「研究する」という姿勢が強すぎたのか、参加してくれる方はあまりおりませんでした。今年度は方針を大幅に変更して、表現の受容ではなく能動的体験を重視して活動していきたいと思っております。 そうは言っても、ワークショップは思考の場ですので、それなりにテーマに沿って思考はしていきたいところではあり、この一週間は「表現って何だろう」ということに「浅く」触れていきたいと思います。 初日ですのでまずはユルくアンケートを二つ置いてみます。

■アンケート

皆さんには何か表現したいものがありますか? ジャンルは問いません。もしある方は良かったらどういったものを表現したいのか教えてもらえると嬉しいです。教えたくないという方は「ある」の選択だけでかまいません。
ある    18
@蜆一朗, @Tsubo@chiffon cake, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen@Takuma Kogawa, @ジパング, @あんまん, @イヤープラグさざなみ, @Yujin@Hiroto, @ゆーろっぷ, @にしむらもとい, @匿名希望, @西住, @シト, @Daiki, @イスツクエ
ない    3
@YY 12@Yuta, @コバ
何らかの表現物(作品)において、皆さんが重要性(価値)を認めるポイントは何ですか? 思いついたものをランダムにいくつか挙げておきますので、複数選択可で回答をお願いします。ここにない視点をお持ちの方は教えてもらえると助かります。
技術水準の高さ    11
@Tsubo@Naokimen@Takuma Kogawa, @ジパング, @イヤープラグさざなみ, @ゆーろっぷ, @匿名希望, @西住, @Yuta, @シト, @イスツクエ
発想の独自性    18
@チクシュルーブ隕石, @Tsubo@chiffon cake, @YY 12, @ジパング, @Shun, @イヤープラグさざなみ, @Yujin, @ていりふびに, @蜆一朗, @Hiroto@Naokimen, @ゆーろっぷ, @あんまん, @匿名希望, @シト, @コバ, @イスツクエ
シンプルなわかりやすさ    4
@ジパング, @にしむらもとい, @匿名希望, @蜆一朗
複雑性(情報構造が練られているか)    8
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Tsubo@chiffon cake, @イヤープラグさざなみ, @匿名希望, @西住, @シト
感性が合うか(絵や文体、メロディーなどについて)    16
@チクシュルーブ隕石, @Tsubo@YY 12@Naokimen, @ジパング, @Shun, @イヤープラグさざなみ, @Yujin, @ていりふびに, @ingen, @ゆーろっぷ, @匿名希望, @Yuta, @シト, @コバ, @Daiki
思想への共感    12
@蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @Tsubo@chiffon cake, @ジパング, @ingen, @ゆーろっぷ, @匿名希望, @西住, @Yuta, @シト, @Daiki
大衆受け    3
@Takuma Kogawa, @にしむらもとい, @Daiki

■にしむらもとい

本日は以上です。

■Takuma Kogawa

・表現したいもの
内から湧き出るものを飾らずに表現したいと思っています。これはジャズやファンクでの経験が大きく影響しています。アドリブはその場の雰囲気で流れが変わり、私は精密に組み立てるのではなく頭が空っぽの状態で演奏していました。これはこれでいいと思います。
・価値を認めるポイント
時代をふまえた技術の高さは、それはそれとして素直に価値を認めています。大衆受けするものを自分が好むかは別として、少なくともその軸で成功しているなら価値を認めざるをえないと考えます。それ以外については、個々の表現物次第なところがあり、それ単体での評価は難しいです。
自分がその表現物に対して良いと思うか悪いと思うかによって、価値を認める気持ちになるかどうかは左右されると思います。理想的には、表現物の感性や思想が自分と合わなかったとしてもどこに価値を見出せるか検討することが重要ではないかと考えます。

  • にしむらもとい
    内から湧き出るものを飾らず表現したいというのは、結果的にいまの時代の空気には合っていると思います。
    価値に関しても、僕も大衆受け(とシンプルなわかりやすさ)に重点を置いています。自分が表現する側であるという自覚を持った時に視点を増やしてくれますので。もっとも、それを自分の表現に取り入れるかどうかは別問題で、あくまで自分の視野を広げるためという意味で、僕もそうしています。

Day2 表現とは何だろうか

■にしむらもとい

本日は表現とは何だろうかということについて、ユルく考えていきます。
表現というのは、本来は「何かを表現したい」という個々の欲求がスタートであったはずですが、僕の中では、もはや表現は「するもの」ではなく「されるもの」になったのではないかという実感があります。それはオリエンテーション後半でお話ししますが、そもそも、何故人は「表現したい」あるいは「したくない」のでしょうか。つまり、当人が表現欲求を持つか否かによらず、人間が「表現」という概念とそれに対する「欲求」という概念を持っているのはなぜかということです。
表現の原点は、言語表現(かなり広義な意味になります)でしょう。つまり、人間が互いにコミュニケーションを取ることそのものが、表現の応酬であり、「表現したいしたくない」は、「コミュニケーションしたいしたくない」とほぼ同義と思います。ゆえに、表現作品も人間から切り離すことは能わず、僕は「作品とはコミュニケーションそのものである」と捉えても問題ないと考えています。
他者に伝えることを想定しない表現というものがはたして存在し得るかというと、原理的に存在し得ません。誰にも伝えないことを目的として表現されたものがあるとして、既に「誰にも」と言っている時点で他者を想定しています。表現という行為自体が原理的に他者を内包しています。
ここまで広義に解釈すれば、人間の営為のほぼ全てが表現の範疇になってしまい、それはそれで今度はわかりにくくなってしまう気がします。なので、より独自性が高く、その表現に求められる技術レベルが高いもの、すなわちその表現を生み得た環境(クリエイターの才能その他様々な要因)の「希少性」が、一般的には価値として評価されやすかったはずです。
いまとなってはどうでしょうか。本当に、才能あるクリエイターが生み出した独自性の高いもののみを価値の高い表現として評価しているとはとても言い難い世の中になっています。表現の価値は、おそらく質的に「価値がある」と思われることではなく、量的に他者により広く長く「触れられる」ことへ移行しています。これは以前からそうだと言えばそうなんですが、「価値があるから触れられる」から「触れられているから価値がある」へと順番が変わっています。このお話は「価値とは何か」という定義の問題も含んでおり、ここで言う「価値」は時代の要請を指しています。表現研では時代を考察することを活動目的としていますので、こういう視点を重視しています。
Social Media(SNS)が浸透した今の時代においては、共有を前提とせず純粋に表現物(作品)のみとサシで向き合って価値を判断することにほとんど意味がなくなりつつあります。その分野を専門とする評論家がいかに価値を認めても、その後広く共有されるかどうかのみがその価値を担保します。
今の僕の話は少し時代の先を読み過ぎなきらいもありますが、よりわかりやすくするために究極的な話をすると、これまで表現されてきたような作品はそれこそ機械学習的なアプローチでいつか量産されるような未来もあり得るかもしれません。機械が小説を書くような時代はそう遠くない気はします。そうなってくると、一体個々人における表現の価値とは何なのかということがもはやわからなくなってきます。
僕が作品としての文化表現物への興味をやや失い気味であることはここに理由があります。僕の嫌いな作品として『進撃の巨人』というマンガを敢えて挙げてみます。一般的にはこの作品は、伏線が練られていることが非常に高く評価されていますが、僕は全く伏線の面白さを感じませんでした。僕はこれまで書いてきたいくつかの論考で「人間不在」というキーワードを挙げてきたんですが、それの最たるものです。(本当は『十三騎兵防衛圏』というゲームの話がしたかったんですが、よりメジャーな方を選択しました。)そして、それこそがいまの時代における表現の価値なのだと思います。「人間自体」も、もはや切り抜けるデータであるということですね。かつて人間が「純文学」というものを嗜んでいた、そんな時代はもう完全に終わりました。(正確にはその宇宙は大勢から切り離されました。)
一般に「文化」や「表現」という言葉を聞くと、「芸術」や「文学」というジャンルをイメージすると思いますが、それはもう、ほぼ死んだと思います。テクノロジーが、あらゆるジャンルのメタを可能にしたからです。
というわけで、本日のお話はここまで。

■西住

人間不在作品としては進撃よりも十三騎兵防衛圏の方が圧倒的でしたね。純度100%の人間不在度。

  • にしむらもとい
    十三騎兵は強いて言うなら人間を不在化するといっても人間をデータ化して切り刻むというジャンルであったかと思います。進撃は人間の行動原理や感情、動機の描写が浅く、シンプルに不在だったように感じます。

Day3 表現としての学問

■にしむらもとい

ジェイラボにいる皆さんは、学問的な素養に恵まれている方が多いように思います。別にそれが偉いと言っているわけではありませんので、そうでない方も気後れする必要はありません。一応、この場にはそうした方が多いという環境を考慮して、本日は表現としての学問について少し触れてみようと思います。
当たり前ですが、学問も表現です。個々人が持つ狭い定義では表現と認めたくない人もいるかもしれませんが、広義には間違いなく表現です。僕は表現手法としての学問には魅かれず脱落した人間なので深く入り込んだ考察をすることはできませんが、空気には触れましたのでどういう世界なのかの想像はつきます。
表現手法としては、学問の世界は非常に硬い。それは良い悪いではなく、事実としてそう感じます。もちろん、どんなジャンルであれ素養(知識や技術)が求められることは当然と思いますが、素養なき者の許容度が圧倒的に低い。
何故かというと、学問は個人の表現ではないからだと思います。学問とは、いわば「全人類による積み木」のようなもので、個人の主張で全体のバランスを崩すような積み方は決して許されず、先人たちが積み上げてきたものを踏まえて「正しく積む」ことが絶対的に求められます。積み方のみが表現(コミュニケーション)として交換され、ではその積み方の正しさを何が担保しているかというと、正直僕にもわかりません笑 既に何を正しいと認めれば学問の世界が構築されるのかは「積まれて」しまっていますので、新しい積み方を提案することは非常に難しい。その限られた積み方の中で正解を見つけてゆくしかない。ごく稀に、これまでの積み方を否定するようなアイデアが出てくることがあり、それが大きな進歩をもたらすわけですが、それをするにあたっても、既存の積み方を徹底的に理解した上でなければ、決して受容されません。
これは「自由に考えるとは何か」ということに示唆を与えてくれます。
既に積まれたピースが多すぎて、学問の道に進む皆さんのほとんどは、積み方を学ぶだけで大半の時間を使ってしまいます。人生を終えるまでにたった一つでも新しいピースを積めれば御の字というところなのかもしれません。全く新しいオリジナルな積み方のアイデアを出すなど、普通のやり方(才能)では難しそうです。
僕が学生という身分に片足を突っ込んでいた時代に、学問を修めている過程の学生と話していてよく感じたのは、新しいピースを積むことより既存の積み木の構造を学ぶことそのものに既に快楽を感じてしまっている人が多いということでした。これは僕の偏った個人的な環境によるものかもしれませんので一般化はしません。それでも、他の表現ジャンルと比べて、独創的であることへのハードルが高すぎるため、ただ素養を身につけることだけで表現者として満足を得てしまいやすいジャンルではあろうと思います。
そんなわけで、ついでに少しアンケートを置いて本日はここまでとします。

■アンケート

皆さんにとって、学問を修めるとしてその目的(動機)は何ですか?(複数選択可・ここにない動機をお持ちの方は良かったら教えていただけると幸いです)
生きてゆくため    9
@Naokimen, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @チクシュルーブ隕石, @Yuta@Yujin@ingen@Daiki, @イスツクエ
素養を身につけて視野を広げたい    10
@YY 12, @イヤープラグさざなみ, @蜆一朗, @Shun, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @ジパング, @Hiroto, @シト, @Yuta
身につけた素養を社会に応用したい    4
@蜆一朗, @Shun, @シト, @匿名希望
全く新しい概念や理論を発見したい    4
@チクシュルーブ隕石, @Naokimen, @ていりふびに, @コバ
わからない    1
@にしむらもとい

■蜆一朗

僕は今博士課程におりますが、"新しいピースを積むこと"はおろか未だに"既存の積み木の構造を学ぶ”段階にあるので、正直まだ最先端の研究が何をやっているかを詳細に語ることはできません。修論でやったことや今やっていることも、すでに得られた結果の条件を少し変えてみているだけで、それほど新規性もなく時間がたてば誰かがやっていたと思われることだけです。もっとも数学という学問の特性も影響しているかもしれませんが、今自分がやっていることを堂々と研究とは言えず、肩身の狭い思いをしています。ですが、今現時点でどのようにピースが積まれているのかが最近になってようやく少しづつ見えてきているので、もう少し頑張ればやっと研究らしいことができるのかなという気もしています。
今僕がなぜ数学をやっているかといえば、教職免許を数学で取ることにしたからでした。高校数学しか理解していない状態で教えるのはさすがにダメだろうと思い、せめて学部3回生までに習う代数幾何解析を理解したうえで何か1つ専門的に勉強したことを持っておきたいと考えたのが最初の動機です。こう振り返ってみると、今までの自分は"ピースを積み上げる"ことではなく"積み上げられた蓄積"およびそれ"伝える"ことを最大の動機として大学生活を送ってきたのだなと思います。古典や歴史が好きだったのもある意味そうかもしれません。もっというと、自分には新しいものを開拓したいという精神や、自分の中にあるものを表現しようという気持ちもほぼないと思います。少なくともその感覚に自覚的ではありません。
(追記)
「生きるため」に入れたのは、資格を取ることではなく歴史や社会について学ぶことも含めています。

  • にしむらもとい
    最先端の研究を理解できる程度の素養を身につけた上で「伝える」側に回りたいという動機はよく理解できます。

■チクシュルーブ隕石

今のところは既存の理論を学ぶことが楽しいという理由も込みで学問を修めたいと思っています。それと同時に事前に既存の理論を知らずに自分自身で同じような事を考えることができた時にも同じく楽しさを感じます。
以上のことから自分自身は最終的な目標・動機としてはオリジナルなものを残せるかもしれないという理由で学問しているのだと推察しました。

  • にしむらもとい
    とりあえず目先で既存の理論を学ぶことを楽しいと感じられることは素晴らしいことですし、楽しいことを続けてゆけるのならそれもまた素晴らしいと思います。オリジナルな視点にたどり着けるかどうかというのは、意識しすぎると研究目的が転倒する気がしますが、そうした動機があることも十分理解できます。

■Takuma Kogawa

国家資格をとることを明確な目標としており、ただ将来の生活のために勉強していました。素養うんぬんは結果的にそのような効果もあると思いますが主目的ではありませんでした。

  • にしむらもとい
    全くもって正しい動機だと思います。

■Hiroto

学ぶのがおもろくて学んでいます。今までは受験という大義名分を利用してエンタメを楽しんでいた、という感覚です。
その流れというか余韻で今も大学で学んでいますが、学んでさらに研究することがおもろいと思える分野に出会えるか分からないため、今絶賛悩み途中です。
アウトプットも、自分の研究おもろいから共有したい!!!という動機が健全だと勝手に思っていて、それが「表現」になりうるかは今の時点ではよくわかりません。

  • にしむらもとい
    僕がいま表現として扱っているものは独特な、かなり広義なものなので、わかりにくかったかもしれません。たとえば学問における表現とは論文(議論そのもの)という認識です。それをメディアを通じて一般向けに砕いて発信することはアカデミックとはまた別な文脈での表現ということになろうかと思います。もちろんどちらも表現であり、基本的に、自分の中から出た情報が誰かに伝わることを僕は全部表現と認識しています。それを価値判断して共有する対象として扱うかどうかというのは、別な問題な気がしています。広く共有してもしなくても表現は表現であり、ただ、広く共有することで表現は一種の通貨になるのだと思います。

Day4 表現としてのスポーツ

■にしむらもとい

さて、昨日は人類全体の共同作業的表現としての学問について少し触れました。本日はまた別な視点として、スポーツというものに触れてみたいと思います。
一応今回はスポーツを個の表現として扱ってみます。これは、対象とするスポーツがルール上団体戦か個人戦かということとは無関係です。スポーツの世界でも、もちろんこれまでにたくさん「積まれて」いるわけで、一定の素養が必要なことは変わりませんが、その上で成される表現の自由度が、学問などと比べて圧倒的に高いと思います。より正確には、積まれたものの踏襲度より即興性(身体性)が重視されます。積まれた理論に基づいてトレーニングをするとしても、その結果を決めるのはトレーニングの理論的整合性ではなく、運まで含めた試合時のパフォーマンスです。これは芸術のジャンルも近いものがあるかもしれませんが、芸術は理論的整合性の要素をより多く含んでいる(何を良いと判断するかの基準が硬い)気がしますので、スポーツを例として選択しました。
スポーツにおける表現というのは、基本的には試合におけるパフォーマンスですが、何もレベルが高くなければ表現として認められないというものではありません。レベルの低いアマチュアスポーツの試合も、もちろん表現だと思います。それが表現ではないというのなら、アマチュアがスポーツをやる理由がありません。自身の健康だけを目的にスポーツをやるのだとしたら、それはスポーツではないようにも思います。健康のためにテニスを始める人がいたとして、毎日一人で壁打ちをしてそれで満足しているのだとしたら、それはスポーツではないと思います。どんなレベルであれ、大会でも何でもないただの日常のお遊びであれ、試合をする(ことを目的とする)のがスポーツであろうと思います。
そして、学問における表現が最先端であることに比して、スポーツにおける表現がトップレベルであることというのは、繰り返しますが理論より実践(脳より身体)が重視されます。芸術の類はその中間くらいのイメージで僕は認識しています。 ひとまず、いま挙げた学問とスポーツという表現としての両極端を意識することで、いま僕が表現として扱おうとしている射程がどういうものなのか、なんとなく理解してもらえるのではないかと思います。皆さんが、仮に何か表現したいものを持っているとして、それは必ず理論と実践(脳と身体 / 中枢と末梢)の要素を含んでおり、そのバランス配分によって様々な表現ジャンルが構成されているのだと思います。
以上、とにかくあらゆる人間の営為が表現であるという僕の主張を踏まえた上で、明日以降本題に入りたいと思います。 せっかくなので、おまけとしてアンケートも置いておきます。

■アンケート

皆さんがスポーツの試合を楽しむ際に(実際にプレイするのでも観戦するのでも)重視する視点は強いて言うなら以下のどちらですか? もちろんどちらも重要ですが、たとえば一流選手のスーパープレイを観れたとして、どちらにより感動するかと考えてもらえればわかりやすいかもしれません。これは対象とするスポーツによっても変わってくると思いますので、良かったらどんなスポーツにおいてそう思うのかも合わせて教えてもらえると嬉しいです。
個々の能力や技術などの身体的要素    12
@YY 12@Shun, @コバ, @チクシュルーブ隕石, @Naokimen@Hiroto@Daiki@ingen, @イスツクエ, @にしむらもとい, @イヤープラグさざなみ, @Tsubo
対策や戦術などの事前準備要素    5
@蜆一朗, @ジパング, @ていりふびに, @ゆーろっぷ, @Yujin

■ていりふびに

自分に一番馴染みのある卓球について回答しました。
プレイする側、観る側両方に関して試合では戦術を重視します。
①自分の試合
僕の回りには勝つことよりも楽しいラリーをすることを重視している人もいます。実際、僕も大きいラリーをするのは楽しいとは思いますが、結局負けると悔しいので、勝つための戦術を優先します。
②他者の試合
観る側についてですが、あまりに技術面に差があると観ていても面白くないので、技術的に近いレベルの試合が楽しいです。結果、戦術面での駆け引きの方が面白いと感じます。

  • にしむらもとい
    自分が詳しくないスポーツについての意見はありがたいです。ど素人の目では、卓球を戦術重視で観戦することはなかなか難しいですが笑、テニスと似たようなものでしょうか。ルールがある以上絶対に戦術が存在するはずなので、一定の技術が身について以降、戦術の駆け引きが試合の面白さを左右するのであろうことは、理解できます。

■ていりふびに

表現としてのスポーツですが、僕は卓球をしてる時が一番表現できていると思っています。
ちょっと前まではムキになって自分のプレースタイルを貫き、自分の表現をしたくなることが多々ありました。
最近は落ち着いて冷静に試合運びをできるようになってきましたが、それも含めて自分の表現だと思っています。

  • にしむらもとい
    まさにそういう部分がスポーツの表現だと僕も思います。

■蜆一朗

自分が語ることのできるスポーツは野球だけですが、そこだけを見ても個人の能力や技術だけがものすごく先行している気がします。僕はそのあり方に懐疑的です。イチローは引退会見で「ベースボール(メジャーリーグ)は頭を使うスポーツではなくなってきている」「野球は頭を使うスポーツであってほしい」という趣旨の発言をしました。細かい作戦なんか考えなくてもホームランを打てばいいじゃないという流れになりつつあることを、走攻守すべてをハイレベルにこなし、直接得点に繋がるわけではないヒットを重ねることに徹底したイチローならではの視点で的確に指摘したものだと僕は認識しています。
ホームラン、160キロ、三振のような派手なプレーはとてもわかりやすく、野球に詳しくない人にもその凄みは伝わるでしょう。趣味が細分化した現代では、そのようなわかりやすい特徴を持った選手を中心にプロモートしていかないと人気が維持できないというのもわかります。もはや野球は個人競技になりつつあるのだなと思うこともあります。
僕個人としては、ただ高い技術を見せつけるだけでは表現として微妙な気もします。それを実感するのがスポーツとは関係ないですがカラオケの採点番組(得点を競うので競技と言っても差し支えないとは思います)です。あの類の番組に出演する人は、そもそも歌が上手くないと歌えないような歌を歌いますが、音楽に疎い僕は「なんか知らんけど凄いんだなぁ」以上の感想を持てません。素人なりに素人とプロとの違いを理解できるようなプロモートや解説があるといいのになぁと思います。
戦術というのは、ある程度の技術や能力が必要であることはもちろんですが、万全でなくとも持っているもので何とかしようとする工夫のことを言うと思います。その工夫が結実して弱いものが逆転するシーンは痛快だと思います。
こう考えるとなぜ僕が巨人を応援してきたのかますますわからなくなってきました。

  • にしむらもとい
    「ベースボール」の成立については、以前表現研でeスポーツを扱ったときに軽くまとめたものがありますので、念の為に下にリンクを貼っておきます。
    野球は基本的にチームスポーツでありながらサシでの一騎打ち勝負が重視されるという、かなり特殊なスポーツですね。そんな中で、例えば野村監督が推しておられたようなデータを異常に重視した試合運びというのは、一つの振り切ったスタイルとして面白かったと思いますし、何より野村監督はとてつもなく頭が良く柔軟な方だったと思います。しかし、そんな野村監督ですら、新庄のようなわけのわからないデータ外の選手を除外するのではなく特殊な駒として認めようとしていたように、結局駒が人間である以上、チェスや将棋のように戦術オンリーでは試合は運べないのも面白さであろうと思います。下の考察で述べているように、野球は緻密な戦略とその戦略をぶち壊す個のバランスこそが本質であろうと思います。であるにもかかわらず、野球の個の部分ばかりがフィーチャーされてしまうのはなぜかというと、やはり蜆君の言う通り、趣味が細分化しすぎたためだと思います。
    チームスポーツとしては僕はサッカーの方が好きで、サッカーにもそれぞれの時代の流行りの戦術というものがあり、金満クラブは超一流選手を駒として揃えますが、実際の試合では戦術のぶつかり合いの中で弱小チームが勝つこともあり、そこに面白さを感じたのも事実です。それでも、僕の意見としては、戦術要素よりは普通の人間にはとても真似できないとんでもない個人プレイを観ることに興奮を覚えましたし、そうした「個を前提とした」戦術にこそ面白さを感じました。真なる弱小チームがジャイアントキリングする醍醐味が好きな人はとても多いですが、そんなことは本来互いにまともに対策し合えば起こり得ないことなので、僕はそれは純粋にスポーツ的なものではなく、油断や反骨心などのどちらかと言えば文学的、人間的要素としてとらえています。
    表現としてメディアに乗せることを前提としたときに、趣味が細分化され過ぎた今の時代において、個々のスポーツの戦術の要素は専門性が高すぎて扱いが難しいのは間違いないと思います。あるいは、極論、チームスポーツを戦術のみの視点で観るなら、正直スポーツではなくチェスや将棋などで良い気もします。駒が「生きている」ことがスポーツの面白さと考えると、スポーツの究極の本質は、全体(戦術)ではなく個(能力)なのかもしれません。
    問題はそこ(個を重視すること)ではなく、アマチュアレベルの個を表現として認める土壌がない部分にあるのかなと思います。身の丈の表現の扱いが低すぎます。それが解消されることが僕の思想に近いと思います。
    P.S. 巨人ファンはそろそろやめることをお勧めします笑

■Hiroto

リフティングをやっていて、まさに脳と身体の関係について思いを馳せているところでした。
明らかに学問とは異なる成長の仕方をしているため、脳と身体との使用バランスが学問とは全く異なるのだろうと思っています。

  • にしむらもとい
    そうですよね。「身体性」についていくら思考しても、「思考の身体性」という側面の体験しか得られず、身体そのものを感じることはできません。身体を動かすと、当たり前ですが、思考にも限界があることに気づかされます。思考原理主義がいかに視野を狭くしていることか。たとえば、「現場」に出ることの意味は思考しているだけでは実感できないということにもつながる話だと思います。

Day5 交換としての表現

■にしむらもとい

本日は、コミュニケーションという側面を重視して、交換としての表現というお話をしてみたいと思います。
我々は日々互いに言葉を交換します。それが一対一である間は、基本的にそこに価値の差異は存在しません。しかし、それを当事者以外の多数でシェアした時に、希少性が感じられる表現には価値が付加されるようになります。
本質としては「価値」の高低は個人の問題のはずですが、「価格」の高低の判断は希少性によって決まります。しかも、その希少性は大衆性による担保が必要という奇妙なねじれを持っています。大衆が認める希少性。真なる希少性には値段はつきません。そのねじれが価値という概念をややこしくしている根源です。僕が疑問を投げかけている「能力主義」も当然、大衆性に担保されています。
では、大衆性とは何なのでしょうか。人間が生来的に持つ思考のクセのようなものだと思います。思考を放棄して多数派に属することに安心を感じる傾向は、どんな人も多かれ少なかれ持っているはずです。僕ですら持っています。今の世の中に歪な点があるとして、それを検討するためには、大衆性の要素はかなり重要な視点です。
資本主義の限界などのワードを最近よく耳にしますが、僕としては資本主義は間違っているのではなく「足りない」のだと思います。希少性の想定が「情報的」ではなく「人間的」であることに大きな問題があります。つまり、「主義」という人間的バイアスで社会を大衆的にコントロールしようとすることはとても「不自然」であるということです。システムをシステムで乗り越えることはできないという主張を以前からしていますが、それは言い換えるなら、主義を主義で乗り越えることはできないということです。資本主義を乗り越える新しい「主義」など存在しない。
そんな中で、僕は人間のコミュニケーションプラットフォームとして進化し続けている情報「技術」こそが、「主義」を上書きし得る可能性を持っていると感じています。現状、(日本ではSNSと呼ばれている)Social Mediaは人間のコミュニケーションを極めて不自然化しているように感じますが、それはそこに「主義(非対称性)」が介在しているからで、純粋な技術のみによってコミュニケーションの場が与えられる日が来るなら、資本主義の不足部分は補われてゆくのではないかとも感じています。
現状、情報技術が表現に与えた(与えつつある)最大の恩恵は、もちろん共有可能性の高さです。特に、動画メディアにおけるストリーミングという手法が「表現」に授けた恩恵が大きい。ストリーミングも、本来は希少性の高い情報のやり取りに利用されることが始まりではあったと思いますが、いまとなっては猫も杓子も、あるいは希少な情報を持った猫でも杓子でもない方も、等しく希少性のない日常情報の共有のためのストリーミングを行ないます。その価値は同時接続数によって演出されるわけですが、それだけでなく、希少性の低い動画アーカイブであっても編集することで希少性の高い切り抜き動画として演出して再利用する手法も日常化しています。
希少性の概念もまた、情報技術によって変化しつつあるということでしょう。これは、頭が良い人の話や一流選手のスーパープレイのみがフィーチャーされてきた風潮を変えるメリットを持つ一方、顕著に直接的ポピュリズム(大衆迎合「主義」)を助長するデメリットも持ちます。それでも、能力主義的な世の中を変える一つの「きっかけ」としては僕は一定レベルまでは歓迎すべき技術と感じています。
学問やスポーツにおいて専門性の高い行ないのみが評価される世界から、よりアマチュアな人々も同様に評価され得る世界への変革。問題は、その価値評価として頼るものが「数」しかないことです。諸悪の根源は、経済学にあります。それはまた別な文脈でお話します。
ともあれ、希少性の概念は、技術によって現在進行形で破壊されつつあるというのは間違いないと思います。表現としては、いずれAIが表現(作品)を生み得るような世の中になることまで想定するなら、誰もが自身の表現を「流通させる」ことが可能になりつつある今の世の中で、表現そのものが持つ「絶対的な価値」というものは、僕にはもはや死んだも同然に感じられます。絶対的に素晴らしいというマスな目線より、それは「誰が誰に対して為した表現か」という小さなベクトルの一つ一つこそが最重要になってくるはずです。そこを個別に評価できる仕組みができてくれば、繰り返しますが、資本主義の不足は補われると思います。それは市場で価格を決めてよいという幻想を破壊しなければならないということでもあります。百万円で買う人間がいるなら百万円で売って良いという世の中は、僕には極めて歪に映ります。自分が持っている資産に応じて、モノの価格に対する感じ方はまるで変わっくるはずだからです。僕にとっての百万円と苦学生にとっての百万円はまるで価値が違いますし、資産家にとっては百万円などほとんど手数料レベルの誤差的な価値しか感じないでしょう。その状態で価格というものを等しく並べて議論することに、僕は意味を感じません。
また話が脱線しました。ストリーミングの世界に話を戻します。僕は以上のような好奇心から様々なストリーマーの配信を日常的に観察していますが、僕個人は全く興味も引かれない名前すら知らないような「誰?」というVTuberがにわかには信じがたい額の投げ銭を集めたりしていることがあり、そうした事実が今の時代をよく表しています。「推し」という文化と同じ構造なのだろうと思いますが、大衆性の概念も少し変容しているのだと思います。大衆性を担保するメディアがもはやマスメディアではなくなったということですね。今後、僕がいま扱っているような「表現」がコミュニケーションとして広く交換される流通の場は、間違いなくいま行なわれているストリーミング技術の延長線上にのみ存在するようになると思います。そして、その価値は絶対的な意味での希少性ではなく、推せるかどうかという個人の好き嫌いの部分が担保するのだと思います。つまり、これまで希少性というものは絶対的なものとしてマスメディアを利用した中身の伴わないマーケティングイメージとして作られることが多かったですが、中身そのものを演出することがイメージとしての希少性に先立ちつつあります。現状、その「中身そのもの」もマーケティングであることに変わりはありませんが、いずれそうではなくなってゆく可能性も感じます。
とは言え、ストリーミングの世界もまだまだ進化の途上であり、いまのところ圧倒的にゲーミングジャンルが趨勢を占める歪な構造をしています。今後はゲーミングだけでない様々なジャンル、長期的に見るならほぼ全ての人間活動を包摂してゆくと思います。ストリーミングの収益化構造などの目先の経済学的な視点はもちろん、その他学問もスポーツも芸術も文化もあらゆる視点において、これは無視できない問題だと思います。そこまで検討した上で、その可能性を検討するために今の自分に足りない体験は何か。それはもちろん、いま趨勢を占めているゲーミング世界の体験です。 というわけで、本日はここまで。明日に続きます。

■アンケート

皆さんが何らかのジャンルのストリーミング(ライブ配信)を観る頻度を教えてください。
日常的に観る    2
@ていりふびに, @にしむらもとい
興味のあるジャンルができたときに一時的に観ることはある    8
@YY 12, @チクシュルーブ隕石, @コバ, @ingen@Shun@Yujin@Daiki, @イスツクエ
ほとんど観ることはない    9
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Day6 何故e-sportsなのか

■にしむらもとい

昨日は、全てのコミュニケーションがストリーミングに収束していくという話をしました。以前noteで書いた『全てがFになる』という記事と近しい感覚です。
現時点でストリーミングを日常的に観ている人というのは、たまたま自身の興味の範囲とストリーミングで扱われているジャンルが合致していて観るモノがあるというだけのことだと思います。そして、現時点でストリーミングをほとんど観ないという方は、たまたま自身の興味やプライベートと合致するものがないから観ていないだけだと思います。おそらく、そういう方は興味の埒外であるストリーミング放送をダラダラ観ることを「時間の無駄」と感じているのだと思います。
僕は、いずれあらゆる人間のあらゆる行ないは何らかのデバイスで常時ストリーミングされるような環境になると確信しています。もちろん、それを公開にするか非公開にするかという選択肢は各自が持つのだと思いますが、極めて私的な範囲のコミュニケーションと遠く離れた知らない人とのコミュニケーションの間にほとんど差はなくなるだろうというのが僕の意見です。現時点では有名配信者に視聴者がぶら下がっている非対称構造になっていますが、そのうち配信者と視聴者の区別も曖昧になり、全員が配信者の立場でネットワークが構成されるようになると思います。日常会話すらもストリーミングに飲まれるとするなら、ストリーミングを観ないというのはそのうちコミュニケーションを取らないと同義になっていく気がします。
いまのところ、ストリーミングの収益構造は市場に晒されているため、配信する側に集約的な構造をしていますが、技術的側面がクリアされてある程度分散型の構造になることで、全人類のあらゆるコミュニケーションを飲み込んでゆく可能性は極めて高いと感じます。
「その後」の世界を想像するために、僕はコミュニケーションをいろいろなレイヤーに分けて考えるようにしています。その中で、特にいまトピックにしているストリーミングのジャンルを理解するために自分に何が必要かを考えました。もちろん、ストリーミング体験を自分でも実際にやってみることは重要で、それは以前から形式的にやってみてはいます。しかし、それはあくまで形だけの問題であり、質として一般に何が行なわれていて何故それが好まれているのかを知るためには、ある程度中身も同じことをやってみる必要があります。それでも、敷居の高さから昨年度はずっと避けてきたんですが、遂に逃げ切れないと覚悟を決め、今年度からe-sportsを体験することを自らに義務として課しました。
自分で実際に経験する中で、かつてゲーム実況と呼ばれていたジャンルとe-sportsのストリーミングは全く異なるものであることも実感できました。いずれ日常が全てシェアされる世界の縮小版がここにあると感じています。極めて限定的な世界ではありますが、e-sportsで想定されたゲーム内世界を「生きる」ことを日常としてシェアしている構図がそこにはあり、自分で実際にやってみればそれは確実に体験できます。
要するに、技術の進化に伴いいまのe-sports的な世界がそのまま日常を飲み込めば、僕がいま言っている未来が完成するということです。 学問もスポーツも芸術も、もちろんエロも、何もかもがシェアされる時代。その箱庭体験がe-sportsの世界に存在します。 念のために言っておきますが、僕はシューティングゲームがしたくてe-sportsをやろうとしているのではありません。未来を体験するための一番技術的に尖ったジャンルがたまたまFPSだっただけです。
というわけで、いまストリーミングに一ミリも興味がないという方も、それは「たまたまである」ということを理解してもらった方が見通しは良くなると思います。それこそ、いまディスコードのボイスチャンネルで会話をシェアするようなことが全ての日常を完全に覆いつくす日が来たとき、それを拒否して生きてゆくことは不可能になっていると思います。そんな未来に想像力を膨らませ、何故いまその最前線がe-sportsなのかを、一緒にプレイすることで考えていこうというのが、今年度の表現研の趣旨になります。アニメマンガその他ゲームについて趣味レベルの話題を共有することだけでは今後の文化について考えるのに、少なくとも僕は足りないと感じています。
表現とはコミュニケーションであるということも既にお話しましたが、その文脈においても、e-sportsを一緒にプレイすることは、かなり濃い表現活動と言えるはずです。初心者がFPSをプレイするまでの敷居は高いですが、僕でもデビューできましたので、興味ある方は是非一緒にやってみませんか。本日は以上です。
明日は、たぶん、ジパング副部長による「VALORANTの世界」的なお話が投下されます。

Day7 VALORANTの世界

■ジパング

一週間お付き合いいただきありがとうございました。最終日は僕からVALORANTについてお話をしたいと思います。
VALORANTは競技性に特化したシューティングゲームで、5対5で攻撃と守備に分かれスパイクと呼ばれる爆弾を設置し起爆させるか起爆を阻止するかの勝負をし、先に13勝したチームが勝者となります。僕自身プレイしてみた感想としてはかなり座学が必要なゲームだなという印象です。マップの細かい名称から立ち回り、アビリティの運用など様々ありこれらを学んで初めて勝負の土俵に立てるといった感じです。初めのハードルこそ高いかもしれませんが、裏を返せばこれらのことを行えるようになれば勝てるようになるということです。
またこのゲームはチーム戦であり、チームの連携がかなり重要になってきます。いかに人数有利が作れるかが重要で、1vs1では運の勝負になってしまうような場面も2vs1にすることで勝率が格段に上がります。そのため敵の人数や位置、キャラクターなどの報告が肝心になりゲーム中はVCが必須と言われるくらいです。ただ、チームでの連携も必要ですが最後は個の力がものを言うと思います。敵の対策された戦術に対して個の能力で圧倒する。そういった所もこのゲームの面白さなのかなと思います。
座学や報告の重要性といったあたりからVALORANTというゲームの競技性を強く感じました。個の力とチームの戦術、2つの要素が絡み合いゲームの競技性という部分が高められているのではないかと思います。ここまでかなりハードルが高そうなことばかり話して来ましたが、VALORANTはアビリティといったキャラクターごとのスキルがあったりと、似たゲームのCS:GOと比べカジュアルよりに作られています。僕もBFといったお祭りドンパチ系のシューティングが好きで、競技向けのシューティングは始める気が起きなかったのですが、アビリティといった要素のお陰で始めることができました。たとえ撃ち合いで貢献できなくても、アビリティを駆使し敵の情報を拾うなど初心者でもチームに貢献することができます。こういった点はかなり初心者にも優しくなっているので興味を持った方は一緒に表現研でプレイしましょう!

■にしむらもとい

表現研のオリエンテーションはこれにて終了です。現状e-sportsに自ら時間を割いて手を出すかどうかは「趣味」の部分が大きいので興味を持たれる方は少ないかもしれませんが、少しでも興味持たれた方は是非ご連絡ください。いまなら皆初心者で始めることができます。VALORANTは特に反射神経より座学ゲーなのでゲームが苦手でもある程度「勉強」する気があれば一定レベルまでは到達できる気がします。興味がない方には、今後も表現研として未知の世界との接点を提供してゆければと思います。一週間お付き合いありがとうございました。

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