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Feel different! 断章x “J LAB Season 4”「能力主義の否定とは - 計画性からの離脱・偶然性・身体思考・並列宇宙」【全文公開】


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はじめに

YouTubeなどでの一方的な情報発信から皆で共に歩むコミュニティ活動へと大きく重心を移したジェイラボ。そのコミュニティ運営も、この2022年4月から4年目に突入する。僕の思想の全てをここで語り尽くすことなどできないが、せっかくなので、この数年で僕に起きた変化、その差分を埋める程度の内容についてお話をしてみようと思う。

コミュニティとしてのジェイラボは、敢えて強い「予測」を立てず、ひたすら場当たり的な制度変更を繰り返し、一期一会のメンバーを大切に、「弱い」運営をずっと続けてここまできた。おかげ様で全くコミュニティは「大きく」なってはいないが、確実に変化はしている。常識的な感覚では子供のママゴト扱いされるような「ちっぽけ」な問題も大真面目に丁寧に対応してきた。ジェイラボの思想をご存知の方には、もちろんその理由は通じているはずである。

無計画という思想

それにしても、場当たり的な制度変更というのは、運営する人間にとってはとてつもない負担であった。参加する人間にとってもそれなりに負担であったと思う。元々僕は大学受験指導までやっていた人間であり、「準備と計画が全ての結果を決める」と考えて生きてきた人間である。特に、大学受験において、「計画」と「合格」はそのまま同値であり、「合格できない」のは「まともな学習計画が立てられていない」からだと感じていたし、だからこそ、かつて受験生には勉強するよりも何よりも先に綿密な学習計画を立てるよう徹底指導していた。既に述べたことがあるが、日本における大学受験の方法論自体は鉄緑会によってもう完全にコモディティ(陳腐)化している。断じて武田塾によってではない笑

僕個人の方法論はそれとはマイナーな差異は含むものの、(世間にくだらないと言われ続けている)受験勉強に関しては、いまもなお「最短」な攻略法が存在するという考えは変わらない。

しかし、である。特にここ数年、コミュニティ活動を「先導」する立場として、自身の中でモヤモヤしていた「思想」と背水で向き合い、「言語化」の作業を積み重ね、「言行一致」を続けてきた。その結果、自分の人生にとってかつて重要視していた「準備と計画」は、もはやほとんど意味を為さなくなった。僕にとっての「人生の意味」は、ここ数年で大きく変容したのである。コミュニティ活動の結果、僕は計画的に生きることを、相当に強い覚悟で投げ捨てることとなった。それはつまり、計画の蓄積としての「成功」あるいはその帰結としての「資産残高」に人生の「安心」を求めることをやめたという意味である。

これはおそらく世間的には「異常」な帰結である。決して現時点で人に強要できるものではない。あくまで理念を先導する人間としての覚悟である。

予測を立てる能力がないから結果として場当たりになるのではなく、予測を立てるのを我慢して敢えて場当たりに物事を処理するというのは、当初の僕にとってとんでもないストレスだった。こうした方がもっと人が集まる、もっとお金になる、その全てを握りつぶし、無視して進む。コミュニティ内のメンバーにさえ、時に疑いの目を向けられていたことさえあったろう。しかし、やはり

岩明均『寄生獣』より

もう迷いはない。僕はそう生きると決めたのだ。いまでは場当たりに物事に対処することへの自分なりのスタンスはかなり固まった。まだ日が浅いので完全に言語化はできていない(できたとて伝わる気もしない)が、受験勉強や一般の社会に対する「最適化」とは全く違う感覚である。「無理をしない」という姿勢について、よく「ありのまま」とか「身の丈」なんて表現を用いるが、それすら生ぬるいというか、自分の内臓まで全て周りの環境と同調しているような感覚、自我はあるが自我で物事を決めていない感覚、そういうたぶん一般には理解されないような、もはや宗教と断じられそうな変な感覚をもってして、あらゆる物事への対処や判断を実行している。いや、正直、実行している感覚すらあまりない。本当に、たぶんいまこれを読んでくれている方のほとんどに、一ミリも伝わる気はしないが、それでも敢えて伝えるが、とても重要な判断について、そう、僕はもう言語で考えなくなった

言語すら放棄して

ジェイラバー(ジェイラボ研究員)にはお馴染みの言葉、「身体性」である。うまく言語にできないが、無理矢理たとえるなら「内臓(はらわた)で考えるようになった」という表現が一番近いかもしれない。もっとしっくりくるたとえが思いついたらまたそのうち紹介しよう。

以前からずっと「論理が全てではない」という話はしてきた。これも、僕が初めから論理を放棄した夢想家、宗教家として話したなら説得力を持たなかったかもしれない。しかし、偏った箱庭作業とはいえ、東大の入試数学を普通に全問完答できる程度の論理演繹力を事前に示した(僕が初見で入試問題を解いた動画はYouTubeにまだいくつか残していると思う)その上で話をさせていただいたので、それなりに受け入れてもらえたとは感じている。しかし、そう、いまとなっては遂に論理だけでなく言語すら放棄し始めている自分がいる。身体性というのは、当たり前だが、ボディランゲージなどという意味では全くない笑 さすがにそこは大丈夫だろうか。ボディランゲージは単に身体の「言語」であり、もちろん文脈にもよるが、普通「身体性」の要素はほとんど含まない。

言語(文章でも論理でも記号でも呼び方は何でも良い)を通じて意味を伝えるという営み、「語る」という行ないには、初めから限界があり、人生のほとんどの事柄は、残念ながら「語り得ない」。それがいつもの約束された帰結。しかし、一緒に誰かと丸一日時間を共にした時、その誰かと僕はその「全て」を共有し得る可能性を持っている。もちろん、それは単なる可能性であって、その保証などできるはずもない。「保証」もまた「語り」である。要するに、その身体的体験を「語ろう」とした瞬間、ほぼゼロだったとしても「全てを共有できたかもしれない」可能性は完全に否定されることとなる。屁理屈と感じる人もいるかもしれないが、「語る」とはそういう営みなのだ。

この世のあらゆる相互不理解、非共有性は、言語による「語り」から生じている。相互不理解を言葉を尽くして「語り合って」解決しようなど、本来的には全くもって意味不明な行為である。相互不理解を解消したければ、何よりもまず、「語る」のをやめれば良い。皆、熱湯を冷まそうと思って、熱湯をさらなる強火にかけ続けている。たぶん、自分達が何をやっているのかも理解していない。だから、僕は自身のSocial Media運用ポリシーとして、情報を発信する(語る)のではなく、共に「過ごす」という方向性を採用したのである。体験を伴わないただの言葉は「届き得ない」からだ。

ジェイラボとしての活動初期にYouTubeで公開していた動画群、あれはあれであの頃の僕の考えを表現しているし、別にいまの僕の考えと大きく矛盾しているわけでもないが、いまとなっては少し遠くに感じるのは事実である。もっとも、思想、考え、言葉、そんなものは、たとえ同一人物から発信されたものであっても、全てその都度身体から切り離されて外部に固定されるものであり、不連続なものである。同一人物の思想は常に矛盾なく連続的でなければならないという主張には、「思想的に」根拠がない。人生において連続性を持つものは、自身の身体的恒常性、秩序、それだけである。物質的にすら、日々置換される部分が大きいので、身体そのものは連続的とは言えないが、情報的には身体は連続していると言っても差支えはないだろう。

恒常性、秩序とはある種の情報のことである。つまり、「身体性」は特定の文脈においては「情報」と言い換えることもできる。いや、それでは身体性が言語を超えるという先ほどの主張と矛盾するのではないか。身体は言語による語りを超えているのではないか。「情報」は言語でコードできる範疇すなわち「語り」の域を出ないではないか。そう思う人もいるかもしれない。そうではない。これも情報という言葉の定義によるが、僕にとって情報とは、広義、狭義のものがあり、広義には一意に言語化、記号化、コード化され得るという定義は含まない。僕がここで指している身体の「情報」とは、遺伝情報のことではない。もっと広い幅で身体が持ち得る情報の総体を指している。遺伝情報だけではなく、神経ネットワーク上の情報も、自律して活動する内臓の運動も、環境や他の身体との相互作用も、全部ひっくるめて、である。その文脈での「情報」はおそらく「意味」というものとも関わっているので、単独ではなく受け取り手の認知や解釈まで含んで成立していると言えるかもしれない。よって、あるいはそれは「情報」と呼ぶより「コミュニケーション」と呼ぶべきものであるかもしれない。コミュニケーションと言ってももちろん言語的なものを指しているわけではない。何らかの「通信」という程度のものである。そんな、コミュニケーションのツールではなく、コミュニケーションそのものとしての身体。伝わるだろうか。通信内容ではなく通信の枠組みとしての身体。この表現の方が伝わりやすいかもしれない。僕がいま物事を判断する時の主体は、この意味での「身体」である。身体の「内容」ではなく「枠組み」が自分自身の主体となったのだ。いずれにせよ、こうした一般論から外れるユニークな定義は、確実に理解者を減らし、あるいは頑張ってそれを理解してみようという動機を挫くだろう。しかし、僕にとっては冗談を話しているつもりなど全くないし、根も葉もないデマカセでもない。「確実に正しい」ことだけを話している。既存の感覚から離れたユニーク過ぎる概念は、既存の記号にうまく乗せることができないというだけである。伝わらないのは、正しさの問題ではなく認識(偏見)の問題だ。

「生きる」の再定義

まあ、そんなわけで、僕はいまや、身体を脳に優先して / 社会の要請による価値の重み付けを拒否して / 中央集権を否定して、生きるようになった。いまや、世界が完全に並列化した。ある種の絶望を含んだこの景色は、見せられるものなら是非皆さんにもお見せしたいものである。日に日に言語を語ること自体、億劫になってきている。しかし、コミュニティとしてのジェイラボの基本はテキストチャットベースのオンラインにある。日々言葉は交わさねばならない。言葉で「全て」を伝えることは確かに叶わないが、では、残りの人生、言葉を交わす以外、僕に何か特段にやるべき使命があるかというと、何もない笑 「生きる」以外にやりたいことなど、もはや何にもないのだ。ネガティブに聞こえるかもしれないが、そうではない。この絶望的な景色を目の前にしたいまとなっては、これ以上なく前向きだという自負もある。

他の説明を採用するなら、たとえば、時間が本当に過去から未来に流れているのかなどわからないし(本当にって何だろう)、全ては決定論をなぞっているだけかもしれないし、とかく人間には認知できないものが多すぎる。僕がよく引き合いに出すIUT理論についても、僕には数学の素養がないので何も言う権利はないのだが、(仮に理論が誤りを含んでいたとしても)それが多くの数学者に認められないという現実は、正しさに由来する問題ではないのだろうという想像はつく。幾度か行なわれた研究会においても双方の立場から怒号が飛び交ったらしいが、純粋な数学的正しさだけに関する議論がそこまで幼稚な感情論に発展するとは、とても考えにくい。既存の数学に対して、明確な認知的齟齬が生じているのだろう。「有色人種と白色人種は全く異なる人間だ」という主張をすると、正しいかどうかに関わらず、感情的に確実に齟齬が生じる。それが人間である。あるいは歴史である。

宇宙は我々を超えているのだから、そもそも我々の認知範囲で自然に感じるまま宇宙が記述できると思うのはハナから間違いを含んでいる可能性が高い。いま認められている論理記号が宇宙の記述に本当に適したものなのか。そんなことは正直わからないはずだ。そう、我々に認知できない領域で、稚拙なたとえをすると、身長を測っておきながらそれを体重だと考えるようなレベルの、根本的なトンデモを今日の科学がやっている可能性は、常にある。我々には宇宙を作った神様のレシピや意図が直接知らされることはないのだ。神様以外の誰にも答はわからない。「分析」だけでは絶対に「意図」にはたどり着けない。神様の意図が知らされない限り、あらゆる科学は贋作製作技術の域を脱することは、原理的にあり得ない。下の記事に書いたが、意図をもって「正しい」製法で作られたウイスキーに対して、仮に成分分析して完璧に成分をコピーしたウイスキーが作られたとして、それは真にウイスキーと言えるだろうか。そういうことである。コピーは意図を持たない。

我々の認知機能の外部化、メタファーの外延を定義に含む演算や概念が、そっくりそのまま宇宙であろうはずないだろう。念の為に補足しておくが、先程からずっと認知と言っているのは、何も直観に限った話ではない。認知の直観に反した厳密な理論であろうと、要は人間に想像できて「認識」できるものは全て、神様には届かないだろうという意味である。

残念ながら、僕は数学も物理学も志すことなく(そこに人生の時間を費やすことなく)これまでのうのうと生きのびてきたわけだが、それは、どのみち最後の最後までが理解可能になるはずがないという「確信」があったからだ。もちろん、その限界を目指して一定のレベルまで思考を突き詰めることの重要性と有用性は理解している。単に、僕個人の感覚として、最後に不可能性を確認する可能性へのモチベーションが持てなかっただけである。ある種の好き嫌い、ただの「わがまま」である。ルール内でルールの整備を徹底することに意味を感じる人々もいるだろう。全く悪いことではない。徹底整備された箱庭には美も宿ろう。人それぞれというだけだ。そして、「研究」を進めれば確実に見えている世界の解像度は上がるだろう。しかし、「解像度」と言っているその時点で、やはり宇宙そのものには届かないと言っているのに等しい。解像度はどこまで上げてもリアルにはならない。見えている世界を切り刻むことと世界のありのままを知ることは一致しない。先ほどの神様の「意図」の話と同じである。ただし、リアルではない、まがい物ゆえの「取り回しの良さ」があってこそ、そうした世界の細分化が科学技術の社会実装を進めているとも言える。科学技術とは、判断の「保留」のことである。「とりあえずここまで」の見本市である。今となっては、この世の中に「判断」をしている人間など、ほとんど存在しない。全ては「保留」されることで回っている。

皆さんがそれをどう受け止めているのか、問題の認識すら出来ているのかわからないが、僕にとっては判断を保留する現代人の営みのほとんどが他人事に見えている。人間が生きるということは、四次元程度しか認知できないこの時空において、自身の情報体の軌跡を描くという、ただそれだけのことである。その軌跡も、刻一刻と時間に積み重なるようにいままさに描かれつつあるのか、初めから決まっている高次元のカタチをただ時間的になぞるようにしか人間に認知できないだけなのか、何もかもがわからない。そもそも、情報体としての自分自身とはどこからどこまでなのか。いわゆる生物学的な恒常性を保つ皮膚などの物理的境界内を感覚的には自分自身と認知しているが、本当なのか。消化管の内腔は果たして本当に体外なのか。日々情報の入出力に繰り返し用いている様々な情報端末は、もはや自分自身の身体と言って良いのではないか。コミュニケーションによって相互に作用を及ぼし合っている身の回りの人間は、本当に明確に自分と切り離された存在なのか。僕は認知など何一つ信用しない。しかし、認知こそが人間にとっての「全て」であるというのは、これも紛れもない事実である。それが哲学的思考である。人間にとっては認知ただそれのみが全宇宙である。認知は宇宙のほとんど何も開示してくれないのに、である。人類は皆、己の死を嘆き恐れている暇があったら、この事実にこそ絶望するべきではないか。そう思わないだろうか。ともあれ、世間はただただ何の疑いも挟まず、認知のみで出来上がっている。出来上がっていく。全てが科学技術化すなわち判断保留化されている。

こんな話をしても意味不明だろうとは思うが、せっかくの年度が切り替わるタイミングである。少しでも僕の日常感覚を共有してみたくて、あるいは共有できないものを線引きしておきたくて「語って」みた。この「語り」によって、皆さんと僕との間の相互不理解性の成立も、確認してもらえたかもしれない。

そんなわけで、相変わらずほとんどの人を置いてけぼりにしながら、ジェイラボシーズン4が始まってゆく。我ながら恐ろしいコミュニティである。ギリギリのところではあるが、よく潰れずに何年も続いているものだ。そして、今年度から、かなりコミュニティ内部の制度を変革した。変革というか、これまでの行き当たりばったりの蓄積の中で、小出しに少しずつ理解を得てきた僕の思想を、ギリギリまで制度に反映した。

SDGsではなく

昨年度のコミュニティ開始時に、僕は「情弱は切り捨てる」というかなり強い煽り言葉を残して、YouTube活動をほぼ放棄し、コミュニティ内部に引きこもった。西村は、自分に自信がないから説明責任を果たすことから逃げ、イエスマンだけを集めて狭い世界で過ごすことを選んだ。そう感じた人も、きっといただろう。そう、まさに、そんな風にしか感じられない人と意見交換をし、「語り」合う不毛を避けたのだ。理解者の少ない黎明期の活動に、話を聞く気のない人間を取り込むのはまだ早い。話を聞かない人間を切り捨てたおかげで、コミュニティ内部はそれなりに僕の理念を反映した形が固定化してきた。

そして、今年度は一度切り捨てた「情弱」とのつながりの回復をテーマにしたいと感じている。昨年度は、僕の活動を側で手伝ってもらえる人を見つけるため、つまり、僕の思い描く理念を最大限近い形で脳内にアナロジーし再構築できる人を見つけるために、発信する情報は全て、難解な言い回しを用いた文字ベースばかりを採用してきた。今年度は少しずつそこから脱却して、ある種のわかりやすさをテーマとして追求しようと考えている。その初っ端がいきなり「これ」なのは申し訳ない。文字ベースでの思想の発信については、今後もたぶんわかりやすくはならない。ここで言うわかりやすさとは、文字としての情報を切り落としてサイズダウンするという意味ではなく、アナロジーとして丸っきり別なアプローチ(文字以外)を準備して、誰もがもっとシンプルに飲み込める思想へと変形し、異なるメディアを通じて伝えることができないかということである。

まぁ、そんなことが簡単にできれば話は早かったわけで、おそらくその試みはまた困難を極めるだろう。それでも、ジェイラボのこの活動がなんとか10年も続けば必ず芽は出るはずと僕は信じているため、できることは試してゆきたい。

そのための一つの試みとして、経済的に余裕のある研究員から追加の支援をいただける制度も作ってみた。機能するかは全くわからない。しかし、そもそも、機能させることが目的ではない。検討を始めた当初はコミュニティ内で、目的に応じた妥当な金額の計算をあくまで試算として示しはしたが、最終的にいま制度として導入した段階でその目的項目は消した。sustainableであること、developすることは僕にとってはgoalではないからだ。それは目的ではなく結果である。SDGs(Sustainable Development Goals - 持続可能な開発目標)というのは、「目標(計画性)」という概念の守備範囲は自己利益のみであるという明白な論理的帰結を認識できておらず、環境保護などの「利他」を「目標」に掲げる大きな自己矛盾を抱えている。もっともこれはSDGsというより環境問題全般に対する矛盾である。「目標の達成」というアプローチで環境問題が解決することは絶対にない。断言する。人間ひとりひとりの価値の根源が変わらない限り、環境問題が真に問題として認識されることはない。価値の根源(覚悟)を問い得るのは「偶然」「一期一会」だけである。これは、以前から問題にしていた「能力主義の否定」の更なる一歩として最近考え始めていることである。近いうちに扱いたい。話を戻そう。人は、自分の立ち位置に不安を感じると、すぐ「計画性のセーフハウス」に逃げ込む癖がある。「目標を持つ」という価値観と「利己」は同値である。そして、大半の人々は資産残高とにらめっこをしながら死んでいく。そんな中、「予測を立てない偶然性の世界へ飛び込もう」と言い出すと、今度は何故だか急に「死ぬこと以外かすり傷」という思考停止になってしまう。これは思考を停止したポジショントークであり、大半の人は鵜呑みにしてはいけないただのキャッチコピーである。思考停止はやめよう。先ほど僕は「言語で考えなくなった」とは言ったが、「思考を停止した」とは言っていない。思考のスタイルが変わっただけで、何なら以前より深く思考している。

コミュニティ内部のメンバーからそこそこの額の会費を取るというのは、普通に考えればかなり強い「理由」が必要な方策であろう。ビジネスとしては成立しづらい。宗教やそれに準じるくらい、何らかの思想への「信用」がなければ成立しないことだ。僕としては、相当な準備立てをして、少なくともメンバーには「信用」が成立するくらいはこの数年間ずっと説明責任を果たし言行一致を示してはきたものの、それでもこの「行き当たりばったり」の思想が、どこまで理解されるか、されているかには、まだまだ不安はある。このタイミングで、より踏み込んでこの制度を作ったことが、かえってメンバーに踏み絵のような悪印象を与えるかもしれないし、よりスムースな運営につながるかもしれない。場当たりで物事に対処するとはこういうことである。いずれにせよ、その結果は改めてフィードバックされる。

金が欲しいならクラウドファンディングすれば良いだろうという意見もあるかもしれない。既に述べているように、厳密にはお金が欲しいだけが理由ではないのだが、その意見に真面目に対応するなら、「ジェイラボは合目的的な組織ではないゆえクラウドファンディングの文脈すら成立しない」という返答はできる。現在、ジェイラボで提供している『コアレクチャー』という大学入試数学の指導コンテンツを大幅にアップデートするというプロジェクトも裏で密かに検討しているのだが、そうしたわかりやすさを演出しやすい道具を利用すればクラファンくらいできなくないとは思う。しかし、ただの無名な人間がクラファンを成立させるには、かなり強めの対価か、目に見えてわかりやすいSocial Goodな理念が必要である。いまのジェイラボにはわかりやすいGoodなどどこにもない笑 クラファンのためだけに別途準備した余所者のGoodで頭をすげ替え組織をキメラ化するのは、ジェイラボの破壊である。

今年度の活動の中で、アナロジーとしてのまた別な「わかりやすい宇宙」の足掛かりを掴みたいとは思っているが、まだその輪郭も見えていない。それでも、活動を少しでも前に進めたい。そのために、兎にも角にも活動の存続を結果として助けていただける制度を準備だけさせてもらった。ジェイラボ公式ウェブサイトにスペシャルサポーターチケットという名前で三種類の金額で置いてある。

くどいが、僕が本当にお金が欲しいなら、その「お願い」をこんな独自思想の長文の最終盤に配置するはずがない。あらゆるウェブマーケティングの常識に反している。これは、あくまでもジェイラボの活動、理念に、「ちゃんと」未来性を感じていただける方に、自然な感情としてご支援いただければ十分ということである。目標金額があるわけでもない。対価もない。ただ、ご支援いただければ、その分だけ活動の幅は広がり、その行ないはジェイラボにとっての大きな歴史の一ページにきっと名を残す。以前にも今回と同等以上のかなり大きな枠組みでご支援くださった方がいた。しかもその当時のジェイラボには今よりも本当に何もなかったのに、である。今もその方への感謝の気持ちは忘れていない。いつか巡り巡って一緒に何かできることがあれば、恩を返せれば、そう感じている。そういう、すぐには目に見えない「関係性」の問題でもある。

経済支援については、もちろんこれはあくまで社会人に対しての提案であり、学生は最低限の会費で学習環境を大いに利用してくれれば良い。社会人の方は、ジェイラボ内外での活動を通じて自分の気持ちがちゃんと確かめられた時にだけ、経済支援の上でのジェイラボ参加をご検討いただければ十分である。ただ、今回のこのタイミングで多少なり皆さんからの支援がいただけるか否か、それはノベルゲーム風に言うならかなり大きなフラグになるだろうとは感じている。ジェイラボはトゥルーエンドに到達できるのか。今回の結果は、メンバーの対称性を保つという思想、メンバーの並列化に大きく関わってくる。

そして、メンバーにはずっと言い続けていることだが、計画性を放棄したジェイラボには、常にバッドエンドルートへのフラグが残されており、それは未来永劫消えることはない。

おわりに

ジェイラボシーズン4は、正念場である。蓄積してきたものを少しでもカタチにしてゆくターンである。そして、このクセの強い文章を最後まで読んでくださった方が、もしいたなら、きっとあなたの居場所は、ジェイラボに存在する。


僕はここにいるよ。君はどこにいるの?


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