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『方丈記』【読書のおと】……ところで、現代において教養とは何だろうか、あるいは、古典を読むべき意義について

いやいや、古典とか読むの面倒という皆さんの為に、以下漫画版もお薦めしておく。ちゃんと原文も載っているので現代語訳読むならこれでも問題ないかと。

『方丈記』という古典について、新しく始めることとなった『基礎教養部』の活動として簡単な書評をあげた。興味を持っていただいた方は、是非『方丈記』を読んでみてほしい。最悪、現代語訳だけでも構わない。おそらく一度読んだだけでは大した感想も得られないと推測する。今後の人生において、何度か読み直してみて欲しい。どこかのタイミングで何か感じ方が変わったことを知るバロメーターくらいにはなるはずである。

より深く考えるヒントが欲しいという方には、堀田善衛氏による『方丈記』再発見の名著『方丈記私記』もお薦めする。

さて、とにもかくにも、何故こんな古めかしい何の役にも立たなさそうな「古典」なんぞを紹介したのか。話を続けてゆきたい。以下、全く関係なさそうに思える話が続くが、ちゃんと関係ある話なので、安心して読んで欲しい。『基礎教養部』という活動を始めた根っこのお話になる。

僕はおそらく一般的な人よりは多くの「本」を読んできたとは思うが、文学研究者、哲学研究者ほど熱心に資料として丹念な読み方を積み重ねてきたわけではない。つまり、書籍の形で得られる「知」を全て体系化して頭に入れて生きてきたわけではない。それは、一つには「知」の体系化にさほど意味を見出していないというのが表向きの理由であるが、正直に告白すると、現代において入手できる全ての「知」を体系化できるほど僕は頭が良くなかったというのが最大の理由であったりする。

「知」とは何か。あるいは「教養」とは何か。アカデミズムに身を置く人間がよく自問する問いである。しかし、その文脈で問うてしまうと、アカデミズムから漏れた価値観は拾われない。つまり、体系化された「知」を身につけていることが前提とされる。

もちろん、専門的知識を有した人間とそうでない人間とを比べた場合、専門分野は言うに及ばず、専門を離れた議論においても、専門知識を持った人間の方が圧倒的に「知的」である割合が高い。

しかし、それは「知的」の定義が「そう」だからである。

今の時代に、田舎の年寄りの「知恵」に耳を傾ける者はいない。何故なら、そこには可視化された(体系化された)歴史的な人類知の蓄積がないからだ。年寄りの「知恵」はあくまで個人的な(せいぜいその村に代々伝わる程度の)小規模な経験の蓄積でしかない。そして、今日の科学的合理精神においては、もちろんそんな経験には価値はない。

もし、僕がアカデミズムにどっぷり浸かって生きてゆけるほど「頭が良かった」なら違ったかもしれないが、現実、僕は人類の全知を自分の脳みそで受け止めて体系化する動機を抱けるほど全能ではなかった。自分が生きるのに精一杯だった。

それでも、それなりに世の中について感じるものはある。それは果たして「知」なのか。「教養」なのか。おそらく、それを決められるのは、知の定義そのものとしてのアカデミズムの機能だけである。形式的にならポピュリズムでごまかすこともできるかもしれない。しかし、僕は現在そのどちらにも浸からずに生きている。今のままでは僕にできることは何もない。

ほぼ「詰み」である。

それでも、こんな僕の話に耳を貸そうと感じてくれる人も、極めて少数存在する。そうした人々の存在は、一体何なのであろうか。僕は自分で自分のことはそれなりに「頭がおかしい」と自覚しているが、僕を応援してくれている人も「頭がおかしい」のだろうか。正直、それはわからない。実際、僕同様どっぷりと「頭がおかしい」人もいるだろう。しかし、本人が直接「頭がおかしい」わけではないが、何か、いま当たり前としている価値観にちょっとした違和感を感じているという程度の人もいるだろう。もしかしたら、場違いに感じながら、うっかり迷い込んでしまったという人もいるかもしれない。しかし、僕の声が届く人の数は、どうやら全くのゼロではないらしい。

正直、完全にゼロならもっと早く諦めもついたのかもしれないとも思う。しかし、こうして、僕のような「野蛮」な人間が、たとえ少人数であろうとも有能な人間を集められたとして、そこで一体何ができるのか。

活動当初からの理念として念頭に置いていることは、「知」を築き上げるのではなく「知」を掘り下げることである。「知を築き上げる」という表現は、「体系化する」ということを意味する。自分の能力に余裕があるなら、知の体系化に脳のリソースを回しても問題はないのだろう。単に、僕には能力的にその余裕はなかった。体系化に労力を振れば、きっと僕は体系化に溺れただろう。体系化するという行ないは想像以上に「重い」作業であるため、体系化そのものが自己目的化する場面は頻繁に見られる。プラトン、アリストテレスに始まり、デカルト、カント、ヘーゲルを超えて、ニーチェ、ハイデガーに至る。たとえば、哲学において「歴史」を「体系的に」語るという行ないは何なのか。先人の思考をトレースすることで自身の思考がブーストされるというある種の勘違い(快楽)がある。それは、全くの勘違いだ。先人の思考をいくらトレースしても、ほとんどの者においてはトレース以上のものは出てこない。

『小学生でもわかる』を「小学生脳」が聞いても何も生まれない。

「自力でもその思考に到達したであろう」と思われる一握りの者のみが、先人の思考トレースによる時間短縮の恩恵を得る。つまり、思考のトレースが単なる短絡に終わらず、まだ見ぬ向こう側をも目指し得る。それ以外の大多数の者は、蓄積された膨大な先人達の「思考」を運動ではなく構造として、つまり、ただの死んだ知識としてしかとらえることができず、知識に溺れ、『引用』こそを偉大なる教養と心に抱いて、止まった時の中で死んでゆく。

今日、蓄積された「教養知」はあまりに増え過ぎた。文化的な表現物(芸術作品)もあまりに増え過ぎた。その全てを知ることは、もはや不可能であるし、「全てを知る」ことに労力を費やすこと自体、無意味に思える。

かと言って、体系化された「人類知」を一切無視するのも、明らかに効率が悪い。そうなると、ある一定のレベルまでは、いわゆる「ダイジェスト版」で体系を知識としてのみ知るという作業も必要になるだろう。一番良い解決は、知を体系化してダイジェスト版を作ること「そのもの」が知(アカデミズム)の一環として取り入れられることではないか。

知のダイジェスト化を、体系化を経験せぬ素人に丸投げしてポピュリズム化せず、きちんと学問にしてしまえば良い。

『猿でもわかる』を猿ではない「人間」がきちんと学術的に定義する。なんだか矛盾も感じるかもしれないが、初めからそうしておけば、真面目な学問とそうでないものの線引きが明確になるし、真面目に学問を目指すものが真面目に集中すべきものに集中できる土台として「教養」というものが可視化する。未来永劫「教養とは知の巨人たること」をしか意味しないのだとしたら、もはや、現代においては我々の大半は「教養」に手が届く前に寿命を迎えることになるだろう。

ただ、教養には教養の「守るべき」立場というものがあり、「教養」とは定義自体に体系化という概念が組み込まれている気もするので、そんな簡単には、ことは進まないだろうとも思われる。教養講座を偽った大衆娯楽作品がYouTubeなどで多数リリースされているのを目の当たりにしても、ただ大衆を見下し「下賤の活動」と冷ややかに見ているだけという教養人がほとんどであり、「じゃあ自分でちゃんとしたものを提供しよう」という教養人は皆無である。実際、まともな研究者ならそんなどうでもよいものにいちいち関わっている暇など、構造的に存在しないのだろう。そんなことは「暇人」のすることなのだ。

ともかく、一個人が人類知の全てを体系化する(ことを目指す)といった古き「教養人」たらんとすることは、いずれ、間違いなく「教養」の定義ではなくなる。「教養」が解体されるのではなく、「解体」が教養となる。アカデミズムを商品化する運動は過去にもあった。いま、アカデミズムはコンテンツ化されつつある。商品化とコンテンツ化の話をし出すと、また面倒なことになるが、極めて単純化するとソーシャルメディア上で実体なく消費されることがコンテンツ化であると言えばわかりやすいだろうか。商品には商品としての実体があり、消費しても不要物が実体として手元に残る。コンテンツには実体はなく、消費すれば後には何も残らない。このままでは教養は社会にとって不要品ですらなくなる。教養というものの価値を今後も形あるものとして留めたいなら、やはり方法は一つだと思われる。コンテンツ化の流れを止めることは不可能だ。だから、「コンテンツ化」という行為そのものをアカデミズムに取り入れて「形式化(権威化)」してしまうこと、それしかない。

教養のダイジェスト化。いまはでたらめ、野放図に行なわれているが、これはいずれ明確な基準で整備されて然るべきものである。もしかすると、そこには「AI」という新しい知性が絡んでくる可能性もある。そして、そんなものが「知」たらんとするような時代に、一体我々は何を羅針盤にすれば良いのか。

そう、だから古典なのである。

ようやく、話が古典に帰ってきた。こうしていま僕がグダグダ述べてきたようなことも、全て古典に触れる類の経験(物事を相対化する意志)あってこそ感じ得ることである。決して、現代的価値観のディスプレイでしかない、マーケティングに乗った「売れ筋」書籍から(直接短絡的に)は得られることのない考えである。

テクニカルな知については、もちろん、現代書を読むべきであるし、何なら書籍すら遅く、インターネット上で最もup-to-dateな情報にアクセスすべきであろう。僕がいま話しているのは、もっと包括的な「知」の話である。

我々は何のために生きているのか。
科学とは何なのか。
人類の未来はどうなるのか。
AIは人類をどう変えるのか。
宇宙とは何なのか。
……

たとえば、こういう話題について、本当に自分の

「生身の言葉」でどこまで語れるのか。

そういう話である。

最も大切なことは、引用し得る「知」の財産を増やすことなどではない。

しかし、多くの人の考えは違うだろう。むしろ、自身の脳内への「知」の蓄積を増やすことこそが唯一重要だと感じている人が多数派ではないだろうか。それは「教養」の価値を、シェア、すなわち賢さの「誇示」という大衆性に置いているからである。ソーシャルメディアの台頭でその流れはかつてなく加速している。ここにとてもとても大きな裂け目があり、僕が感じていることは通常のメディアを通しては全く伝わらない。少し本質は変わってしまうが、「知(教養)」をお金と置き換えると、実感はしやすいかもしれない。

人は、お金を持つと、多くの問題をお金で解決し、それ以上考えなくなる。根本的な問題点の追求に頭を悩ませずとも、お金を使って目先の問題が片付くなら、迷わずお金で済ませるだろう。お金が足りなければ、もちろん自分の頭で考えて工夫せざるを得ない。

教養(知識)も似ている。知っていることが増えてくると、いずれ引用で済むことは、さっさと引用で済ませるようになる。毎度毎度、頭を痛めて新鮮な思考をすることなどしなくなる。引用によって、先人がその「教養知」に至るまで苦しんだ経験を、明確に省略しているにもかかわらず、あたかも経験したつもりにもなれるのである。「陳列された思考の引用」と「自身による生身の思考」を、実感として完全に同一視してしまっている。これが大衆を絶望的に大衆化している。

もちろん、お金も教養も、それを持つことで、「できること」の幅は広がる。どちらも、効率化によりできることの幅を広げるために存在するのだから、当然である。しかし、それらを生かすには、明確な前提条件がある。お金も教養知も、それを保証する社会システムがなければ、何の価値も持たない。「もし無人島に行くとしたら何を持っていくか」という馬鹿みたいな決まり文句を思い起こせばわかる。その意味では、お金は本質的ではないし、教養知にも本質的なものとそうでないものがあることはわかる。

「本質」という言葉もまた、非常に厄介な言葉であり、その守備範囲はとてもわかりにくい。いまは「物事を限界まで一般化した時に残るもの」という程度の意味で考えておこう。目の前に見えている価値の本質を見抜くには、価値を一般化、すなわち距離をとって考えることが必要になる。

そう、だから古典なのである。

古典は、もちろん現代から遠く離れたものである。古いのだから当たり前だ。そして、勘違いしている人が多いが、それを理解することは、過去を知ることなどではない。過去との比較で現代を知ることである。そもそも、現代に生きる我々が過去など知れるはずがない。我々は、自らが経験したことしか理解できないのだ。より正確には、我々は自らが経験したことを全て「現在」と呼ぶ。だから、「古典を読む」という行ないは、そもそも過去ではなく現在に属する。つまり、古典を読んで得られるのは、いま「古典を読んだ」という経験だけであり、過去「古典の時代を生きた」という経験を入手できるわけではない。

「古典を読むべき意義」なんてものがたまに議論されることがあるが、そういった文脈で古典擁護派が「古典はおもしろい!」「古典はためになる!」「古典は人間を豊かにする!」などと主張しているのは、正直に言って文脈から大きく外れている。悲しいかな、ただ古典を読んだからと言って頭が良くなるわけではないという教訓にしかなっていない。「古典がおもしろい」かどうかは「コーヒーが美味しい」かどうかと同じ程度の意味しかない。コーヒーを飲むべき意義を「美味しいから」と説明しているようなものなのだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。美味しいかどうかは強要すべきことではない。

「いま」を見つめるという視点を失わずに古典を読めば、現代と過去の集合を重ね合わせることで、一定の「本質」をあぶり出すことができる。コーヒーも無理に好きになる必要はないが、その味を知ることで多少なり味覚の幅は広がるだろう。無理強いはしないが、せっかくなら何度か試してみてもよいのではないか。その程度のものである。

いま僕が述べてきた内容は、「古典を読む意義」に関連するものだ。『方丈記』を読む意義ではない。正直に告白する。僕は、数多ある古典の中で、最も一般的(本質的)でとっつきやすいと思われる題材として『方丈記』を紹介したのであって、皆さんにとりあえず古典を読んでみようという気になってもらえるなら、実は何でも良かった。場合によっては、海外の古典でも良かった。ちゃんと読めるのなら。

もっと言うと、「古典を読む意義」についてだけでもとりあえず納得してもらえるならば、実際に古典を読むところまでゆかずとも、いまはそれで良いのかもしれない。

ソーシャルメディアによる即時的な価値の共有により、大衆の大衆化が加速している現代において、もしも自分がメディアに大衆化されることに違和感を感じた時、我々に何ができるのか。

知識人ぶることは大衆化そのものである。
目を背けることは生きることの放棄である。

ではどうすれば良いのか。

「他人の言葉」ではなく「自分の言葉」を持つ。それしかない。

この世に人が存在する限り言葉は溢れ続け、この世にメディアが存在する限り言葉は蓄積され続ける。おそらく、現代において、氾濫し飽和し尽くしている言葉というもの、それそのものには、もはやほとんど価値がなくなっている。見かけ上美しい言葉などどこにでも落ちている。その辺のゴミ箱を開けてすら、中には『美しい』が入っていたりする。繰り返すが、表現としての言葉そのものはあまりにも陳腐化したため、もはや価値は認められない。「覚悟ある言葉」「魂の宿った言葉」そういったある種の「文脈」を伴った言葉、敢えてオカルティックな表現を選択するなら「言霊」とでも呼べるほどの強い言葉にしか、価値はない。

僕はあなたのことが好きだ。

たとえば、そんな最も素朴な気持ちを伝える言葉すら、現代人は「引用」で済ませてしまっている可能性が極めて高い。皆さんは心の底から正直にナマのままの「愛してる」を、本当に誰かに素直に伝えられるだろうか。無意識に、最後の心の拠り所をどこかで見た聞いたセリフやシチュエーションなど外部に置き、根っこの部分で「引用」的精神に逃げてはいまいか。全ての責任を自分で背負う覚悟をもって「その場で」気持ちを表現できる人が、一体どれほどいるだろうか。

現代、少なくとも大衆的なメディア空間には、もはや「引用しか」存在しないと言って良い。もし、そんな世界を生きながら、「敢えて」大衆化に抗い、自分は大衆化とは異なるバランスを取りたいなどと願うなら、どうすれば良いか。そのヒントは現代から最も遠い「古典を読む」という行ないの中にある。ただ、勘違いしないでほしい。「古典」に答えが書いてあるわけではない。古典を読もうとするその意志、行ないが、答えにつながるのだ。

古典を好きになる必要などないが、せっかく日本の文化の中で生まれ育ち日本語が読めるなら、とりあえず『方丈記』くらいは読んでみてはどうだろうか。

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