ゲームとフィクション、重ね合わせの意味と効果 - 『ビデオゲームの美学』から -

西川 圭祐

この記事では書籍『ビデオゲームの美学』 についての私見を述べます。(2020.08.31)
初見の方はぜひ自己紹介とまえがきもご覧ください。

書籍紹介

松永伸司氏の『ビデオゲームの美学』を紹介する。もともとビデオゲームについて考えることが好きだったが、この本をきっかけに、より深い沼に入ることとなった。ずぶずぶである。

本書は分析美学(芸術の哲学)の視点から、ビデオゲームのならではの特徴を明らかにすることを通じて、ビデオゲームを理解するための道具立てを提案している。(分析美学についてはこちらを参照。)その内容は学術的な厳密さがあり、難解なので、本稿ではかなりざっくりとした概要と、本書の意義について私見を述べるにとどめる。より突っこんだ内容については、細かいトピックに分けて後日改めて書いてみたい。

概要までということもあり、本稿は、こうしたゲーム研究、とくに人文学的な領域に馴染みのない方にも読んでいただけるようにしている。個人的には、私のように個人でゲームを作ろうとしている、すでに作っている方に読んでもらいたい。本書は美学、つまり芸術の領域に寄っていることもあり、プログラマーやプランナー出身の方々には取っつきづらく感じられるかもしれないが、本稿が一つのきっかけになればと思う。

ビデオゲームの二面性

あなたが自宅のリビングで『スーパーマリオブラサーズ』を遊んでいたとしよう。そのとき隣で、ゲームに詳しくない妹(べつに母親でも友達でもいいけれど)が、画面を指さしながらこう質問してくる場面を想像してほしい。「この赤いキノコってなあに?」「マリオは土管に入れるの?」「水中で息継ぎしなくて平気なの?」などなど。こうした質問に、あなたならどう答えるだろうか。

「この赤いキノコは何か」と聞かれたとき、二通りの答えが考えられる。一つは「取るとマリオがパワーアップするアイテムだよ」、もう一つは「見た目はドクドクしいけど、ゲットしても腹を壊す様子はないから、食べられるキノコなんじゃないかな」。この二つの答えは、明らかに別々の事柄について話している。前者はそれがゲームの中でどういう機能を持っているかについての答えであり、後者はマリオの世界でのキノコの正体についての答えだ。こうした質問は、その意図をなんとなく想像することはできるが、実際のところ「どっちの意味で?」と聞かなければ、相手の真意がわかるものではないだろう。

ビデオゲームの画面に表示されるものは、たしかに「それ」として認識できる姿かたちをしている。けれど、それが何なのについて話そうとするとき、私たちは「どっちの意味で」答えるべきか判断に迷うことがある。本書がまず整理するのは、この認識の実態、つまりビデオゲームに表示される要素には、二つの意味が重ね合わせになっている場合があることについて掘り下げていく。この二つの意味はそれぞれ、キノコがパワーアップアイテムであることをゲームの側面として、キノコの正体についての想像をフィクッションの側面として、それぞれ異なる概念として考えることができる、というのが、本書の大枠の論点だ。

批評的な態度

そんな例は大げさなのではないか、と思うかもしれない。たしかに、ゲーマー同士の会話でこんなことはふつう起きないだろう。けれど、より込みいった会話、たとえばあるゲーム作品を評価するようなときではどうだろう。

『スーパーマリオブラザーズ』を評価するとき、おそらく多くの人は「ステージをクリアしていくのが楽しい」「あの敵を倒すのがおもしろい」など、マリオを操作して挑戦的な課題をクリアしていく過程について、感想を言うだろう。よりマニアな人は「あのコースは絶妙なレベルデザインだ」とか「ファイアボールの挙動がすばらしい」などと言うかもしれない。これは明らかに『スーパーマリオブラザーズ』という作品が意図的に作り上げたゲームの側面について語られている。

ではもう一つ、『ファイナルファンタジー』シリーズの作品について評価するときはどうだろう。ある人は「戦闘のシステムがよかった」「あのボス戦がおもしろい」と言うかもしれない。これはマリオと同様、ゲームの側面の感想だ。一方で「物語に感動した」「あのシーンが泣ける」と言う人もいるだろう。これは明らかにゲームの側面についての感想ではない。ファイナルファンタジーという作品内の世界での出来事、つまりフィクションの側面についての感想だ。

私はここで、マリオとFFのどちらが優れているかを話したいわけではない。それぞれに語るべきところがあり、その在り方には大きく分けて二種類ある、ということを確認した。この観点は、言われればたしかに、と納得してくれる人もいるだろう。けれど私たちは日常的に、こうした区別を明確に言語化することなく、「○○がよかった / よくなかった」「▲▲はおもしろかった / つまらなかった」といった言葉で評価している。もちろん、一般のユーザー(お客さん)が何を言うかについて、他人がどうこういうことではない。けれどビデオゲームをより深く理解したいと願う人たち(コアなゲーマー、批評家、ライター、そして開発者)にとって、こうした曖昧なやり取りではもの足りない。私が本書のような観点を求め、おすすめするのは主にこの理由からである。

ビデオゲーム作品を評価しようという態度は、その真剣さや必要性に差はあれど、今日ではごくふつうに、広く多様なかたちで行われていると言ってよいだろう。こうした評価、つまり当の作品の「善し悪し」を判断しようという試みは、これまで歴史的におこなわれてきた芸術の受容慣習と変わるところがない。本書が美学という、芸術の哲学からビデオゲームを分析するのは、こうした慣習がすでにあると認められるからだ。本書のオビに「ビデオゲームは芸術だ!」と書かれているのには、こうした前提があるのだ。(なので、あまり身構えないでほしい。)

二つの源流

ビデオゲームを一つの芸術の形式とするなら、それはゲームとフィクションが合わさったハイブリッドな形式と言える。ハイブリッドな形式とは、「オペラ(歌+劇)」「映画(写真+演劇)」「コミック(画像+物語)」のような、先行する形式の組み合わせとして生じる新しい形式のことだ。著者はその源流を、歴史的な経緯から指摘する。

1970年代、ビデオゲームは『Pong』や『Breakout』、『スペースインベーダー』などのアーケードゲーム文化から始まった。これらはピンボールマシンのような遊戯機器の延長線上のものとして親しまれ、80年代のコンシューマゲーム文化、それこそ『スーパーマリオブラザーズ』などへと引き継がれる。これがゲームとしての側面の源流である。

一方そうした文脈とは別のところで、TRPGの『Dungeond & Dragons』を始めとした、その作品世界の中でキャラクターになりきるような遊びが流行する。その流れから『Colossas Cave Adventure』『Wizardry』『Zork』などがうまれ、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』へと続いていく。これがフィクションとしての側面の源流だ。

こうした歴史は、ビデオゲームに詳しいユーザーにはそれなりに知られていることだろう。しかしその文脈は、国内におけるアクションゲームとロールプレイングゲームの勃興といった、ジャンルの歴史として語られることが多い。けれど実際に個々の作品を評価する点において、ジャンルという観点はたいして役に立たない。前述のように、FFはフィクションの側面で評価が高いとはいえ、ゲームの側面で評価されていないわけではない。また近作においては、アクション要素の割合が上がっていく傾向も見られ、もはや汎用的なジャンルの分類で括ることはむずかしくなっている。こうしたジャンルの融合は、FFに限らずあらゆるジャンルの作品で、世代を経るごとに進行している。

ハイブリッドな形式は、それぞれの側面が分離しているわけではない。ほとんどの作品はさまざまなバランスで二つの側面を抱えている。むしろその関係の在り方にこそ、ビデオゲームの独特な特徴を見いだせるだろう。先ほどから私は、「FFにはゲーム的側面とフィクション的側面があって、それぞれれ分けて考えられる云々」などと言っているわけだが、作品の評価において、これはあくまでも出発点に過ぎない。一本の作品がどのような在り方で独創的な作品として成立しているか。これを考えるにビデオゲームは質、量ともにあまりに複雑すぎる。本書の視点は、この複雑怪奇な芸術を読み解くための、一つの足掛かりとなるだろう。

ゲームとフィクション

ここまでゲームとフィクションの実態については、わりとフワっとしたまま進めてきた。当然、本書ではこんなにフワフワしておらず、しつこいほどの定義付けや分析によって議論を展開している。かといって、ここでその詳細を書くことは字数と著作権的に、中途半端に書くことは誤解を招く意味で危うい。本稿では大雑把な枠組みと注意点についてまとめておこう。

まずはゲームについて。ゲームの側面とは、ビデオゲームに限定されないゲーム、つまり将棋や野球などにも共通する、それ自体が経験する価値のあるプロセスを生むものだ。プレイヤーはそのゲームが求める制度(ルールや目的意識、期待される態度)を受け入れることで、その過程を楽しむことができる。将棋でいきなり相手の玉を摘まんで「はい勝ったw」とやることに意味はないし、野球の投球で相手の人体を破壊しようとすることはスポーツマンシップ上、許されないだろう。ビデオゲームが非ビデオゲームと異なるのは、そうした制度やプロセスを現実的に運用する役目を、物理法則や人間の判断ではなく、コンピュータの演算処理が自動的に担っている点にある。ここで、ビデオゲームが他のゲームとは異なる独特の芸術形式だといえるのは、コンピュータの有無ではなく、フィクションの側面を持つこと、つまりハイブリッドな形式であることに注意したい。コンピュータの有無は、ゲームという側面(プレイヤーの行為をかたち作るもの)の成り立ち方を大きく変えているだけで、側面そのものを全く別のなにかにしているわけではない。ビデオゲームを作る際にスポーツやボードゲームのデザインを参考することはできるし、逆に共通しえない要素から独自性を考えることもできるのだ。

つぎにフィクションについて。フィクションの側面とは、その作品が表す虚構世界や、特定の状況のシミュレーションを想像することだ。プレイヤーがその世界のキャラクターになりきるほど、そこでの出来事を自分事のように想像することができる。ただし本書は、フィクション上の出来事はたんにプレイヤーが「想像している」だけである、とする。その世界で冒険して、さまざまなイベントを自分事のように体験していると、それがさも「現実のように」感じられることはあるかもしれない。けれどだからといって、存在論的にフィクションの出来事が「現実である」わけではない。また虚構を想像するという点で、ビデオゲームと小説や映画などの虚構の在り方は、大きく異なるものでもない。ビデオゲームのフィクションが特殊なのは、その世界の内で冒険したり敵とたたかったりヒロインの片方と結婚したりすることが実際に「選べる」というインタラクティブ性にある。

以上のように、二つの側面はそれぞれ異なる先行形式の枠組みを継承しながらも、互いの特徴と関係すること、そしてコンピュータという媒体によって差別化されている。

類比的推論と行為のシミュレーション

本書は3部構成になっており、1部で前提の確認、2部でゲームとフィクションの側面を定義し、3部でビデオゲームならではの特徴について考察している。本稿の最後に、3部から二つの指摘、類比的推論と行為のシミュレーションを紹介して終わろうと思う。

類比的推論とは、画面上にある「それ」によって想像されるフィクションから、ゲーム的な意味を連想することだ。ダンジョンに「錠前のついたトビラ」があるとしよう。これを見たプレイヤーは「どこかにこの錠前を外すためのカギがあるのではないか?」と推理するかもしれない。当たり前のように感じるかもしれないが、ゲームとフィクションの区別から考えてみてほしい。例えば「錠前のついたトビラ」に向かってAボタンを押しても何の反応も起きなかった場合、それはただのフィクション(そういうデザインのトビラ)以上の意味は示されていない。にもかかわらず、おそらくビデオゲームに馴染みのあるプレイヤーの多くは、「このトビラを開ける手段(カギ)があって、先に進めるはずだ」と考える。これは紛れもなくゲームの攻略についての推論だ。このように、一見してフィクションしか示されていない状況から、ゲームの意味を推理していくことを本書では類比的推論と呼ぶ。例のように、この推論は過去のゲーム体験によっておおよその筋立て(あからさまな錠前があれば、どこかにカギがあるのだろう)を習得していく。「ゲームあるある」のような、よく考えたらおかしな習慣はこうした経験の積み重ねによって形成されたのかもしれない。また制作者が意図的に情報をかくし、プレイヤーに繰り返し推論させるようデザインされれば、それはアドベンチャーゲームにおける「謎解き」のような遊びになるだろう。

もう一つの行為のシミュレーションとはなにか。まず、プレイヤーはゲームの側面によってさまざまな行動をする。そうした行動は、その作品が想定しているような状況、例えば「レベルが足りなくてボスが倒せない」などの出来事を引き起きこすだろう。プレイヤーはレベルを上げるなりアイテムを集めるなりの工夫をし、そして見事ボスを倒す。この状況は純粋なゲームの側面についての話だが、大抵のビデオゲームではフィクションの側面として虚構的な意味を重ね合わせる。プレイヤーは「弱い勇者がデカイ魔物に勝てなかったが、修行と装備強化によってなんとか倒すことができた」というような体験を想像するかもしれない。こうした純粋なゲームの経験が、ある一連の出来事を表すフィクションとして見立てられることを、本書では行為のシミュレーションと呼ぶ。この見立て自体は、没入やなりきりなどの感覚的な態度を前提とはしないが、ビデオゲームのフィクションがインタラクティブなものであるという特徴と合わさることで、より強力に想像を掻き立てる効果が見込まれるだろう。

類比的推論はフィクションからゲームを、行為のシミュレーションはゲームからフィクションを連想していると言える。多くのビデオゲームはこの二面性の往復、もしくは循環によって、他にはない「ならではの特徴」をもつことができるのだ。

理論から実践へ

本書が指摘する「ならではの特徴」は、ビデオゲームのほんの一部に過ぎない。それも画面上にうつる視覚的な情報を、プレイヤーがどのように扱っているかという点に絞っている。それでも、何の手立てもないよりは、だいぶ見通しがよくなったのではないだろうか。

こうした理論を「当たり前のことをわざわざ難しく言ってるだけでは?」と感じる人もいるだろう。実際そのとおりで、本稿で述べたように、本書は既にある受容慣習をひとつの芸術形式として整理しているのであって、知られざる本性を暴き出しているわけではない。これを面倒な屁理屈ととらえるか、学術的な基礎ととらえるかは、読者それぞれに任せたい。

私は、ビデオゲームの話題における、ある種の逸話が苦手である。たとえば「RPGはロールプレイングという意味だから~」とか「プレイヤーはゲームの中に入り込んでいるので~」のような、直観的であるが故に否定しづらく、同時に主観的であるために議論のむずかしい観点。「ゲームってそういうもの」として徐々に既成概念化されていくそうした土台は、意見交換の舞台にしては脆すぎる。ビデオゲームは作品の内容だけでなく、それ自体として奥深く、興味深いものなのだ。

本稿はかなりざっくりとまとめた。本書で扱われている具体的な論理や厳密な用語法を、今回はあえてほとんどすっ飛ばして書いている。例え話も、自身の理解をテストする意味でアレンジしてみた。もしかしたら間違っているかもしれない。そんなわけで、ここまでお読みになって興味が湧いたなら、本書を手に取ってみてほしい。

おしまい


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!