9/24(火)同級生と出くわしてするっとなぜか出てきた自己犠牲について考える

高校の時の同級生を見かけた。
1年だけ同じクラスで委員会が一緒だった男の子だ。でも数えるほどしか話していない。

なんでその子がわかったかというと、まったく変わっていなかったからだ。髪型もふつう、女性みたいにばっちり化粧をしているわけでもない(その点女の子の同級生は出くわしても本当に分からない)。マスクもしてない。
自分で分かったのも意外だが、たしかに高校の同級生だった。
恋人か奥さんか妹かわからないけれど同世代くらいの女性と一緒にいて、優しそうな眼差しを向けていた。

何年分か年をとっていたその同級生をみて、私もあの時から何年分か年をとっているんだなと思い、自分の顔を思い浮かべてみたけれどよくわからなかった。
たしかにあれから寒さには弱くなったし体質的に食べられないものも増えたし、パワハラやいろんなトラブルに遭い、良い人々に出会い楽しいことも一通り経験し、ここまで走ってきた。
別に何がというわけではないけれど巡り巡って昔少しだけ袖が振れた人とまた会った。
不思議な偶然だ。

書いていて思い出したけれど、その委員会が始まった春、学年でひとりだけ代表者を決める会議があった。
特に代表者と言っても仕事はないよと顧問から言われたものの、なぜかみんな沈黙のドツボにハマってしまい30分も微動だにせず固まっていた。
私も中世の石像のように息を殺して固まっていたが、思い切って手を挙げて代表者になった。そして会はあっけなくお開きになった。
顧問(たまたま担任だった)から「よく挙げたね」とびっくりされたが、あのとき私は自己を犠牲にしたと思う。誰かが手を挙げれば早く終わるのだから、誰かが挙げてしまえばいい。まぁ自己犠牲は大げさかもしれないけど、私にはそういうところがある。自分さえ我慢すれば場が収まるとどこかで思っている。

今はどうだろう。
誰か自由が効かなくなった大切な人のお世話や介護をする人の中に、時々「心から」それを行う人がいる。善人というのかもしれない。
投げやりや義務ではなく愛を持って、人と、そして自分のために行う人が。
私はまだまだだと思う。なぜなら必死だからだ。
余裕も遊びもなければ俯瞰する空を飛ぶ鳥のような目も持ち合わせていない。そして、よそ見もするし自分のことしか考えていない。

買い物の帰り、夕方の薄暗い立体駐車場にはなぜか人っ子一人おらず、冷たそうなアスファルトを蹴る私のペタペタという足音だけが響いていた。秋を感じた。


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