みかづき 読了

森 絵都さんの『みかづき』を読了。
教育っていくら追究しても、満ち足りないものである感覚は、わずかな経験の中でも感じていたことでもあった。正解はあるのか。ないのか。教育についての議論は、右へ左へ上へ下へ、過去へ未来へを永遠に繰り返していくんだろうと思える。

でも、だからこそおもしろい面もある。なかなかゴールできないゲームだからこそ。

この時点で、ベクトルは教師たちだ。子どもはどこへ。

なら、教育は何のためにあるのか。誰のためにあるのか。今後はどこへ向かうのか。

教育に限らず、人々は気づいている。正解なんてないことを。政治にも社会にも文化にも。

じゃあ、何のために学ぶのか。教師も子どもも。学ぶだけ無駄じゃないのか。権力か。名誉か。欲か。使命感か。道徳心か。正解がないことなんて、やるだけ無駄にも思えてくる。一部の賢い人たちが折衷案を作ってくれたらいい。
だから彼らは、考えないんだなって、今何人か頭の中に浮かんだ。浮かんだのはすべて教師だ。

でも、やはり学びは必要だろう。どう考えても。
自分の目的のために学ぶ。よりよく生きるために学ぶ。じゃあ目的とは何だ。何のために生きている?人生って何だ。

教師も子どももどう生きたいかなんて、分からない。人生の意味付けをするのほきっと死ぬ目前だ。
だから、人々は今、どうしたいかという現在の目的によって動いている。正しいかどうかもわからずに。それが生きるということか?

教育に戻れば、子どもにとっての『生きる』を大人が自分たちにとっての『生きる』のために統制している。口では、子どものためにと言っていても、99%はうそだ。ベクトルは自分だ。子どもだけに向いているという人は逆に胡散臭い。自分と子どもが近い方向を向いていることはある。ごく稀に。本当にいい先生ってそういう人たちだ。

教育とは何か。いい教師って何だ。学ぶって何だ。人生って何だ。
『生きる』ためにそれを学ぶ。