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『誰かの背中を見つめるということは、その人がどんな景色を見て、何に向かっているかを見つめること。』 / 「窓」と「背中」の物語、映画版ルックバックを観て。原作版・ネーム版との違い。

映画版ルックバックを観てきた。

記憶に残るいい映画で、書き記したいなと思い、ネタバレ込みでレビューをする。

上映時間は1時間程。原作が中編読み切り漫画であることから、上映時間自体の長さは、間延びもせず、原作改変もない、ちょうどいい長さだったと思う。元々漫画が無料公開されてたこともあって、そのシンプルで実直なあらすじ自体は知ってる人も多いんじゃないかと思う。

天才だと思ってた自分が天才じゃないことを思い知る挫折と成長。孤独だと思っていた自分が孤独じゃないと知る友情物語と多幸感。喧嘩別れ。死別。喪失。後悔。ifと妄想。現実との邂逅と再生。

観てる瞬間は、感動して、イヤでも涙が出てしまい、登場人物全員を好きになるけれど、これまでに観てきたあらゆる物語たちを参照すると「見たことある物語」だなと、記憶に残らず消えてしまうんだろうな、と頭によぎるような、超絶ストレートで王道な話でもある。

でも、あるポイントが、ある原作と(静かに・かつ明確に)改変された一点が、本当にすごいな、嬉しいな、これが感動だ、これが心が動かされるということだなと、じわじわ記憶に残った。

そのポイントは、一見、改変されたかどうかも曖昧な部分だった。そして、気付かないまま「忠実な原作再現」として受け止める人も多くいた。それはそれでいいと思う。

でも正直、ここが変わることで「物語の最終的な結論」や「根幹そのもの」が全く変わるような、そんな大きな機能を持っているなとも思った。それを原作リスペクトをしながら行える映画の作り方自体も、ものすごい。

何が変わったか。

それは、ラストシーン、藤野が「なにも描かれてない四コマ用紙」を、自部屋の「窓」に貼ったことだ。

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終盤、美大に通っていた京本は校内で殺害される。

藤本は自責する。
『元々ひきこもりだった京本を「外の世界」に関心をもたせて行動させるきっかけを与えさえしなければ、京本は死ななかったんだ、もしそうしなかったら死んでなかったんだ。でもそんな世界でも京本には会いたいんだ』と。

そんな自責の念と、ifのイメージへ現実逃避する。大人気連載漫画の執筆も中断して、描く意義も気力も失って、いつかはじめて会った京本の自宅の部屋の前までは来るも、部屋の扉をあけることも出来ず、うずくまったままでいる。

しかし、京本の部屋の扉の隙間から、風に吹かれてこちら側にやってきた「京本が自分をモチーフに描いた四コマ漫画」を手に取ることで、藤野は立ち上がり、再び漫画を描き始める。

京本が自分の背中をずっと追って「絵を描く事」をしていたことを再確認する。背中を追いかけてるようで、追いかけられてたこと、それが今だって変わらず続いていたこと/いることを実感する。

それ以上の心情変化については、想像の域を超えないから、断片をしない。沈黙という描写がなされていて、見る人によって見方が変わるところが作者の意図だと思うから、断定しない。

そしてラストシーン、藤野は「四コマ用紙」を、漫画を執筆している自部屋の「窓」に貼って、エンドロールに向かう。

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この窓に貼られる「四コマ用紙」、実は
原作版
劇場配布されてる「原作ネーム版」
劇場版、
それぞれ全て、別の描写になってる。

まず原作版。
ページの流れ的には京本の4コマ漫画を貼ってるようで、実は「何を貼ってるのかがわからない」ように意図的に隠されて描写されている。


ネーム版、明確に「京本の家で読んで持ち帰った四コマ漫画」が描写されてる。

最後に劇場版、何度も繰り返し言ってるように「なにも描かれてない空白の四コマ枠の用紙」が貼られていた。

「何も描かれていないコマ割り用紙」が何を意味するか
僕が思うにそれは、
藤野にとっても京本にとっても共通する「最も根源的な創作の原点」だ。

そして、「追いかける背中のようなもの」であり、
「世界を広げてくれるための窓」のようなものだと思う

この結論の補足として、この映画における「窓」と「背中」の話をする。

この物語では、何度も繰り返し執拗に、印象に残るように、とても丁寧に「窓」「背中」が描写される。
藤野と京本はお互いに、窓に向かった机で絵を描く。小学生の頃の藤野の家の窓は小さくて、けれど四季折々の変化が描写される。

大人になった藤野は人気漫画家になって、壁一面の窓に向かって作業をする。これは明確に、作品を描くことで接続されるようになった世界の広さの象徴だ。

外と接続するための窓に、漫画のネームたちが貼られて、外が見えなくなるシーンも、露骨なくらいの象徴的な描写だ。

二人が絵を描く理由、どうして描き始めたのか、どうして描き続けたのか、それは、明確に言葉で説明されることはない。

軽薄な理由(天才だよなと言われて鼻が高くなってる様子)や、友達と遊ぶのも家族と過ごすのもやめてまで努力した先で比較してやめることを選んだ描写。という、表面的な軽薄さだけが描写されるのは、ミスリードに過ぎない。

二人が共通して根本的に絵を描くことに抱いてるイメージとは、四コマの枠組みのような「物語が0から生まれる土台」で、藤野にとっては京本/京本にとっては藤野のような「追いかけたい背中」で、「世界を広げてくれるための窓」なのだ。

誰かの背中を見つめるということは、その対象がどんな景色を見て、何に向かっているかを見つめることでもある。
そしてそれが、ワクワクする。楽しい。ドキドキする。面白い。そんな、根源的な情熱が、二人にはある。

じゃあ、これらをふまえた上で、ラストシーンで立ち上がった藤野が、自分の仕事場に貼る四コマが「京本が描いた4コマ」だったらどうだろう。

それは、過去への後悔と憐憫がまだまとわりついてる。重苦しい終わり方だと思う。ただただ、藤野、つらいよな、悲しいよな、苦しいよな、という、後味の悪い物語だったなと思う。

原作の「どちらにも捉えられるように隠された描写」にすること。これは原作がそもそも評価されてるから、自分が少数派だとも思うんだけど、個人的には、考察班を盛り上がらせるためだけの毒にも薬にもならない終わり方だなと思う。

劇場版ルックバックのラストで、
藤野は、「枠だけの空白の四コマ」を貼った。
創作の原点の象徴としてのそれを。

その行為は、藤野が京本の家で京本に対して何を思ったのか、どの瞬間の出来事を思い返したか、「京本が何を思ってたのか」を想像したか、沈黙だからこそイメージする深みというものが、ものすごく強化されるなと思った。

藤野は、「漫画を描くための枠そのもの」を、漫画を描く上で「常に向き合う対象」にした。
絵を描くことで世界を広げてくれる象徴としての「窓」の手前に。

そうやって、失ったものとの縁を作った。折り合いをつけた。
心の底から、美しい人間の姿だと思った。

モノづくりを生業とする自分のこともまた好きになれる。
そうだ、そんな情熱がベースにあったんじゃないかと希望を持てる。
そんな、美しい映画だった。


nisai 松田直己

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