芸術作品に対する不快感の謎

自分は小説の読み方が人とは違うのかもしれない、と思ったのはつい最近のことだ。
考えてみてほしい。小説でも映画でもアニメでもよいが、その作品を見る時、登場人物に感情移入をするだろうか。また、登場人物を通じた疑似体験をするだろうか。そして、それらはどれくらいの強さで自分が感じるものなのだろうか。
私は小説を読む時は作者との対話だと思っている。わかりやすく言えば、人から聞いた話に共感もするし、想像して自分がその立場になった時にどう思うかも考える。それと小説を読むことは私にとって同じ視点や距離感なのだ。傍観者的な視点、そして、遠からず近からずといった距離感である。

ただ、多くの人間も人の話を聞いて、いくら同じような体験や心情になったからといって「この話に出てくるのは自分だ」と思うことはないだろう。
しかし、小説の場合はどうだろうか。登場人物の中で自分と似たような体験や心情が現れると「これは自分だ」と思う人もいるだろう。例えば太宰治の人間失格に出てくる登場人物、大庭葉蔵に自己投影して「これは自分だ!自分のことを書いてるんだ」と思う人は多い。人間失格が多くの日本人に読まれている理由はそこにあると思っている。ただ、私はそういう感覚になることは滅多にないのだ。そういう風に小説を読むのは、もしかしたら少数派なのかもしれない。

そんな読み方をする私は、ある小説を読んでいると不快感を覚えた。それは文豪、村上春樹のノルウェイの森だった。誤解しないで欲しいのだが、ノルウェイの森の全てに不快感を覚えるというわけではない。私はノルウェイの森の「性描写」に対して不快感を覚えたのだ。

そこで、私は実験をしてみようと思った。どんな実験かというと、他の作家さんが書いた「性描写」が出てくる作品を読んでも不快感を覚えるのかを調べるというものだ。

そして私は村田沙耶香の消滅世界を読んでみた。この作品は全体的に「性描写」が出てくる作品だった。

結論から言うと、村田沙耶香の消滅世界の「性描写」には不快感を覚えなかったのだ。自分としては衝撃的なことだった。

それではなぜ、ノルウェイの森の「性描写」にだけ、不快感を覚えたのだろう。聞いた話によると村上春樹は作品の中の会話文を推敲せず、そのままの状態で出版するらしいのだ。いわば会話文は「無加工」の状態なのだ。一方、村田沙耶香はどんな文章を書くかというと、とっても作り込まれた緻密な文章を書く。一切の無駄がなく、細部まで考え尽くされた読みやすい文章だ。それは「加工」し尽くされているということだろう。

さて、それを踏まえて私の小説の読み方を思い出してみてほしい。私は小説を対話だと思っている。では、対話の場合、みんな脳内にある意見を「無加工」の状態で言葉を発し合って会話をするだろうか。いや、しないだろう。みんなある程度、頭の中のフィルターを通してから自分の言葉を発すると思う。頭の中のフィルターを通すというのは小説における推敲だと思う。それを踏まえた上で、仮に友人とプライベートな話の性的な会話をしたとしよう。その時に、行為に及んだ相手との会話、一挙手一投足まで事細かに「無加工」で話す人はまずいないし、そもそも、そこまで再現性を高くして話すことなんてできない。だが、小説はできるのだ。その時の空気感や自分の感覚、相手の反応まで描写することができるのだ。村上春樹はむき出しのリアリティのある会話文と性描写をしたからこそ、私が不快感を抱いてしまったのだ。人のプライベートなものを覗き見してしまった感覚、それによる罪悪感。生々しさ、グロテスクさ、それを受け取ってしまったからこその不快感だった。

では、不快感は悪なのか。ノルウェイの森は悪で、消滅世界は善なのか。価値があるのか否か。
それはどちらも良い作品で、価値のある作品だと私は思う。もちろん、加工されて緻密に作られたものはそれだけの精度や質の高さがあるから価値はあるだろう。では、無加工のものにも価値があると思うのはなぜかというと、人が本当の意味で無加工のものを不特定多数に提示できる場所は芸術の世界しかないと思うからだ。また、芸術というのは人の心に何かを強く訴えるものであればある程価値があると言えると思う。その点で、無加工でむき出しのものというのは強いと思う。無加工でむき出しのものは、とても刺激が強い。日常生活では触れられない他人の無加工でむき出しのものに触れた新鮮さ。無加工でむき出しだからこそ、頭で理解して解釈するのではなく、五感や感覚、感情に訴えてくるものがあると思う。そう、私の思う不快感の正体は、刺激が強すぎるが故のものだったのだ。そこにはしっかりと価値があると思った。
芸術で言えば、印象派の彫刻家、ドガの14歳の小さな踊り子が人々から嫌悪されるのにも関わらず、価値を認められ、今まで現存しているのは上記に述べたようなものがあるからこそだろうと思った。また、緻密で加工された文章と無加工でむき出しの文章をひとつの作品に組み込む村上春樹はやはり「文豪」と言われるだけあると思わされた。
今回考えたことを通して、不快感を覚えるのに価値があると思うのはなぜなのかがわかって晴れやかな気持ちである。そして、芸術における不快感の重要性にも気づけたので良かった。長くなってしまったが、ここまで読んでくれたことに感謝したい。ぜひ、あなたが不快感を覚えるものに対してどんな答えがあるのか、私に教えてくれたら幸いだ。

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