偽善について。

こんばんは。涅槃したいJKりのちです。

筆が乗らず、更新が滞っていましたが最近また書きたい気持ちになりました。本当は怒りを昇華したかったのですが、詩の書き方を忘れてしまったので思考を書き記して置くことにします。

さて、今晩は「偽善について」を書いていこうと思います。

ある時友人に私が「思考するテーマがない」と言ったら「偽善についてどう思う?」と言われたのがきっかけで偽善について考えました。

まず、偽善について考える時に「利己的」と「利他的」について定義しておきます。

利己的というのは完全に自分のため。

利他的というのは自分と他者のため。

と定義します。

本題に入ります。

「行動」の結果が完璧な利己的なものならば偽善。

「行動」の結果が利他的なものならば善。

だと私は考えました。ここで重要なのが、行動をした人の動機に関わらず、行動の結果を見るということです。

例えばAさんがBさんに「若い内に苦労しろ」と言ったとします。Aさんからそう言われただけでBさんが苦労して何かしらの経験値に繋がったのなら、Aさんの行動は善になると思います。ですが、Bさんが何もしなかった場合、Aさんのお説教は偽善になってしまいます。AさんがBさんのためを思って苦労をするまで責任をとったのならそれは善になり得たのでしょうが、お説教だけではどちらの可能性もあるということになります。

では、なぜAさんの動機に関わらず利己的な偽善と言えてしまうのか。もしかしたら、AさんBさんを叱責することで日々の不満を晴らしていたかもしれません。それくらい動機というものは曖昧で不確定なものなのです。それに伴う行動こそが動機を裏付ける証拠になることができると私は思うのです。

こういう考え方というのも私はふとある時何事も、「動機より行動を見るべきだな」と思ったことに付随します。人がしてくれた動機ばかり見るというのはとても曖昧で不確定で、時に自分を苦しめることになるのです。でも、これは私の考え方に過ぎません。みなさんの中の「偽善」について、今ひとつ考えてみてはいかがでしょうか。それでは今日はこの辺で。

涅槃したいJKりのち。


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