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酒場にて


カウンターの右隣に座っていた男は正面にいたマスターに言った。

『おい!お前の顔みてると酒が不味くなるんだ、この野朗!』

するとマスターは受け流すように答えた。

『はいはい、そうですね〜』

恐らくだが、日常の習慣的な会話の流れとして、これはこれで成立しているのだろう。

しかし、隣りに座る私は気が気ではなかった。

明らかにガラの悪いその男にいつどのタイミングで悪態を突かれるのか
予測が出来なかったからである。
無意識に握りしめたグラスの氷はいつの間に溶け、
縁に着いた水滴はコースターの上に雨上がりのように溜まった。

焼酎は当然の如く薄まり、握りしめていたグラスは生温く湿っている。

そんな私に目もくれず男の容赦無い一方的なトゲのある愚痴は止む事なく
吐き出され続ける。
そして男の愚痴には最後に必ず『この野朗』が付属した。

『おい!おかわりだ!この野朗!』

『おい!速く持ってこい!この野朗!』

次第に時間が経つにつれ

その規則性を帯び、パターン化した

『この野朗!』に

私は徐々にではあるがある種のスパイスのような
心地良い刺激と面白味を感じるようになった。

『この野朗!』『この野朗!』

連呼される怒号が混じった『この野朗!』は
いつしかコールのように鳴り響いた。

緩やかにエコーがかった50sドゥーワップが流れ、
微かにミントのような青色の香りが心地良い店内。

そこに、ばら撒かれた

まだ乾ききれていないグチャグチャの泥水の中埋もれたダイヤの原石。

私はトキメいた。

そして男の話しは出張先の地方にあるラーメン屋の話しとなった。

『めちゃくちゃ美味いラーメン屋があってよ。毎日通ってたんだ。
でよ、こっちに帰る日によ、最後だからって食いに行ったんだわ。これがまた美味くてよ、俺、感極まってよ、店のババアに言ったんだよ。

"おい!ババア!うめーんだよ!この野朗!"

ってよ』

酒場にて
私は崩れ落ち笑った。

男は少し嬉しそうだった。
そんな顔が、私は少し可愛いと思った。

文:エンスケドリックス
写真:原田ミカメラ

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