ともに生きている、ということ
何かを育てることの楽しさとは、何かと一緒にいることの楽しさだ。
うちのアパートの庭には、三本のメタセコイアが置いてある。まだ、公園に立っている高く大きなメタセコではないが、そんなことは気にならない。
確かに彼らは育っていくものなのだが、だからといって育って行く途中の彼らが、仮の姿だとか、未熟なものだとか思うわけではない。育てていく楽しさはいつも課程にある。
むしろ、そうやって生き生きと育っていく彼らは、育つことに夢中で、見ている僕らの方に構わない。それよりも、太陽や雨や、じょうろの水、風と、彼らは深く関わって生きている。
一緒にいさせてもらっているのは僕らの方なのだ。すくすくと育っていく彼らの、昨日よりちょっと背が伸びたとか、葉が茂ってきたとか、季節によって色が変わるようになったとか、その一つ一つの出来事がプレゼントで、僕たちの喜びになっている。その喜びのためだったら、ためらいもなく土を買ってきたり、肥料を指したり、虫がついていたら追い払ったりしている。「しなきゃ」と思うよりも先に手が動いている。
こんな風に自分のからだが働くのは初めてだった。仕事をする延長とか、新しい仕事が増えるなぁと思って育て始めたのだが、そんなことはなかった。朝起きて、鉢の土が乾いていたときに、自然に水をやらなきゃ、と思うのだ。
何かが起こってしまった後よりも、何かが起こるまさにそのときに、立ち会える幸せがある。
ユウタが生まれた瞬間がそうだった。そのときは、ナオさんと一緒にいれて本当に良かった。病院の中で、涙が出た。ナオさんも顔を赤くして泣いていた。それよりもずっと、ユウタが裸で、一生懸命泣いていて、なんだか笑えてきた。助産師さんが、優しく抱きかかえて、ナオさんに泣いているユウタを渡した。心からうれしいのだ、と思った。
それから、赤ちゃんのユウタをめぐる、忙しい日々が始まったけれど、ユウタを見で顔を見合わせて笑ったり、時々つかれたナオさんの顔を見て、別々に過ごしていたら決して見られなかっただろうな、と僕は思うのだった。
ユウタと一緒に、モクもキンもドウも立派に育っていった。パパとママ、といえるようになって、彼ら三本のメタセコの名前も言えるようになった。二人でちょうど良かったアパートの部屋は、三人で少し窮屈になった。
数々の「なった」の前には、何か朝方に花がゆっくりと開くような、意味が生まれる瞬間がある。すでにそうだったからじゃなくて、どうしてそうなったのか、そのときどうやって二人出過ごしていたのか、どんな風に笑ったのか、すべて僕が、体験してきたことだ。
それが、とても幸せだと思っている。体験の中身は、どんなくだらないことだっていいのだ。
髪が伸びたね。とナオさんが僕を見て言った。僕もまた、みんなと一緒に生きて、育っている。