「好き」という言葉が濃すぎるなら
「ソイラテって、コーヒー豆と豆乳だから、相性抜群なんじゃない。」
僕と一緒に時間を過ごしているナオさんは、カフェインの量を減らしたいと思っている。だから、毎日自分でインスタントコーヒーのスプーンに乗せる粉の量を調整している。最近は、もう、スプーンの先っちょでちょっと粉をつつくだけで、コーヒーカップに入れ、お湯を注ぐ。お湯は少しだけ。そして、豆乳を注ぐ。それで、ソイラテの完成ってわけだ。
ユウタが窓から庭の三本のメタセコたちを見て、遊びたそうにしている。庭があるからいいが、僕とナオさんが二人で暮らしていたこの部屋に、わいわい動き回る子どもが一人増えると途端に狭くなる。 子どもってすごいと思う。大人が想像するすべてのことを超えて生きている。想像を超えているのに、大人を納得させる不思議な力を持っている。
「メタセコ」ときれいに発音したときは、ああ、この子は僕がこの木に出会うまでの、二十数年を飛び越えて、二歳の時に「メタセコ」に出会ってしまったのだ、とあっけにとられた。子どもが、かつての自分というメタファはあまり正しくない。未来の自分と言うべきか、自分であって、自分の人生を共に生きてくれる人。素っ頓狂で、すべて的外れのようで、すべてが詩の言葉のようだ。
一緒に生きてくれている、と言うならば、ナオさんもその一人だ。一緒に過ごしているうちに、ナオさんのことが、もっともっと素敵な人だ、と思うようになった。
しかし、どれだけナオさんを褒めても、ナオさんは「ありがとう」と素直に受け止めるだけで、僕が心の中に感じているナオさんの素敵さをすべて表せている気がしないのだ。と言う、僕もナオさんのことが「好き」という気持ちを、どうやって言葉にすればいいのか、よく分かっていない。
朝起きたパジャマ姿のナオさんも、着替え中のナオさんも、化粧中のナオさんも、化粧をして整ったナオさんもすべて、かわいくて素敵なのだ。それにいちいち感動していると、生活が成り立たないし、ユウタも「かわいい」とナオさんに向かって褒めるようになってしまったし、早急にどうにかしないといけない。
もしかしたら、コーヒーを薄めて、ソイラテにするみたいに、「好き」も薄めたらいいのかもしれない。純粋な「好き」という言葉は、そのままでは濃すぎるのだ。
だから、作ってあげる料理に「好き」を込めたり、仕事で疲れた肩をマッサージしたり、ユウタと三人で過ごす時間の中で思ったり、寝静まったユウタを眺めながら静かに思ったり、日常のどんな場面でも、「好き」と何かを一緒に思えばいいのかもしれないな、と思った。