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私が私というわけではなく

私とはなんだろう。と、問いかける。まず、「私」という何かがあると思いそれを言葉でひとくくりにする。そして、「とは」という言葉で意味を掘り下げるように考え始める。最後に、「なんだろう」とまだ見つかってない意味に意味があるかのようにおもむろに首をかしげる。

「私とはなんだろう」と、問いかけることはどうしてか、初めからその行き着く先がわかってしまっている道を歩いているかのように感じる。「私」というものに、何か大切なものを初めから見据えておいて、そして「なんだろう」ということで大袈裟にそう問いかけて、それが当然なのだというように考え込んでしまう。

ふだんの暮らしの中で、「私とはなんだろう」と取り立てて考えることはない。考えている暇もない。「私」という言葉を知らなかったら、そのような問いを問いかけることすらしなかっただろう。心の奥底には、「私」なんてものはいないだろう。そこには、もっとさまざまな、感覚や感情や出来事がごちゃ混ぜになったまま置かれているだけだろう。何も、それを抽象化して「私」という必要はない。

あなたに対して、「私」という言葉ができたのならば、初め「私」という言葉は単に自分の方を指す言葉にすぎず、「私とは何だろう」というように問われるような大袈裟な意味は持っていなかっただろう。

いつからそうなった、と考えても分からないが、世の中を渡っていく上ではどうやら、「私」についてあたかも意味があるように語れるようになった方がいいらしい。自己紹介とか、名刺とか、プロフィールとかでいやでも「私」を語らなくてはいけない時がある。

私のことを知らない人のために、それらはあると言えるのだが、果たして知るべき私などあるのだろうか。知るということもまた、「私とは」と語れるような、概念的な範囲の私を理解するということのような気がして、語れば語るほど、これもまたふだんの私とは離れていく。

概念だけで、人をみることは出来ないし、私たちを本当に形作っている細々とした出来事をひとまとめにしてしまうと、そのとたんに別のものになってしまう。言葉よりも、その人そのものの方がよっぽどその人を示している。

「私とは何か」と何も考えずに考え出してしまうことは、そのことを忘れてしまっている。「あなたは誰だ」と問うことも、そうしたあたかも問いのような形をしたもので人をわかろうとすることも、どこかで壁にぶつかるだろう。

私たちが、明らかに分子や細胞の集合体ではないように、私たちはまた、そのような言葉の集合体ではあり得ない。言葉だけ、物質だけで考えようとすると言葉と言葉以外のもので世界はきっぱりと分かれてしまう。分かれてしまった片方の部分だけで、もう片方を見つけることができない。

本質とか、本当の何かとか。それが何度も問い詰められているのは、片側しか見えていないからだ。だから、その向こう側に何か意味があるように思えてくる。しかし、はじめにそれを分けたのは誰だったか。「私とはなにか」と問いかけたその私ではなかったか。つまるところ、自分で作り出した問いに、自分で答えを作っているだけである。それは、私が作り出した私であって、もうそれは私ではない。それは、言葉で言い表せる私であって、今ここに生きている私ではない。

本当はどうか、など考えるよりも、本当そのものになってしまう方がよい。私が私であるままに、あなたがあなたであるままに、それを感じ取る方がよい。「私とはなにか」と問う前に、私はどうしようもなく私なのだ。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!