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好きでなくてもいいかもしれない

文章を書くのが好きか、と聞かれたら何も考えずに「好きです」と即答する。しかし、少し考えてみたならば、別に好きである必要はないと思えてきた。

どうせ、毎日、書かなくてはいけないのだし、書かないと生理的に気持ちが悪くなる。だから、楽しんで自分からやっていることではなく、やらなくてはならないことだ。好きになれたら楽しいと思うが、好きにならなくてもいい。

何も考えずに、「ただやる」と物事に取り組めるようになった。それは、何かのためにするよりも、気負いがなくて緊張感がなくて、期待がない。

文章もそれでいいのだと、思えるようになった。ただ書いていれば良い。毎日決められた時間に、書けるだけを書いていれば良い。それが何の役に立つのか、自分自身では問わなくても良い。それは、書かれた文章が後から決めれば良い。読んでくれる人が決めれば良い。

だから、好きになる必要はない。

どうして、「好きになる必要はない」とあえて言いたくなったのだろう。

その背後には、何かをするためにはそれを好んでしていないといけない、という前提があるからだろう。もしかしたら、説明が欲しいのかもしれない。

「どうしてそれをやるんですか」という質問に対して、「好きだからです」と答えが返ってくると安心する。逆もそうだ、「好きなものは何ですか」と問いかけて、その人がどんな人なのかを知ろうとする。

「好き」という言葉は、私たちがその人を理解する一番簡単な取っ掛かりなのだ。どうしてそれをやるのか、あなたはどんな人なのか。それに対して、一言で説明できてしまう。

そのような説明になれていると「好きでない」ということが否定的であるかのように感じられてしまう。何も言わないことが、暗に否定を示すという空気もある。とりあえず好きと言っておけばいいような雰囲気もある。

しかし、実情はそんな簡単に好きか嫌いかで分けられることの方がめずらしい。

文章を書くのが嫌いかというと、そうでもない。好きでも嫌いでもない。

そんなふうに説明されると、少し不気味に感じるかもしれない。好き、嫌いの尺度で、どうしてそれをしているか、その人はどんな人なのかを説明することができないからだ。しかし、書いている私の方は、どっちでもいいと思っている。書くという選択肢以外にはないのだから、しょうがないと開き直って書いている。好きだからやる、という理由をこしらえても、それは後付けで、きれいごとを言っているようにすら思える。好きか、嫌いかを考える前にもう書いちゃっているのだ。

説明するとしたら、書く前にあるのは「書かなきゃ」という軽い義務感である。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!