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文章の現場主義

書いている途中に、新しいことを思いつくことが多い。考え事をしているときに、頭の中でもやもやしている物が、書くことによって形になる。だから文章を書く前にその構成を作るのもいいけど、書きながら考えるというスタイルもありうる。そういったスタイルを文章の現場主義と呼べるのではないか。

文章にも現場という物がある。

趣味で小説を書いている。登場人物の設定を書き始める前に考える。しかし、設定ノートなるものを作っても書くときには、あまり見返さない。設定を立てている時はノリノリでいくらでも情報を細かくできる。しかし、いざ書くとなると設定ノートは役に立たなくなってしまった。

私の設計が下手なのかもしれないが、文章というものは文章そのものでできている、という性質にもよるものかもしれない。と考えている。

「文章とは文章そのものでできている」何を当たり前なことを、と思われるかもしれない。しかし、頭の中で小説の設定を練っているとき、私ははその当たり前なことを忘れてしまっていた。設定はあくまで設定であって、小説そのものではないのだ。

頭の中で、イメージされたものはそれ単体では存在できない。それを文章にして書いた途端に、「ある概念について言及している文章」になってしまう。表現するという事は、自分の中に思い描いたものをそのまま外に出すという単純なことではない。むしろ自分の外にある物で、自分の中にあるものを出来る限り再現してみることだ。

言葉は思ったよりも自由に使いこなせる物ではない。言葉には言葉そのものの手触りとか形があるように思う。まず自分が言いたいことの前に、言葉が持つ質感を確かめながらこれで何が言えるのだろう、と考えつつ書いている。

書けば書くほどに言葉が自分の外側にあり、自分の中にある「書きたいこと」がそう簡単に文章にできない物だとわかる。自分と言葉がいつの間にか分離されていく。

その場合、歩み寄らなくてはいけないのは書き手の方だ。逆に、言葉を書き手の方に引き寄せる事はできない。

言葉とは、自分が生まれる前から他人によって共有されてきたものだ。そして、自分の考えとは関係なしに流通し、独自のルールを形成してゆく。だから、言葉とは書き手のものではない。

書き手は、言葉の中で考えなくてはならない。言葉の中に飛び込んで行かねばならない。思考によって思考するのではなく、言葉によって言葉で考える。それが文章の現場主義だ。

その言葉の世界では、現実世界の感覚とは違った感性の世界がある。その全く新しい世界で私は、何度も転びながら自分なりの歩き方を模索している。

そうした言葉の中での「もがき」がいつしか文体になる。自分なりの泳ぎ方という物が形作られてくる。また、そうした人々の「もがき」が言葉全体の流れを作ってゆく。


最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!